飲みつ飲まれつ





「副長。宜しいでしょうか」

 襖の向こうから呼びかける静かな声に、ふと土方は顔を上げた。
 夕食を終え、部屋に戻ってからどれくらい経っただろうか。障子の向こうに明かりは見えず、室内の空気も薄ら寒くなっている。見れば少し離れたところへ置いたままにしていた火鉢の火が消えてしまっていた。爆ぜる音すら気づかなかったのは集中していた証でもあるが、それだけ余裕がないともいえる。
 根を詰めすぎただろうかと首筋に手をやりながら、「入れ」と口にする。然程大きな声でもなかったが、聞き逃すことなく襖を開けた男が頭を下げた。くせのある髪をややぞんざいに一まとめにした、その一束が肩をすべり垂れ下がる。
 尾っぽのような髪はしばらく前に土方の小姓となった少女も同じだ。ちょこまかと動き回って働く彼女はじゃれつく子犬のようでもあるし、それを用心深く見守っている斎藤はさしずめ親犬か。
 浮かんだ下らない物思いを振り切るように目をやれば、襖を閉めた斎藤が再び軽く頭を下げた。

「今宵は皆で酒を飲まないかと平助たちに誘われました。局長と井上さんはもう引き上げられましたが、その折、副長にも声をおかけするようにと」
「何で俺まで……。てめぇらだけでやってりゃいいじゃねえか」
「千鶴が肴を用意しています。新八の酌に捉まっていましたが、副長に夜食を差し入れたいと気にしていました」
「食いに来いってか?」
「あまり無理をされては局長も心配されます。……寝酒は好かれませんか」

 愚直な、けれどその太刀筋のごとくまっすぐな男である。宴会への誘いにしても、早く休むよう勧めるにしても、今一つな言葉ではあったが、土方は笑いを飲んで肩をすくめた。近藤と千鶴の名前を混ぜ込む辺り、それなりに土方という人間を知っているらしい。

「それほど無茶はしてねえよ。だがまあ、腹は減ったな」
「……木の芽の炊いたものが美味でした。局長があらかた食べておられましたが、さきほど作り直して持ってきていたので、まだあるかと。絹さやの煮たものも、いい味でした」

 しらふのようで、案外斎藤も飲んだくれているのかもしれない。酒気はないが、食べ物の話になった途端少し気がそれた。食い意地だけは他の連中よろしく凄まじい斎藤のことだ。今こうしている間にも食べ逃しやしないかと気がかりなのだろう。もっとも、それを表に出しはしないし、そのために近藤や土方への応対が疎かになるようなことは有り得ないのだけれど。
 優秀で忠実な部下のためにも、おそらく泥酔しているであろう永倉らに捉まりながら気に掛けてくれた千鶴のためにも、早く行ってやった方がいいのだろう。わざわざ斎藤を呼びにやった近藤たちにも向けた苦笑を飲み込んで、重い腰を上げた。





 壬生で新選組の前身となる浪士組を結成したときから、荒くれ者の集まり、飢えた狼――壬生狼とあだ名されてきた。必要とあらば誰であろうと斬り捨てる。それがただの狼藉働きとならぬよう己を戒めるため、破れば腹を切れと厳しい掟を設けた。
 平素気の合ういいやつらばかりではあるが、学のない者も多い新選組は荒々しい男たちのたまり場のようなものである。それらを纏める幹部隊士は、腕も立てば覚悟も違う。修羅場に相対して高揚こそすれ、たじろぐことなどありはしない。
 そうだったはずだ。千鶴が来るまでは。

 宴会場と化しているはずの広間からはざわめきが聞こえたが、どうも様子がおかしい。土方が隣を行く斎藤へ目配せすると、斎藤も訳が分からないと浅く首を振る。訝しがって顔をしかめつつ戸を開け放った土方は目の前の光景に呆気に取られ、彼にしては珍しいことにそのまましばし呆然とした。
 ぺたんと床に座り込んだ千鶴が、顔を覆って泣きじゃくっている。
 転がる徳利、杯。しゃくりあげる千鶴の震える肩。
 ざあっと血の気が引く音がした。同時に、頭へ上る音も。ギッとねめつけると、こちらの様子にいち早く気づいた二人の顔が大げさに引きつった。

「ひっ、土方さん! いや、これは、その……」
「ち、違うんだ、俺たちじゃねえ! いつのまにか、その、なあ!」

 酩酊した赤ら顔に動揺を張り付かせた原田と永倉が体で壁を作るように慌てて立ち上がる。が、千鶴の姿はもう見えてしまったし、第一、おろおろした平助が手を上げたり下げたりしているのまでは隠しようがない。
 土方同様に目を瞠り絶句していた斎藤が、我に返って土方と部屋の奥――正確には、原田と永倉が隠そうとして、平助が手をこまねいている、千鶴に視線を走らせる。土方が困惑したまま動く様子がないのを見て踏み出した足を、けれど疲れたような声音が引きとめた。

「やめときなよ。その子、何言っても通じないんだから」
「……これはお前の仕業か?」
「まさか。勧めたのは左之さんで、猪口を渡したのは新八さん。お酒を入れたのは平助君だよ」
「お前はそれを黙って見ていたのか」
「遠慮してたから『美味しいよ、僕らの酒は飲めないの?』って聞いてあげたくらいかなあ」
「……『お前ら』の仕業なのだな」

 諦めたように深くため息をついて、斎藤はへたり込む千鶴の前に膝を折った。泣きそうな顔で目を向けてきた平助と場の様子から見ても、千鶴が正気でないのは容易に分かる。泣くとして、こんな風に恥も外聞もない子どものような泣き方をするとは思えない。斬るだの殺すだの言われていた時分だって泣かなかったのだ。傍らに転がった杯のせいに違いない。

「ひっ……う、ううっ……ふうぅ……ひ、っく……」
「……千鶴。どうした、何故そうも泣く」
「ひっく……うう、とっ……さ……って、る……のに……」
「誰か口さがないことを言ったのか? ……手討ちにしてやる。名を言え」
「おいおいおい、ちょっと待て! 待てって!」

 斎藤の声色が不穏な色を含んだところで永倉が斎藤と千鶴の間に割って入り、千鶴の淡い桜色の着物にそろりと触れた。

「お、俺たちは何もしてねえよな、千鶴ちゃん! なっ、なっ!?」
「ふえっ……ふ、うぅ……っ!」
「どけ、新八。……大丈夫だ。安心しろ、千鶴。腐っても幹部だ。殺さぬ程度に済ませる」
「だから待てって!」

 あわあわと二人を見上げながらも泣きじゃくる千鶴に気を取られていて、平助は動く気配がない。弱りきった様子で頭を掻いた原田をあごでしゃくって呼びつけると、土方は少し離れたところへ腰を下ろした。どうも、誰が宥めたところで今すぐに泣き止ませるのは難しそうだ。

「どうなってやがる」
「流れは総司が言ったとおりだ。ちびちび飲んじゃいたんだが、一杯飲み干したぐらいから大人しくなっちまって。気分でも悪くなったかと声をかけたんだが、もう泣いちまってて……な」
「なんだ、泣き上戸か?」
「それだけならいいんだが……」

 言葉尻を濁して千鶴を見る原田の目は心配そうに細められている。女に甘く、千鶴には輪をかけて気を回す原田のことだ。酒の席で浮かれていたのもあっただろうが、飲ませてしまったことを今さら悔やんでいるのだろう。猪口一杯で酔いつぶれるとは酒に弱い土方にだって想像のつかないところだから、いくらかは仕方がないとも思えるが、さて。
 広間にいるのは自分たちだけだから、この有様が周囲や他の隊士に知れることはないだろう。泣きじゃくる千鶴の姿はいつも以上に男装を無意味なものにしてしまっているが、幸いここにいるのは事情を知る者ばかりだ。その点だけが救いとも言えるか。

「何にしても、このまま放っておく訳にもいかねえか」

 小さな体をさらに小さく見せる、心許ない千鶴の震える肩を見て土方は瞑目した。





自分で何とかする
誰かに任せる
成り行きに任せる


……懐かしく穏やかな昔日だ。