「おい、平助!」

 誰かに呼ばれたようだとは気づいていたが、平助は目の前で泣きじゃくる千鶴の姿にただ愕然としていた。屯所へ来たばかりの頃、今よりずっと息詰まる生活でも涙一つ見せず頑張っていた千鶴の、初めて見る涙だった。
 思えば、千鶴は自分より年下の、しかも女なのだ。辛いことも、不自由なこともたくさんあっただろう。唯一の肉親だという綱道は手がかりすら見つかっていない。千鶴自身も薄々感じているようだが、監察方まで動かしてこれだけ探しているのに手がかり一つ見つからないとなると、正直な話、望みは薄い。京都から離れてしまったと考えてもいいだろう。
 それでも千鶴が涙を見せることはない。泣きそうになっても、結局、泣かないのだ。





 いつだったか、屯所の隅で沈んでいる千鶴に出くわしてしまったことがあった。泣いてはいなかったが、暗い顔をしているのを見つかって、千鶴は申し訳なさそうに謝った。
 謝ることなんてないはずだ。謝るなら、こんなところに閉じ込めている自分たち新選組のほうだ。しかし謝ったところで事態を改善できるでもなく、幹部とはいえ一隊士でしかない平助が新選組を代表して謝るような真似も出来ない。それに、謝ったところで千鶴は困るだけだろう。謝らないでと、逆に気を遣わせるだけだ。
 うまく返事が出来ず、しかし黙って立ち去ることも出来ず、平助は並んで廊下の淵に座り込み、ぽつぽつと話す千鶴の話を聞いていた。
 綱道はどんな人だったのかと尋ねると、幼い時分の話を順に聞かせてくれた。
 初めて鏡をもらった日のこと。
 祭にはしゃいで迷子になり、ひどく叱られて大泣きしたこと。
 診療所で手伝いをしていたときのこと。
 最後に見送った日のこと。
 懐かしそうに話す千鶴の横顔があまりに力なく儚げで、平助は相槌を打つだけで精一杯だった。寂しそうで、辛そうで、そんな千鶴を見ているのが苦しくてたまらなかった。
 それでも千鶴は、話の終わりに、こう言って微笑んだ。

「生きていてくれたら、いいの。元気でいて下さったら、それでいい」

 自分へ言い聞かせるような言葉に、平助は咄嗟に口を開いていた。これ以上、千鶴の口から悲しいことは言わせたくなかった。

「だ、大丈夫だって! ちゃんと元気でやってるよ! ……オレは、そう、思う」
「……うん。ありがとう、平助君」

 我ながら、ほぞを噛むほど下手な励ましだ。それでも千鶴は、少し表情を緩めて笑ってくれた。
 もっとうまく励ませていたら、もっと笑ってくれただろうか。平助でなく、たとえば原田なら、もっと千鶴の心を明るく照らしてやれたのだろうか。
 隊務に戻るため廊下を進みながら、どうしてか、いつまでも千鶴の不安そうな顔が忘れられなかった。自身の手で笑わせてやりたいと強く願ったのは、それが最初だったのかもしれない。


 巡察に出る平助を見送るとき、出迎えるとき。寝坊してしまった朝、起こしに来てくれたとき。千鶴はいつも笑ってくれる。その笑顔を見るだけで、平助はたまらなく嬉しくなる。腹の底からわあっと大声を出して、今なら何でも出来そうだと、そんな気になる。
 実際、千鶴が喜ぶならとあれこれ悩むことは多かった。甘味などたまに気が向いたら買ってくるくらいだったのに、今はつい目を向けてしまう。千鶴が喜ぶからだ。
 花も、木も、澄んだ水も、小鳥も。
 平助がこれまで全く気に掛けたこともなかったようなことに、千鶴は一喜一憂する。千鶴が喜ぶならと、平助自身も目を向けるようになった。それを切欠に気づいたことも、考えるようになったことも、たくさんある。
 千鶴には、いつだって笑っていて欲しい。出来ることなら、無理をせず自然に、心からの笑顔を見せて欲しい。だって千鶴は、こんなにも頑張っているのだから。
 ――いや、違う。千鶴が頑張っているからその褒美だとか、そういうことではない。
 朝起きて、身支度をして稽古へ出る前に千鶴に会えたとき、どうしてあれほど心が躍るのか。おはようと、ただ一言交わすだけで安堵する。嬉しくて、楽しくて、元気が出る。
 千鶴自身のほうがずっとずっと苦しいだろうときから、彼女は何一つ変わっていない。人一倍気を遣って、人一倍頑張って、人一倍無理をして。きっとこの新選組の、誰よりも優しいだろう千鶴を守りたいと思った。辛いこと、悲しいことを跳ね飛ばして、埋めてやれるものなら寂しさなど忘れるほど幸せにしてやりたい。笑っていて欲しい。
 そしてその笑顔をこちらへ向けてくれたらと、そう願う自分に気づくまでにあまり時間は掛からなかった。
 それなのに。

「っく……、う、ううっ……」
「……千鶴」

 顔を覆う両手の指が濡れて、袂からのぞく白い手首へと雫が流れている。引きつってしゃくりあげる音が、平助の頭の中をぐちゃぐちゃにかき混ぜていく。
 泣くな。
 泣くな、泣くな、泣くな!
 喉が震える。何も言えないくせに、慰めることも満足に出来ないくせに、それでも苦しくなる。願うだけではどうにもならないと知っているのに身動きさえ出来ない。
 守りたい。
 小難しい事情など、どうだっていい。千鶴は、ただそばで笑っていてくれるだけでいい。そうであって欲しい。

「……ち、千鶴……っ」

 周りの音など一切聞こえなかった。ただ、千鶴の泣き声だけが耳にこびりついて離れない。
 こんなのは嫌だ。
 震えそうになる手で、千鶴の肩に触れる。小さくか細い、華奢な感触に指先がびりっと痺れた。

「泣くなよ、千鶴。……オレ、おまえに何にもしてやれねーけど、でも……っ」

 ぐ、と掴んだ手に力をこめると、不意に千鶴が顔を上げた。白い頬にいくつも涙の筋がつき、泣きはらした目元は赤くなっている。大きな目に涙を湛えて、千鶴は一度、ゆっくりとまばたきをした。押し出された涙が、はたはたと袴を濡らしていく。
 記憶の中にある千鶴の笑顔が塗りつぶされるような錯覚に、血の気が引いた。
 嫌だった。
 こんな顔をさせたいのではない。こんな顔は見たくない!
 頭の中がかあっと熱くなって、何も考えられないまま、千鶴の小さな身に飛びついて力任せに抱きしめた。

「泣くなよ! ……っ、嫌なんだよ! おまえがそんな辛い顔してんの、オレは、嫌だ!」
「……へ、すけ……くん?」

 喚いた声へ返った言葉に、はっとして身を離す。腕の中で不思議そうに平助を見つめる濡れた瞳が、ゆるゆると細められた。
 濡れた手が、平助の頬にそろりと触れる。心配そうに撫ぜた千鶴の指が力なく胸元に落ちるのを視界の端に収めながら、見下ろした、その姿に目を奪われていた。
 まだ涙は止まっておらず、平助の胸も苦しいままだ。それなのに、泣き濡れたその姿の色づきに意識を引きずり込まれる。
 板の間に広がる、高く結った髪の艶やかな黒。
 酒気と涙に染まる、透き通るような肌の白さ。
 濡れて潤んだ瞳の濃茶、淡く色づいた唇と爪先の桜色。
 きれいだ、と思った。
 可愛いとは思っていた。町娘を差して「あの子は可愛いか可愛くないか」と聞かれ、「可愛いのではないか」と応える、そういう客観的評価ではなくて、見たままを口にするなら、やはり千鶴は可愛いとしか言いようがない。愛くるしい、というのはまた違う気がする。とにかく、可愛いのだ。笑顔が可愛い。一生懸命な姿が可愛い。可愛い。可愛い。可愛い!

「千鶴、おまえ――」
「なぁに……?」

 平助の勢いに驚いたのか、涙は少し収まりつつあるようだ。ぱちぱちと大きな目をしばたかせる千鶴を見下ろして、平助はこくんと唾を飲み込む。
 なあ、おまえ、可愛いけど。
 こんなきれいだったっけ?
 何と言えば伝わるだろう、そう思いながら平助は濡れて重そうなまつげに指の背で触れる。雫をふき取れば、軽く目を閉じていた千鶴がほんのりと笑った。ありがとうと、今にも言おうとした、そのとき。

「何やってやがる! 引き剥がせ!!」
「う、わっ!?」

 突然聞こえてきた土方の怒鳴り声と共に、平助の体は思い切り後ろに引っ張られた。急に千鶴との距離が開き、彼女しか見えていなかった視界が広くなる。いつのまにかそばへ来ていた原田に二の腕を掴まれて、千鶴から引き剥がされたのだと思い至ったときには、千鶴は千鶴で、斎藤に抱き起こされていた。
 何が何だか分からず視線を巡らせれば、皿へ叩きつけるように箸を置いた土方が慌てて駆けつけたところで、傍観を決め込んでいたはずの沖田までひょっこりと千鶴の顔を覗き込んでいる。

「うわっ、この子まだ酔いが醒めてないよ。呑気だよねえ、今まさに貞操の危機だったのにさ。いっそ体で覚えたほうが懲りるんじゃない?」
「ば、馬鹿を言うな総司! そんなことは出来ん!」
「あのねえ一君、君も大概酔ってるみたいだけどさ。別に君に頼んだ訳じゃないんだよ? 誰もしないなら、僕がやってあげるし」
「……総司、酔っ払いをからかってんじゃねえよ。斎藤、おまえは水でも汲んで来い」
「分かりました。……総司、千鶴を」
「はいはい、いってらっしゃい」

 土方の指示に従って部屋を出て行く斎藤の足取りは確かなもので、顔色も平然としているから黙っていれば酔っているのだかどうだか分からないくらいだ。正気のような、しかし端々からまずいものがダダ漏れのような。常日頃頼りがちな部下の背中を呆れ半分で見送った土方は、原田に羽交い絞めにされながらもがいている平助へと視線を戻した。
 斎藤とは対照的に、顔は赤く染まり焦点もどこかふらふらと定まらない様子だ。完全に酔っている。

「あ、ちょっと。千鶴ちゃん、暴れないでよ」
「……っく、うう……やあ、っ!」

 腕の中に閉じ込めるように抱きかかえている沖田の腕の中から抜け出そうと、もたもたと千鶴の腕が伸びる。伸ばされた先には平助がいて、こちらはこちらで原田の拘束から逃れようとじたばたと足掻いていた。

「放せよ、左之さん! っ、くそ! 千鶴っ!」
「ひ、っ……ん、く……平助、くん……っ!」

 それぞれが束縛から抜けようともがきながら、ふらふらと手を伸ばしている。一旦泣き止んだと思った千鶴の目からは再び涙が溢れ出して、嗚咽の中から時折漏れる言葉をかいつまむと、どうやら平助がからかっていじめられていると勘違いして、それを止めるよう懇願しているらしい。
 泣きじゃくる千鶴に「原田さん止めてください」と言われること数度、原田は居た堪れないといった面持ちでついに千鶴から目を逸らした。日ごろ愛くるしい笑顔を向けてくる千鶴から悪党扱いの上に、これではまるで自分が泣かせたようではないか。

「なあ、何か悪ィことしてる気がしてきたんだが……」
「惹かれ合う二人を引き裂く魔の手、ですかね。このまま千鶴ちゃんを連れて行っていいなら、僕はそれでも構いませんけど」
「馬鹿言ってる場合か。総司、お前は先に行って布団敷いてこい」

 沖田から千鶴を奪い取ると、土方はその小柄な体をさっさと担ぎ上げた。荷物のような扱いに、平助を引きずり立たせていた原田が渋い顔をするが、構わず立ち上がって入り口へと足を向ける。

「千鶴ーっ!」
「へーすけくーん!」
「やーい、土方さんの人攫いー」
「総司!!」

 土方の怒声に千鶴が怯えて再度泣きじゃくり、それを見た平助が原田を振り切って土方に飛びつき――――
 結局、それから半刻以上経ってようやく屯所全体が眠りについたのだった。







 翌朝、朝食前。

「うー、あったま痛ぇ……」
「平助君、大丈夫? はい、これ二日酔いのお薬」
「ありがと、千鶴」

 二日酔いの鈍痛で頭を抱える平助と心配そうに世話を焼く千鶴の姿に、土方と原田は何とも言いがたい視線を寄せていた。平助が千鶴を気に掛けているのは以前から分かっていたことではあるが、昨日の様子を見るに、もしかすると千鶴も平助を気にしているのかもしれない。確かに年頃も近く、普段からよく一緒に話したりもしている。そういうことになったとしても、それほど不思議ではない。

「どうなんだろうな、あの二人」
「さあな……。それより、総司と斎藤はどうした。あいつらまで二日酔いじゃねえだろうな?」
「二人ともピンピンしてたぜ。道場覗いたら、ちゃんと稽古つけてた。ただ、新八が……その、潰れてる」
「叩き起こしてこい!」

 はいよ、と原田が腰を上げた後、土方は茶を啜りながら再び千鶴と平助に目を向ける。どうやら二人とも昨晩のことは一切忘れてしまったらしく、二人の間にはいつも通りの和やかな時間が流れていた。

「ごめんね。すぐぼうっとしちゃって……やっぱり、お酒は駄目みたい」
「いや、いいよ。こっちこそごめんな、無理に飲ませちまってさ。頭痛くなったり、気持ち悪くなったりしてねえ?」
「私は平気。平助君こそ、本当に大丈夫? 今日は巡察があるんだよね?」
「まあな。でも夜の巡察だから、昼過ぎまで空いてんだよ。だから、ちょっと横になっとく」

 並んでちょこんと座った千鶴に見守られながら薬を飲み干した平助が「苦い」と舌を出す。それを少し笑った千鶴が、ふと思いついたように手を叩いた。

「そうだ、お昼の支度は私がするから、何かお腹に優しそうなものを作るね」
「マジかよ! やった、オレおじやがいい。玉子のやつ!」
「ふふっ。じゃあ、後で土方さんにお願いして、部屋で食べられるように頼んでみるね」
「ああ。ありがとな、千鶴」
「ううん。私はこのくらいしか出来ないから……」
「何言ってんだよ! 千鶴のメシ、すっげー旨いんだぜ! ――って、い、いってぇ……!」
「お、大きな声出したら駄目だよ、平助君。大丈夫?」
「うう……だ、だいじょーぶ……全然へーき……」

 広間の奥からその光景をしばし眺め、土方はずず、と音を立てて茶を飲み干した。

「ありゃ、当分心配ねえな」

 酒を飲んでも飲まれても進展がないとなると、平助の道は相当険しそうだ。
 欠伸をかみ殺してため息をつくと、ほんのり酒の匂いが混じっている気がした。







(10.03.03.)