目を放した隙にこんなことになったことが余程口惜しいのか、斎藤は永倉から千鶴を庇うように睨み付けている。せっかく土方を休ませようとしたのに騒ぎになっているのも、千鶴を守るようにとの隊命を邪魔されたのも、どちらも腹立たしいのだろう。そちらに気を取られて、背後で泣きじゃくる千鶴はまた一人になっている。
 傍らの平助も宥めようとはしているようだが、酒が入っているせいか元より慣れないのか、どうも適任とは言いがたい様子だ。土方らが入ってきてもそれほど反応を見せなかった辺り、酔いが深い可能性もある。
 つまらなそうに座り込んでちびちび続けている沖田は論外であるし、隣で弱りきっている原田も既に手を尽くした後なのだろう。
 重苦しくため息をつくと、床に広げられたままの肴をちらりと見やってから土方は腰を上げた。
 さすがに抜刀はしないだろうが、不機嫌さをにじませて永倉をにらむ斎藤の脇を素通りし、千鶴のそばへ腰を下ろす。

「おい、千鶴。俺が分かるか」
「っく、……ひ、ひじ、か……た、さ」
「ああ。ちょっとこっち来い」
「うう……ご、ごめ……なさ、いっ……」
「別に怒っちゃいねえよ。斎藤たちの邪魔しちゃ悪いだろう? だからこっちへ来いっつってんだ」

 泣きはらした目でふらふらと顔を上げた千鶴は、土方の顔を見てから斎藤と永倉へと視線を移す。斬る斬らない、有罪無罪と言い争う二人をしばらく眺め、土方のほうへ向き直ってかくんと頷いた。頭を振ると余計に酔いが回りそうだと思いつつ、そうだなと相槌を打つ。
 まだ泣きじゃくっている千鶴に先立って立ち上がり、肴の皿が散らばるほうへと先導する。あまりにふらふらと覚束ない足取りに転倒するのではと見ていたが、絶妙な均衡で土方の下へたどり着くと、ゆっくりした動きでちょこんと正座した。足を崩すでもなく、背筋も伸びている。酔ってもこうなのだから、根っから生真面目で素直な性分なのだろう。苦笑いをため息で誤魔化しつつ、土方も胡坐をかいて座り込んだ。
 永倉との言い合いを、平助を巻き込んだ説教へと変化させた斎藤はもう使いようがない。あそこは三人とも酔いつぶれたと勘定する。沖田はそれを眺めて眠そうにしているし、手伝いを頼むなら原田しかいなさそうだ。
 その原田はといえば、土方が声を掛けるより早く、やってきた千鶴の顔を覗き込んでいる。

「千鶴、気分はどうだ? 気持ち悪くねえか?」
「ひっく、……い、です……っ」
「……うん?」

 さっそく声をかけたものの、笑顔のまま困惑する原田を眺めつつ頭を掻く。
 先ほどから何やら言おうとはしているらしいが、千鶴の言葉はさっぱり聞き取れない。しゃくりあげ続けているから音にならないのだ。せめて涙の勢いが止まるまでは喋らせるのは無理だろう。
 原田はきっとこうやってずっと千鶴を宥めようとしていたのだろう。ぽろぽろと流れる涙を指で拭っては、そんなに泣くなと優しく宥めている。

「おい原田、女を泣かしたり宥めたりってのは得意なんじゃねえのかよ」
「馬鹿言うな! 慰めるったって、千鶴に……その、まずいだろ」

 ふいと逸らした目に隠し切れない熱を垣間見た気がして、土方は傍らの千鶴に眼を落とした。
 普段のはつらつとした明るさはすっかり鳴りを潜め、何が悲しいか涙は途切れるところを知らない。拭った原田の指は傍目に分かるほど濡れているというのに、どうして枯れないのだろう。
 人それぞれに涙の泉はあるという。心の奥深くにひたひたと水を湛えているのだそうだ。どこぞの唄の示すとおりであるなら、土方にも原田にも、もちろん千鶴にもそうした泉があるのだろう。
 今までよく溢れなかったものだ。手前の出した指示ばかりではあるが、土方はよく考える。泣き暮らさずにいてくれたからこそ上手く運んだ事もあるが、千鶴はまだ子どもと呼んでいい年頃だ。娘の盛りはまだこれからというときに、よくもまあ耐えられるものだ。
 そんな千鶴だからこそ情も湧く。気丈に振舞う姿には関心するし、見返りを求めず健気に尽くす姿には愁眉も緩むというものだ。
 しかし。

「妙な気は起こすなよ。こいつぁ、預かりもんだ」
「……分かってる。ああ、分かってるよ。こいつは、……千鶴には」

 何かを耐えるように言葉尻を濁した原田の、飲み込んだ言葉をおそらく土方も知っていた。
 どれだけ親しみを覚えても、どれだけ愛しさを感じても、どうすることも出来やしない。暖かなまなざしを向けることさえ憚られる。こと、土方においてはそれが何より問題になる。
 日を追うごとに増していく千鶴の存在の有難さに、誰より隊士たちが参っていた。寄り添い支えてくれる小さな少女の眩しさに、手を伸ばしては気づかされる。彼女の明るさに照らされた手のひらは、べっとりと赤黒く濡れているのだ。
 それでもなお、千鶴は笑顔でそこにいる。気を抜けば血濡れの手すら易々と握って、そうしてなお笑うのだろう。涙を流すことなく、耐えて、忍んで。

「なあ、もう泣くなって。千鶴、頼む! この通りだ! な?」
「ひっく、は……はら、だ……さん、ごめ……なさ、っく……」
「余計に泣かせてどうすんだ、ったく……。おい千鶴、何か見繕ってよそってくれ」
「っく、う……は、はい……っ!」

 とうとう拝み倒し始めた原田に呆れつつ転がっていた皿を突き出すと、千鶴はぐしゃぐしゃに泣き濡れた顔のまま、ふらふらとおかずの乗った皿へと近づいていった。菜ばしを持つ手つきはなんだかおかしいものの、どれもおかしなくらい丁寧に、どうやら全部の種類を乗せようと一生懸命によそっている。もたもたとした手つきは普段の千鶴には見られないもので、無性におかしくなった。
 こらえきれずに噴き出し、肩を揺らして笑う土方を原田が呆気に取られたように見、それからこれ見よがしなため息をついて頭を抱える。

「泣かせるのも宥めるのも、昔っからあんたのほうが上手いんじゃねえか、くそっ」
「んな訳あるか。勝手に泣いて、勝手に泣き止んでんだよ。女ってのは、そんなもんだろうが」
「それでも、てめぇの腕ん中で泣きやましてぇって思うのが男心だろ」

 そも、泣いている顔など見たくない。
 口には出さず、適当に拾った杯に酒を注いでちびりと呷る。
 ひじかたさぁん、と間延びした声で原田から千鶴へと視線を移せば、丸い大皿一杯にあれもこれもと盛り付けた千鶴が濡れた頬を拭いもせず、泣きながら笑っていた。赤くなった目は瞬きするごとに涙を流し、何度も辿った目尻は赤くなってしまっている。
 皿を受け取って目の前に下ろすと千鶴もふらふらと座り込み、皿を指差しては「これはなんだ、あれはなんだ」と説明を始めた。合間合間に誰がどれを好きだとか、それは平助が取ってきたのだとか、余計な話も交じっている。酔いはまだ醒めないようだ。
 話す千鶴の上体はゆらゆらと危なげに揺れていて、見かねた原田が支えると、スンと鼻を啜った千鶴が濡れた目を丸くして原田を見つめた。

「千鶴、そいつに寄りかかっとけ」
「え……っく、でも……」
「遠慮なんかすんなよ。ほら、こっち来い」

 とろりと甘い目つきで後ろから千鶴を抱きかかえた原田が、土方の向かいに腰を下ろす。ふらふらと揺れる頭を原田の胸に預けると、しばらくして体の力が抜けていった。一しきり泣いて疲れが出たのか、うとうとと眠たそうにしている。
 斎藤が薦めていた絹さやの玉子とじを食べつつ土方が見やれば、原田は何とも言いがたい表情で閉口していた。

「泣き止んだみてぇだな。良かったじゃねえか、原田」
「シャレになんねえよ、土方さん……」

 小声で話す男の間で、少女があどけない寝顔を見せる。舌を湿らせる程度に酒を飲んで周りを見れば、いつの間にか全員がつっぷして寝ていた。やはり説教だけではすまなかったのか、座布団を叩きつけられたまま潰れたと思わしき永倉らに目を向けて、原田がため息をついた。

「あーあ、ひっでぇな」
「斎藤まで潰れてるじゃねえか。どこの酒だよ、こりゃ」
「さあな。そりゃ知らねえが、斎藤は最初から付きっ切りで千鶴に酌してもらって、流し込むみてぇに飲んでてよ。それで、さすがにあの量はやばそうだってんで、俺たちのほうへ千鶴を呼んだんだよ。そしたら、まあ、こうなっちまったんだが」
「……ったく」

 聞けば、沖田の機嫌が悪くなったのは近藤が退席した後らしい。斎藤、永倉が捉まえていた千鶴をさあ今度は自分の番だと手を引いたところ、すでに千鶴は泣き出していて、宥めすかしてもどうにもならなかったのだという。それで拗ねた風だったのかと納得し、土方は冷めた肴を口に押し込んだ。
 結局のところ、誰も彼も酒に酔ったのではない。男の腕の中だというのに、気の抜けた寝顔を晒しているこの小娘一人に振り回されただけなのだ。眠ったのだから部屋へ運んでやれと言えばいいものの、誰に任せるのも、自分が連れて行くのもまずい気がして黙々と箸を進めるだけの土方も例外でない。
 千鶴を抱えたまま酒を飲みだした原田へ脱いだ羽織を押し付けると、ズッと音を立てて飲み干したのち、羽織で千鶴をくるんだ。肩をすくめて呆れたようなまなざしを向ける原田から目を逸らし、半分ほど空になった皿へと視線を落とす。

「素直じゃねえなあ」
「なってたまるか」
「……なっちゃまずいわな」

 は、と笑った原田の口から漏れたため息がずいぶん重苦しいものに聞こえたのは、酒のせいだと思うことにした。







(10.02.22.)