……懐かしく穏やかな昔日だ。
 深く沈みこんでしまいそうな意識をゆっくりと浮かび上がらせていくと、まなこに屯所とは程遠い洋室が映る。落ち着いた色合いの上着を着て向かいに座っていた上司――――若作りなのか童顔なのか、妙な朗らかさを身にまとう大鳥は、視線をじっと土方の膝元へと向けていた。それを追って目を落とせば、愛おしい少女の寝顔が鎮座している。短い夢の穏やかさに引きずられるように小さく笑みを浮かべた土方は、眠る前に千鶴が淹れてくれた洋物の茶をぐいと傾けた。

「……なるほど、その頃から雪村君はこうだったのか」
「あれきり千鶴には飲ませねえようにしてたんだが、……迂闊だったな。壮行会なんぞ、連れて来るんじゃなかった」

 吐き捨てるような物言いをする土方の目元がほんのり赤らんでいるのには目を瞑っておくことにして、大鳥はしげしげと千鶴を眺める。
 千鶴は細やかな気配りが出来、自他共に厳しい土方を支え、時には叱りつけることもある少女だ。少女と女性の境を今まさに越えようという危うい均衡と、男なりの洋装で隠し切れぬ愛らしさが何とも言いえず魅力的である。特別な感情の有無は別として、土方に付き従う彼女に好意的な人間は多い。潤いのない場所だからこそ、たとえそれが他の男の――しかもよりによって土方の女であっても、花は花だ。見ているだけで心が安らぐ。
 先ほどまで泣き濡れていた千鶴だったが、土方にあやされながら眠ってしまい、今は彼の膝に頭を乗せて静かな寝息を立てている。ふっくらとした頬は酒気に当てられ赤く染まり、薄く開いた唇は血色がよくなっている。
 洋物のローテーブル越しに眺めている大鳥は、冷めたティーカップの残りを飲み干しながら「いいなあ」と漏らした。土方の刺々しい視線などどこ吹く風、底にたまっていたブランデーを舐めるように呷る。

「気が強いというよりは、意志が強いのかな。彼女は。勧められたからって適当に誤魔化せないのは心配だけど、たぶん君の顔を立てたんだろうから、目が覚めても叱ったりしてはいけないよ?」
「んなこたぁ、あんたに言われなくても分かってる。こいつの考えることなんざすぐに分かるさ」

 大鳥へは嫌味を含んだ声音で言うのに、しかし千鶴を見下ろす目は戦場での苛烈な姿からは想像もつかないほどに穏やかだ。眠りを守るよう、そっと髪を撫でる指先の甘やかさからも、彼がどれだけ千鶴を大切に想っているかが知れる。出会いや馴れ初めを聞きだすほど野暮ではないものの、付き合いの長さは推し量れた。土方はよく千鶴を見ているし、千鶴もまた、一心に土方の姿だけを追い続けている。

「一度は置いてきたくせに。あのまま傷心の彼女に付け込んでしまえばよかったかなあ」
「そんな気はねぇくせに、よく言うぜ。それに、俺の目が届くところでこいつに手が出せると思うなよ。昔っから、こいつにフラフラ引き寄せられるやつらがいたけどな、一度だって一線を越えさせたことはねぇんだ。これからだって、こいつには指一本触れさせねぇよ」
「……ときに土方君、壮行会では何を飲んだんだい?」
「ああ? 知らねえよ、渡された洋物の……なんとかっていう、妙な色の酒だ。やっぱり、ああいうのは俺の口には合わねえ」
「ああ、そう。うん、まあ、そうだね」

 饒舌な土方も、どうやら酒が回りつつあるようだ。弱ったとき、酔ったとき、千鶴のそばにいるとき。土方は昔を思い出す。そんなときは決まって切なさや遣る瀬無さを含んだ目をするのに、今夜ばかりはそうでない。過去を懐かしむ目の中に、確かな優越感と独占欲をにじませる男に、大鳥は内心驚きを隠せないでいた。
 今の昔話は、おそらく新選組がまだ京都にいた頃の話だろう。そのころから千鶴に目をかけて、影に日向に守っていたらしい。千鶴がまったく気づいていなさそうな辺り、おそらく情は隠していたのだろうが――――。

「長い片思いを続けていたんだね、君たちは」

 少し頑固なところも、お酒に弱いところも、そっくりではないか。
 片割れが寝ていても当てられるなんてね、とぼやいた大鳥は、千鶴の寝姿に誘われたのか、睡魔と戦いだした土方を置いてそろりと部屋を後にした。



「雪解け間近、か」

 ようやく想いを交わすことが出来た二人の下へも、等しく春は訪れる。辺りを全て覆い尽くすこの雪が失せたとき、願わくば二人の姿まで消えてしまうことのないようにと祈る。
 今宵も静かに降り続く雪景色を眺めて歩く大鳥の足音を、毛足の長い絨毯敷きの廊下が飲み込んでいった。







(10.02.26.)