※TOV映画ED後。ネタバレ含む。















ともし火










 暮れる前にどこかへ腰を落ち着けなければ、と思っている間に黒ずんだ雲が空を覆い、顔をしかめ足を速めたときには大粒の雨が頬を叩いていた。少ない荷物を腕に抱え、走らせた視線の先でひときわ大きく見えた樹の下へと走る。

「ラピード、急げ!」

 返事替わりの小さな駆け足が続くのを聞きながら走ったが、幹に身を寄せたときには手ひどく濡れた後だった。

「ああ、こりゃひでえ」

 下が濡れていないことを確認して荷物を落とし、ため息混じりにがくりとうな垂れた。長く伸びた黒髪から雫が滴るのを、横に流して軽く絞る。含んだ水の量より、そこから奪われた体温のほうがよほど問題だ。
 もう一度ため息をついたところで、足元から見上げていたラピードがブルブルと体を震わせた。

「どあっ、つめてっ! こら、そばでやるんじゃねぇよ!」

 そら見ろ、と飛沫の飛んだズボンとブーツを鼻先に突きつけられたラピードは決まり悪そうに幹の裏手へと隠れてしまう。しばらくそのまま見つめていたが、裏手から体を震わせる音がし、またしても辺りへ水飛沫が飛ぶのを見るとため息を飲んで視線を戻した。

「ったく、ついてねーなぁ……」

 見上げた雨空はどす黒く垂れ込めた分厚い雲に覆いつくされ、どこかに隙間が差し込むような気配は微塵もない。風があまりないのは雨宿りには好都合だったが、その分、通り過ぎるには時間が掛かりそうだ。
 下ろした荷物に手を突っ込んでタオルを引っ張り出す。一本しかないそれを持ち出すとき、もう一枚持っていこうかと一瞬だけ迷い、すぐに「いらねえか」と答えを出したことを少しだけ悔やみつつ髪と体を拭った。
 タオルを首に掛けたまま、しゃがみこんで荷物を探る。野宿するために最低限必要そうなものは持ち出したものの、少しでも減らそうとずさんな荷造りになったのも否めない。元々身軽なほうが性に合っているというのもあるが、それにしても少し足りなさすぎた気がする。次にどこかの街へ着いたら買い足そう、と一人頷きながら火おこしの道具を出そうとして、はたと気がついて左の手首に目を落とした。
 そのまま巻きつけるのはどうにも落ち着かなくて、腕輪を台にして身に着けた魔導器。元の持ち主は手甲の間につけていたから、そもそも素肌にするものでもないのかもしれない。どちらにしろ、腕回りが違いすぎてそのままでは外れてしまいそうだった。
 これの上にパイプをかざして、煙をくゆらせていた姿が目に浮かぶ。魔術の心得はないと言いながらも、上手に扱っていた。ユーリには、まだ、似合いも使いこなせもしないだろう。
 そりゃそうだ、と当たり前の結論を導き出してそれをううんと見つめる。

「ヒスカにもうちっと習っときゃよかったかな」

 初めて使ったときは全力で、制御も加減もないものだった。目をくらますには十分だったが、後々こっそりシャスティルとヒスカに、フレン共々盛大に叱られたのだ。壁が吹っ飛んだだの、天井が落ちただの、大体は自分たちの放った力のせいではなかったものの、魔導器の力が強大だというのだけはよくよく分かった。力を求める帝国が魔導器の発掘に心血を注ぐ理由も分かる。魔導器は便利で、危険な代物だ。
 旅に出ると決めて魔導器を持ち出すときヒスカに簡単な手ほどきは受けたものの、それから一度も使っていなかった。小さな赤いコアが、明かりの乏しい闇夜の中でぬらりと鈍く光る。あの日見た紫の魔導器よりは、いくらかきれいだった。

「……何が正しいのか、なんてのはさ」

 荷物袋の口を縛り、手近な、まだそれほど濡れていない枝葉をかき集める。固形燃料を放り込んで、少し離れて右手で左の手首を支えた。
 周囲のエアルがわずかに揺らいで――けれどそれは、ユーリに分かるほどはっきりとしたものでもなく。雨音に揺らぎはかき消されて――小さな火が、ぽつりと灯った。
 肩の力を抜いて腰を下ろすと、ぽんと膝を叩く。

「ラピード、こっちきな」

 叱られたことを気にしているのか、そろりと近寄ってきた仔犬に苦笑して抱き上げる。あぐらをかいた足の上に下ろして、首にかけていたタオルでわしわしと拭いてやると、クチンと小さなくしゃみが出た。再び抱き上げて火のそばへ寄せてやり、背を撫でる。湿っていたが、変わらない柔らかな手触りに口元が緩んだ。
 うとうとし始めたラピードを眺めながら、木の幹に背を預けてまぶたを下ろす。大きな木陰の下でくゆる火は、途切れそうに細い煙を空へと伸ばしている。

「何を守るのか、決めるのは俺たちだ。他の誰でもない」

 守りたいものを守れなかった、とあの人は悔やんだ。だからこそ、援軍の到着を待たなかった。わが身をかわいいと思うなら、援軍の到着を待ったほうが良かったのだろう。けれど事態は切迫していて、守りたいものを守るためにはどうしたらいいか、どうするべきか、彼は考えた。その結論が、今を導いている。
 守りたかったものは、守れた。失ったものもある。傷つけたものも、確かにある。後悔があったかどうかは分からないが、みんなの心にじくりと消えない痕を残したのは事実だ。苦い痛みだけではないものも、受け取っている。
 風が凪いでいる。雨はまだ降り続いていたが、おそろしく静かな夜だった。

「みんな、守りたいものは違うんだ。正しいと思うものだって、違う」

 それぞれに正義がある。守るものがある。譲れないものがあって、許せないことがある。
 絶対的に正しいものなんてないのだ。それが、よく分かった。騎士が正義でないことも。
 下町で暮らしていた頃から分かっていたことだ。騎士の守る正義の、端の端にしか引っ掛かっていなかった。それでもきっと、何か守れると思った。あの旗の下、剣を振るえば守れるのだと思った。
 それが近道だと思ったから。思いたかったから。
 ナイレンは笑うだろうか。騎士を辞めたユーリを見て、それでもいつかのように笑い飛ばしてくれるだろうか。
 浮かびかけた何かを振り切るように目を開いて、晴れないままの曇天を見上げる。まっすぐに降り注ぐ、糸のような雨粒を見つめた。
 燃すものが少ない。夜明けまでに火は消えてしまうかもしれない。すこし勿体ないけれど、固形燃料をもう一つ、使おうと荷物に手を伸ばした。
 今夜くらいは、この赤いコアが濡れないよう暖めておきたかった。







(09.10.08.)