あなたはまだ知らない



「ルーク!」

 そう言った彼の白い体が目の前に広がった。
 動けなかったのはどうしてだろう。
 信じられなかったからか、それとも、嬉しかったからだろうか。




 戦いの最中に飛びこんできたイオンは、ダアト式譜術により著しく体力を消耗してしまった。膝を付いたイオンにアニスは声を上げて怒り、ジェイドは叱り飛ばそうとしてそれを堪えたようだった。それを唯一冷静に見ていたガイが、宿へ入るなりイオンを寝かせ、他のみんなを食事に向かわせた。
 食事の最中もガイ以外は口が重く、どこか刺々しい空気だった。その矛先が自分に向いているのだろうということぐらいは、ルークにも分かっていた。
 イオンはルークを庇って飛び出したのだ。余計なことをするなと声を荒げたが、その実、動揺していた。
 確かに隙はあった。けれど、ルークを狙い飛びかかろうとしていた敵の、更にその後ろでガイが斬りかかる動作に入っていたのだ。初弾を凌げばガイが引きうけてくれる。気が逸れたところで、こちらも畳み掛ければいい。そう判断し、下がりながらたたらを踏む足を叱咤して踏み止まった。右の手を剣のみね峰に当て、攻撃に備え、そして――イオンの白い服が視界に広がった。


 自由行動にしようと言うガイの言葉に各々が頷き、街へ散っていった。イオンの守りにはガイが付き、ジェイドやアニスの背を見送ってからルークも食堂の席を立つ。
 ところが、その背にすぐさま声が掛かる。声の主は部屋に戻ったはずのガイだった。

「なんだよ。イオンの傍にいなくていいのか?」
「それが、どうも腹の調子が悪いんだ。すまないがトイレに行く間、イオンのこと見ていてくれないか」
「お前、自分からイオンのお守するっつったくせに……」
「悪い悪い……とにかく、頼むよ」

 腹を抱え、笑顔を引きつらせながらそういうガイに、仕方なくルークは「しょーがねえな」と返した。
 答えを待ってすぐにガイはトイレへと歩いていく。何かに当たったのなら同じ宿の料理を食べた自分たちもどうにかなるところだが、今のところルークの体に異常はない。ガイだけ別の料理を食べたということもないから、単に腹が冷えたか疲れにやられたのだろう。
 ぎしぎしと軋む階段を昇り、部屋の戸を開けた。今日は二人部屋を三部屋取ったので、ここはイオンとジェイドの部屋だ。タルタロスでガイがルークを迎えに来てから、この部屋割りが変わったことはない。眠る時ぐらいは気心の知れた者同士の方がいいだろうというのがその理由らしいが、イオンとルークにお守りをつけるならこの組み合わせしかないというのが真相なのだろう。

「入るぞ」

 イオンは上着を脱ぎ、既に横になっていた。サイドテーブルには食事が運ばれていたが、手をつけた様子はない。顔色は幾分良くなっていたが疲れは色濃く残っていた。念のため扉に鍵を掛けてから、イオンの傍へ椅子を寄せる。

「食わねえのか? 食えなくはないぜ、ここの飯」
「そうですか、それは楽しみですね」

 起き出したイオンに盆を渡してやると、ぱっと色白の顔を綻ばせた。
 ありがとう、ルーク。微笑んでそう言うイオンから目を逸らし、ルークはポットから茶を注いでそれを両手で抱えた。部屋に備え付けられたカップは二つしかないのだから、あとで自分の部屋から持ってこなければならない。宿の者にやらせるか、言えばガイがやってくれるだろう。
 イオンは箸で小鉢の和え物を食べていた。彼の控え目な態度や性格からローレライ教団で一番偉い立場にある導師だということをつい忘れてしまいがちだが、こうして垣間見る所作はルークから見ても申し分なく整っていた。ベッドの上に半身を起こしただけの不安定な姿勢ながら背筋は伸びており、箸運びも淀みない。

「ルーク」
「なんだよ」

 イオンはいつも微笑んでいた。それはルークの勝手なイメージなのかもしれないが、今のように困った様子でもイオンは少し目を細めて口元に柔らかな弧を引いていた。
 ルークはそれが堪らなく嫌だった。見ていると何からも責められているような気がして、けれど何も責められる謂れがなくて、訳が分からず無性に腹立たしい。そうして腹を立てていることさえもお門違いだと罵られるような思いがして、だからルークは目を逸らした。
 イオンは手を止めてしばらくルークを見つめ、それからまた箸を進めた。魚の煮付けをほぐし、少しずつ口に運ぶ。ちまちまとした動きに苛つきつつ、ルークは視線が上がるのを必死に抑えた。
 手に抱えた茶は、まだ温かかった。

「今日は勝手なことをしてしまって、本当にすみませんでした」
「ああ、全くだぜ。お前が余計なことしたせいで、俺のせいでお前が倒れたみたいに思われて、胸糞悪いっての」
「ルークは何も悪くありません。全て僕が勝手にしたことです。アニス達には、僕から話しておきます」

 ルークがもっとしっかりしていれば、イオンが飛び出したりしなかったのに。
 ジェイドやアニスの視線はそう言っていた。けれど口にはしない。だから余計に腹が立った。
 正面から言ってくれば良いものを、影でねちこく垂れ流す。その性根がルークには理解出来なかった。
 判断は間違っていなかったはずだし、助けてくれと頼んだ覚えもない。イオンはただ守られていれば良かったのに、その場所を放棄して戦場に踏み込んできたのは、全て自業自得だ。それがなぜか、ルークの所為にされる。
 それなのにガイでさえ口を濁すばかりで、真実を話すのが当のイオンだけだというのが尚悔しかった。

「お前に守られるほど俺は弱っちくねーんだよ。それをお前が、訳分かんねえとこで突っ込んでくっから!」
「挙句この有様ですから、本当に……ルークにはどう謝ればいいか。ごめんなさい」
「お前がいくら頭下げたって、どーせまた、俺が責められんだ。くそっ……」

 イオンが謝罪したところで、『イオン様に頭を下げさせるなんて』などと言うに違いない。その光景が簡単に思い浮かんで、ルークは悪態を吐いてかぶりを振った。
 イオンはイオンだというだけで肯定されるのに、ルークはルークだというだけで否定される。ルークが食事に一番に手を伸ばすとはしたない、皆の分を考えろと真っ先に釘を差され不興を買う。毎度ごちゃごちゃと言われるのに腹を立てて、ガイがルークの分を取り分けるまで手を出さずにいるようになって、気付いた。美味しそうですねとイオンが手を伸ばしても、誰一人怒らないのだ。
 この差は何だと癇癪を起こしても、やはり白い目を向けられるのはルークだけ。堪らなかった。

「ルーク……」

 イオンが、膝に乗せていた盆をルークがいるのとは反対の枕元へ下ろした。そして小さな手を伸ばし、カップを握り締め強張っていたルークの手を包む。
 はっとして顔を上げると、イオンは笑顔を失っていた。白い顔は蒼白で、ルークは、イオンが泣くのではないかと思った。
 胸の内がざわめいて、その得体の知れなさにルークは顔をしかめた。
 気持ちが悪い。落ちつかない。

「ルークなら大丈夫だと頭では分かっていたんです。それなのに、ルークが怪我をするかもしれないと思ったら……」

 俯いたイオンの手が震えた。
 ルークは握られた手の心許無い指先に視線を落とす。
 白く、綺麗な指だった。爪は薄い桃色に色付き、形もすっと伸びて美しい。この小さな少年のどこからあれほど強力な譜術が出るというのか。ルークの瞳よりずっと深い緑の髪が項垂れ、俯いたイオンの手が震えていた。
 震えがルークにも伝わる。ぞわりと内から這い上がるような悪寒がして、ルークは身を固めた。振り払ってしまえばいいのに、そうも出来ない。イオンがまるで全てを自分の罪だとしているようで、この手を振り払えなかった。
 こうなったのはイオンのせいだ。
 けれど、イオンのせいではない。

「お前が……いくら、謝ったって」

 ルークは口を開いたが、からからに乾きうまく言葉を紡げない。唇を湿らせるため口を閉ざすと、イオンがまっすぐな瞳でルークをひたと見つめた。澄んだ瞳は譜業の明かりの下で小さな光を浮かべていた。
 眩しい。
 そんな気がして、ルークは目を眇める。

「僕に出来ることをしなければいけないのに、己の力も弁えず、結局ルークを苦しめてしまいました。辛いのはルーク、あなたなのに」

 すみません、とまたイオンは俯いた。握られた手に、ぱたりと雫が落ちる。
 涙だ、と思った時には手は放されていた。イオンは涙を拭いながら、ごめんなさいと言う。ルークは何も言えず、けれど離れていったイオンの手の冷たさに戸惑っていた。
 ルークはまだ怒鳴り散らしていない。イオンを責め立ててもいない。なのに何故、イオンは泣いているのだろう。これではまるで、ルークが悪いようではないか。
 イオンは勝手に泣いたのだ。ルークのせいではない。
 すっかり震えが移ってしまった手で、カップを無理に呷る。すっかり熱を失っており、香りも失せていた。それでも喉が乾いて仕方がなく、カップの半分以上を空けた。

「僕が間違っていました。ルーク、本当にすみませんでした」
「……もういい」

 何を言っても、今の気持ちを表せそうになかった。
 ルークは、ルークの知らない気持ちを持て余す。苛ついていて怒りのようであり、胸が苦しくて哀しいようでもあった。そして何故かほっとしてもいた。こんなに複雑な思いを抱いたことがない。
 泣きたくなってきたのはルークの方で、けれど混乱して泣くだなんて情けないことは出来ず、ルークは上を向いて残った全てを呷った。
 イオンはまたしばらくルークをじっと見つめていたが、一度食べ掛けの盆を見て、ベッドから抜け出した。

「ガイ、遅いですね。様子を見てきます」
「俺も行く。お前のお守りなのに、一人で行かせたら意味ねーし」
「ありがとうございます」

 イオンが上着を羽織るのを待たず、ルークは先に廊下へと出た。用を足すには長い時間だが、ジェイド達が戻ってくるほどでもない。せいぜい十分かそこらだ。けれど何だか疲れてしまい、ルークは欠伸を噛み殺す。帰ってきたジェイドと顔を合わせて何か揶揄されるのも鬱陶しいし、ガイが戻ったらすぐに寝てしまおうと決めた。

「お待たせしました。行きましょうか」

 部屋から出てきたイオンは、すっかりいつも通りの微笑みを浮かべていた。少しも泣いた跡などなく、これなら誰かに見られても新たにルークが責められることはないだろう。
 安堵したが、ルークはどうも頭が重く感じられ、視線を落とした。
 手洗は階下にあった。廊下の手すりからロビーを見下ろすが、ガイの姿はない。まだ篭もっているのか、それとも用を済ませてからどこかへ寄り道しているのか。どこかへ出掛けてしまったということはないだろうから、ひとまず階段を下ることにし、廊下を歩いていく。
 宿の窓は大きく取られており、晴れた夜空が広がっていた。横目にそれを眺め、星を探す。
 屋敷にいた頃は世界が狭く、夜になれば空を見上げるしかなかった。同じ大地の上でも、見上げる者の心が違えば見え方も違ってくるのだろうか。
 星は、屋敷で見たよりもずっと少なかった。屋敷はバチカルの中でも高い所にあったそうだから、地上からの距離も問題なのかもしれない。

「綺麗な夜空ですね。明日も晴れそうだ」
「まあな」
「星もたくさん見えますし、月も明るい。きっと外の空気は澄んでいるでしょうね」
「たくさん?」

 言って微笑むイオンに、ルークはつい、口を挟んだ。

「ええ、とても。ほら、こんなに」

 足を止め、ガラス越しに空を指差してイオンが言う。ルークは指差す先を目で追い、むっとして首を振る。
 イオンはいつも、腹立たしくなるほど正しかった。それがこんなことで間違うのは、どうも落ちつかない。
 解せない。
 イオンはいつだって完璧なのだ。完璧に周りの期待に応えているのだ。
 ルークの知っているイオンは、そういうイオンだ。

「屋敷ならもっと見えた。こんなの、一杯だなんて言わねーよ」
「そうなのですか? 僕はダアトでも、これよりもっとだなんて見たことがありません」

 イオンが笑った。ルークには物足りない星空を背に頬を染め、緩ませて笑った。
 途端、ルークは後悔する。
 この笑顔が、本当に堪らなく嫌なのだ。見ていると苦しくて仕方が無い。目を逸らすともっと苛々して、何かが溢れ出てしまいそうで、端的に言ってしまえば――泣きたくなる。けれど実際に涙が流れる訳でもなくて、結局は息苦しいだけ。腹立たしいだけだ。

「バチカルでは綺麗な星空が見れるのですね。不謹慎かもしれませんが、ますます到着が楽しみになりました。ルークの屋敷は城の近くにあるという話ですから、きっと城でも見られるのでしょうね」
「そんなの俺が知るかよ。見てみりゃ分かるんじゃねえ?」
「そうですね、見比べてみるのが一番良いかもしれません」

 イオンは楽しげに言う。
 ああ、だめだ。目を逸らしてしまう。
 ルークは唇を噛んで、足早に階段を降りようとした。そこへちょうど、階段を上ってくる男がいる。
 ガイだ。救われたような気がしてルークはほっと息を吐き、それからガイを散々責めた。
 遅い! 何してたんだ!
 ガイは笑って謝るばかりで、ルークはそれが気に入らずもっと苛々して、癇癪を起こす前に部屋に戻った。イオンがおやすみなさいと背に声を投げたが、聞こえない振りをして戸の中へと身を滑らせた。
 ベッドに入ってもなかなか寝つけず、ささくれ立った心のまま、ただ眠ろうと必死に目を閉じた。脳裏からイオンの微笑みが消えず、ルークは枕に顔を埋めた。
 どうしてこんなにも追い立てられるような気になるのだろう。

 イオンは何も悪くない。イオンのせいではない。
 けれど、イオンのせいだ。




「ガイ、ありがとうございました」
「礼を言われるほどのことでもないさ。それより、話は出来たのか?」

 見た限り、ルークの機嫌は良さそうではなかったけれど、とガイはルークが消えていった扉を眺めた。
 ルークと話をしたいと言ったイオンのために、嘘をついてルークを部屋に導いたのだ。だが、ルークはやはり苛々としていたままだったように思え、ガイは隣に立つ少年を見下ろす。
 イオンは優しげな表情を更に深め、握り合わせた両手は祈るように胸の飾りを握り締めていた。

「ルークは、やはり優しい人なのですね」
「……そう思うのか?」
「はい。不器用で、それをうまく伝えられないだけで……ルークはとても優しい」
「そう言えるイオンの方が優しいと、俺は思うがね」

 ガイは苦笑して肩を竦める。イオンはガイを見上げて、同じように苦笑した。何も言わず、すっと視線をルークが去った扉へと向ける。
 握ったルークの手は強張っていた。苦しい、哀しいと叫びもせず耐えて震えていた。イオンの小さな手では溶かし切れないほど寒さに凍え、凍りついていた。周りから責められることを恐れ、イオンの涙にも怯えていた。それでも、泣くなと怒鳴りつけたりはしない。
 己が身を守る為に、ルークは口を滑らせる。
 それでも、口でどう言おうと、ルークの思考は誰かを思っているのだ。
 星がもっと見えるという話も、適当に流したりはせず、イオンが知らないだけだと教えてくれた。相手に応えるということに、ルークは誠実なのだ。

「私は、優しいルークがとても好きです」
「当人に言ったら喜ぶんだろうが、良い反応はしないだろうなあ」
「ルークは照れ屋ですからね」

 笑みを交わし、イオンは割り当てられた部屋へ向け歩き出した。部屋に残してきた茶も、料理も、もう冷めてしまっただろう。
 おやすみなさいと小さく呟き、イオンはゆっくりと瞳を閉じた。

 絡まり合う想いが言葉よりずっと暖かだということ。
 ルーク、あなたはまだ知らない。





愛しく想う心も、また
(06.10.29./08.11.22.修正)