輿入れ



 目覚めはいつも甘い香りがしていた。それは子どもの頃から食べ慣れた手作りのおやつだったり、手慰みに摘み取られた野の花だったり、ミクリオの服から香る不思議と気の休まる匂いだったり、色々だ。ため息のようなあくびと瞬きを繰り返すと、枕が揺れる。ミクリオが笑って、枕にしていた太ももまで震えが伝わっていた。

「……ミクリオ?」
「ふふ。いや、ずいぶん大きなあくびだと思ってね。飲み込まれるかと思った」
「ふわぁ……らって、……んん、眠いんだ……ふあぁ……」

 返事の中にまで割り込んでくるあくびを何とか押しのけようと腕をうんと伸ばすと、視界の端で何かがはらりと零れる。目で追った先でミクリオの指が小さな白い花を摘み上げていた。今日の甘い香りは、その小さな花なんだろう。まだ湧き起こるあくびに仕方なく口を覆いつつ、片手を伸ばせばミクリオは爪より小さな白い花を手に握らせてくれた。

「可哀想だろ」
「少しだけだよ。それとも、寝顔をじっと見つめていて欲しいのかい?」
「それは、ちょっと……」

 落ち着かなくて眠れなさそうだ。実際はものすごく眠くて眠くて仕方がないから、見られていても寝てしまいそうだけど。それでも、寝起きに目が合ったらびっくりするかもしれない。でも、今だってミクリオは寝起きにはいつもいてくれる。あれ? じゃあ、びっくりはしないのか。寝起きの頭は利口に働いてくれなくて、楽しげに微笑むミクリオをぼんやりと見上げた。
 ミクリオは少し――だいぶ、大人びていた。びっくりだ。寝て、起きたら背を抜かされて、手も大きくなっていて、髪もすっかり伸びていた。だけど一目ですぐミクリオだと分かったのは、瞳の優しさが少しも変わっていなかったからだ。伸びた髪だって、透き通るような薄い薄い水と空の色は変わらない。スレイ、と呼ぶ声も変わっていなかった。遺跡を巡りながらあれやこれやと話していると、子どもの頃から何も変わっていない気がする。
 色んなことがあって、色んなものに出会って、色んなものを失った。ミクリオも少し変わってしまったけど、変わらずそばにいる。以前より、もっとずっと、近くにいてくれる。

「眠る君を見ていると、安心する。だけど同じくらい不安にもなるんだ」

 頭の上でそんなことを言ったミクリオは、別の花を指先で弄びながら深呼吸にため息を隠した。少しだけ遠い目をするこの表情は、目覚めてから何度となく目にしていた。ミクリオはずっとずっと、気の遠くなるほど長い時間を待っていてくれたらしい。自分が同じように長い時間ミクリオと離れ離れだったらどんなに寂しかっただろうと想像してしまえば、謝罪もお礼も、ただの言葉では償えないようで音に乗せられなかった。ミクリオも、別に言葉を欲しがったりはしていないんだろうけど。

「ずっとそばにいると起こしてしまいそうになるし、落ち着かないんだ。ああ、離れるときはきちんと術を施しているから、危険はないよ」
「それは心配してないけど」

 ミクリオの手から零れた小さな花が、額に落ちる。ごめん、と言って近づいた手を?まえると、指先で握った。
 ミクリオは背が伸びて、手も大きくなって、遺跡の中で眠くなってもさっと抱えて移動してくれるようになった。肩を借りるでもなく易々と運ばれる頼もしさは、まだ少し慣れなくて鼓動がどきどきと落ち着かない。それでも負ぶわれながら感じる体温も匂いも昔からずっと一緒だったミクリオに違いなくて、強烈な眠気に引きずり込まれながら最後に耳にするのは、変わらず気遣ってくれる声だった。
 手の中から握った指先がするりと抜け出て、代わりにぎゅっと掴まれる。
 何だか不思議だ。ついこの前まで目線も背も少し下で、手だって同じくらいの大きさだったはずなのに。変わったようで、変わっていない。だけど、やっぱり少し違う。ミクリオが感じている不安は、この落ち着かない気持ちとは別のものなんだろうか。ミクリオが感じている安心は、この手の震えとは別のものなんだろうか。

「今度はオレたちの番だろ。一緒に世界中の遺跡を見て回るんだ」
「ああ。……今度こそ、絶対に一人では行かせない」
「――ミクリオ」

 強く握られたミクリオの手も震えていた。ぎゅっと握られて、だけど痛むことがないよう、こんなときでも大切にされている。ああ、と零れた吐息が漂う花の香りのように甘い気がした。

「今度こそ、絶対に置いて行かない」
「約束だぞ。本当に、君は危なっかしいんだから」
「うん、ごめん。……なあ、ミクリオ」
「ん?」

 掴まれた手指を少し揺らすと、夜明けの空のような薄い紫の目が覗き込む。綺麗な面立ちは少しも変わらなくて、それは、ミクリオを見ていつも感じていた気持ちも同じだった。

「ミクリオのお嫁さんにしてください」

 喉が震えて、言葉になって、目を丸くして驚くミクリオとは対照的にどこかホッとしていた。
 ああ、そうだ。何か、はっきりとミクリオのそばにいられるカタチが欲しかったんだ。
 そんなものがなくたってずっと一緒にいたし、これからも一緒だ。だけど、長い時間の隔たりから心が解れていかないように、手当てがしたかった。いいんだよ、大丈夫だよと、そういうお墨付きのような。
 ミクリオは何か言おうとして、だけどそれを二回の深呼吸に変えた。きつく目を閉じて、唇を噛んで、瞳は悲しげに揺れている。導師として旅をしていた頃、辛い出来事があるたびに、ミクリオはこの目で見つめてくれていた。心を寄り添わせてくれるその眼差しに、何度救われたか分からない。
 ミクリオは、また深呼吸をして、「本当に、それでいいのか?」と言った。

「もう、絶対に離さないぞ。少しも遠くにはいかせない。僕のそばに、ずっと、いてくれるのか?」
「ああ」
「……スレイ、僕は」

 夜明けの瞳から、ぽつりと雫が落ちた。拭おうと伸ばした手も捉まえられて、唇へ押し付けられる。指先を掠めるミクリオの吐息は温かく濡れていた。

「僕は君が欲しい。君の全部が欲しい。……僕のお嫁さんになってくれ」
「うん」

 むずがゆかった頬がふにゃりと緩むと、ミクリオもまだ濡れた瞳を細めて微笑む。昔から大好きだったこの笑顔は変わらないんだな、と重なった唇にため息もあくびも飲み込まれながら瞼を下ろした。寝起きと変わらず甘い匂いに包まれながら、幸せにも匂いがあるんだと、そんなことを考えていた。





「スレイくんに「ミクリオのお嫁さんにしてください」って言ってほしい」とセキさんが仰ってたので書きました。
セキさんの「エンド後は器になってた影響で二時間おきに眠くなってしまい、遺跡探索中に眠ってしまうスレイくん」設定もお借りしてます。
(15.02.25.)