いつもながら



 僕らの仲の良さは、生まれ育ったイズチはもちろん、仲間たちも知るところ。それに関して恥じることは何一つない。血の繋がりこそないけれど、僕とスレイは家族も同然。生まれた時からずっと一緒に過ごしてきたのを、ただ歳を重ねたからというだけの理由で辞めるのは逆に不自然だ。
 そもそも僕は天族で、周囲の目には映らない。スレイが不審がられないよう気を遣っていたのはイズチを出たすぐの頃くらいで、スレイ本人が気にしないから今は僕も大して気にしていない。スレイのそばは落ち着くし、僕らには共通の趣味もあるから話題も事欠かない。
 子どもの頃からずっと一緒に鍛錬を続けてきたから、憑魔との戦いだって僕とスレイの呼吸はぴったり合っている。阿吽の呼吸だとライラは言い、戦いになれば僕らはほとんど一緒に組んで憑魔へ当たっていた。
 だから、とにかく、僕とスレイが一緒にいるのは何らおかしなことじゃない。
 そのはずだ。

「なぁミクリオー」
「スレイ、いい加減にしてくれ」
「嫌だ。絶対離さない」

 片手鍋の持ち手を離し、僕は腹にぐるりと巻き付いたスレイの腕に手を掛ける。無理やりほどこうとすればムキになるのは目に見えている。もちろん、本気で抗議すれば話は別だ。スレイは時々、可愛らしい程度のわがままを言う。程度はともかく困るのは僕で、だけど心から困るようなことはない。スレイは僕の嫌がることなんてしない。それは僕も同じく。それくらいは分かっている。
 だけど僕はやんわりと、それでもはっきりとした拒絶をぶつけるしかなかった。

「スレイ! 今は危ないから……」
「もう火は止めただろ。ゼラチンも溶けてるし、後は器に入れて冷やすだけ」
「……作り終わったら話し相手でも何でもするさ。だからスレイ、離してくれ」
「いーやーだ。……何か隠してるだろ、ミクリオ」

 じゃれて遊んでいるだけならどれだけ良かったか。スレイの心根の優しさに良心が痛む。心配そうな声音に、僕は苦しい胸の内からため息だけを吐き出した。
 スレイの言う通り、おやつ作りの工程はもうすぐ終わり。用意した桃の半分を煮て裏ごしたものは、既にゼラチンと混ぜ終わり、たった今鍋からグラスへと移し終わってしまった。スレイはきっと見計らっていたんだろう。調理中なら僕は確実に「危ないから」という理由で遠ざける。理にかなっていればスレイはそれ以上ねばれない。ふざけたら危ない工程を終えて、けれど作業を終える前。スレイは僕のことをよく考えてくれたんだろう。
 スレイは何もわかっていない。それでも僕の様子がおかしいと、それだけは分かってしまった。僕がそうであるように、スレイも僕のことをそばでよく見ていてくれるから、不思議はない。

「スレイ、本当に今は、離れてくれ」
「無理には聞かない。けど、……部屋で待ってるから」
「――スレイ」

 心から案じてくれているのだと分かる。心苦しさは募る一方だ。
 思わず振り仰いだ僕の眼前で、僕を抱きしめたまま目を閉じたスレイの瞼が、ほんの少し震えている。
 唇が空気を食んで、僕は必死に言葉を飲みこむ。うつったように震える唇を噛んで、ぎゅっと回されたスレイの腕を、そうっと撫ぜた。
 背中に感じる体温も、包み込むようにほんのりと香る匂いも、耳を掠める吐息も、スレイの何もかもが僕にとても馴染んで、そして最悪な気分へと追い込んでいく。
 頭がぼうっとして、僕は努めて平静を装う。深呼吸をすると、まだ温かいゼリーの甘ったるい香りが鼻をついた。

「ゼリーが出来たら、持って行く」
「……うん!」

 僕の返事を了承と受け取ったのだろう。スレイは破顔一笑、お腹に回していた腕を離すと「あとでな、ミクリオ!」と足取り軽く扉をくぐっていった。
 部屋は広くない。スレイはベッドに腰掛けて本を読んで僕を待つんだろう。今日あったこと、本を読んで思ったこと。僕に話し掛けて、子どもの頃よりは少し離れてしまった目線をまっすぐ僕へと差し向ける。身体ばかり大きくなって、まっすぐな心根も優しさも、僕を見つめて嬉しそうに笑う瞳の輝きも変わらない。
 変わってしまったのは、僕だけだ。
 何度目かのため息が出る。すっかり止めていた手を動かしてゼリーを冷やす用意をしながら、この後の段取りを思案する。使った調理器具を洗って片付けたら、出来ればサウナにでも入って滲んだ冷や汗を流してしまいたい。ああ、でも、その前にまず――

「……まいったな」

 何重もの意味で痛感しながら、備え付けの小さな椅子へ気だるい半身を預ける。今は誰も来てくれるなと祈りながら、僕はしばらく頭を抱えて項垂れた。



 まいったなと何度目かのため息をつく。まいった、と思うのも今日何度目かだった。
 スレイときちんと話をしようと決めて、約束通り出来上がった白桃のゼリーを持って部屋に戻ったのは少し前のこと。扉をノックする前に二度深呼吸をして踏み込んだ僕は、本を広げたままベッドで寝落ちしているスレイの姿にどこか安堵していた。話さなくてよくなったからではなく、スレイがそれほど気に病まずにいてくれたようだからだ。
 持ってきた二人分のゼリーをサイドテーブルへ置いて、寝転がるスレイの下からずるずると布団を引っ張り出す。ベッドに腰掛けて本を読んでいて、そのまま後ろへ倒れたようだったから、最終的には割と思い切り布団を引っ張り出す羽目になった。

「せーの、えいっ」
「……んん」
「スレイ、きちんと布団で寝てくれ」

 いささか乱暴に布団を引き出したのはスレイを起こす手間を省くためでもある。頭が掛け布団から敷布団へずり落ちたところで意識を取り戻したスレイは、うう、と唸りながら起き上った。
 二度ほど瞬きを繰り返して、それからぼんやりと僕を見つめる。

「ミクリオ」
「おはよう。寝間着に着替えて」
「ああ、……うん。ごめん」

 眠りの中、中途半端なところで起こしたせいだろう。頭を抱えてため息をつきながら「あー」だの「うー」だの唸ってスレイはふらふらと立ち上がる。大あくびをしながらブルーのシャツを脱いで、壁際に置かれた椅子の背にかけた。アンダーの上から寝間着を被り、掛け布団をめくり上げた僕のところまで戻ってくるとそのまま仰向けに寝転がった。足は床についている。着替えただけで、さっきまでと同じ体勢だ。

「スレイ」
「イズチにいた頃は、よく一緒に寝てたよな」

 そこで言葉を切ったスレイは、つまり僕も着替えて一緒に寝ようと、そう言いたいらしかった。大したものだな、とどこか他人事のように思いながら「分かったから、布団に入ってくれ。そのままじゃ冷える」と腰掛けているスレイに無理やり布団をかぶせていくと、頭から布団を押し付けられたスレイは慌てて横になった。
 上着を脱いで、頭から寝間着を被って。子どもの頃着ていた服に似た寝間着は袖口が広くなっていて、ずいぶんと通気性がよさそうだ。肌触りの良さに感心しながら、僕は背中に感じる視線の主を想う。
 スレイの言う通り、イズチにいた頃は一緒に寝ることも多かった。子どもの頃だけじゃなく、例えば朝早くから狩りに出る約束をした夜は、他の者を起こさないよう東の森への入口に近いスレイの家で眠ったし、遺跡探検の後で話し込んでしまえば、わざわざ戻るのが億劫になってそのまま二人で毛布を被ったこともあった。
 イズチ全体が僕らの家で、イズチに暮らす全員が家族だ。僕らはイズチから出ることはなかったし、どこで寝ようと大差ない。寒ければくっついて寝た方が暖かいし、気の置けないスレイと眠るのは安らげた。僕は毎日起きたらスレイと話してスレイと遊んだし、狩りに出るのも食糧集めに行くのもほとんどスレイと一緒だから、わざわざ別の場所で寝起きする方が面倒なような気がしていたこともあった。
 別段やましい気持ちはなかった。それは、今この瞬間も変わらない。
 灯りを落とし、身支度を整えて振り返ると、布団の中でごそごそと落ち着く場所を探していたスレイが掛け布団を少し持ち上げて待っていた。体温を脱いだ服に持って行かれ、少し肩を竦めて足早に潜り込む。ベッドのスプリングがギィと鳴いて、滑り込んだ布団の中で慣れたスレイの匂いがした。

「ゼリー、ごめん」
「一晩くらい平気だ」

 受け皿に小さく氷を作って置いておいた。いくら効果があるかは分からないけれど、ダメならまた作り直せばいい。今より優先すべきものなど僕にはない。
 僕も布団の中で落ち着く場所を探した。スレイの顔がよく見えるよう、横向きに寝転がる。緑の瞳は穏やかな様子で僕を映していた。
 ふ、と漏れた吐息が布団の中から僕の口元へ伸ばされたスレイの指先に届く。一度留まって、それでも手のひらはそろりと僕の頬を覆った。手袋をはずしたスレイの手のひらが、僕の頬をすっかり包み込む。眠っていたせいか、手は温かかった。
 一つの布団に寄り添うスレイは、すぐ目の前にいる。親指の腹で頬骨をなぞって、スレイが微笑む。それから、ふわりとあくびをした。

「待たせたね、スレイ」
「まったくだ。待ちくたびれて眠い。あと、」
「少しふて腐れてる」
「だいぶだよ」

 そう言うスレイはうとうとと瞬いている。瞼がずいぶん重そうだ。触れたままの手は投げ出されたも同然で、冷えないようそっと両手で包んで、祈るように口先へ寄せた。
 僕の両手の中で、スレイの手は大人しく横たわっている。覗く爪先に唇で軽く触れながら、僕は目を閉じた。

「色々言わないといけない。頼みたいことがあるんだ。でも、うまく言葉にならない」
「いいよ、何でも。思いついたことからでいい」
「スレイ、安請け合いは」
「いいんだ」

 唇を動かすたび、スレイの爪が唇を掠めた。僕の呼気がスレイの指先を濡らして、瞼を開けると、スレイは静かに僕らの手を見つめている。こくりと喉を鳴らしても、乾いて少しも潤わなかった。

「ミクリオだって、オレの頼み聞いてくれるだろ」
「時と場合と内容によるだろ」
「でも、結局最後は聞いてくれる」
「……いいんだ。スレイは」

 苦い笑みと、言葉が重なる。

「特別だから」

 言葉はまだうまく見つからない。僕は右の人差し指をそうっと伸ばし、スレイの乾いた唇をなぞった。触れたそばから弧を描いた唇が、薄らと開く。スレイが何か言う前に、僕は布団の中で身体を起こすと鼻先を寄せた。
 焦点が合わないほど間近で、スレイが小さく笑っている。

「いい?」
「もちろん」
「――ありがとう、スレイ」

 触れた唇は思った通り乾いている。軽く押し付けて離すとスレイが伏せていた瞼を少し開いたところだった。口づけたとき、閉じてくれたらしい。
 舌で下唇へ触れる。唇同士がわずかに触れる間で、僕はゆっくりとスレイの唇を濡らした。唇の端から、ふっくらとした中心。上唇は、少し舌を伸ばした。ソフトクリームを舐めるように、僕は何度も舌を伸ばす。
 スレイはまた目を伏せてた。僕が舐めるたび唇はほんの少し形を変えて、薄く開いた口から細い吐息が漏れ出ていた。
 最後に自分の唇をぺろりと一回しで舐めると、僕は少し身を引いて、スレイの顔を眺める。窓の外の薄明りだけでも、僕の夜目にはスレイの唇が濡れて光って見えた。そうしてスレイが目を開く。緑の瞳が、濡れた唇で笑う。

「ミクリオ、オレも言いたいことあるんだ」
「何なりと。でも、僕が先だ」

 濡らした唇を押し付け、軽く吸って離す。ちゅ、と音がして、口づけた瞬間また瞼を下ろしていたスレイがパッと目を開いた。僕も笑って、笑んだ唇のままスレイの口を覆う。伸ばした舌先で歯列をなぞり、その先でスレイの舌に触れた。逃げ腰なそれを追うように深く口づける。どちらともなく、合わせた唇の合間から、ふ、と息が漏れた。

「ん、んう……」

 鼻にかかったような声は耳慣れず、だけど僕は、すぐに好きになると思った。スレイのことで、僕が気に入らないことは滅多にない。
 噛みつくように何度か口づけて、ようやく僕は身を引いた。狭い二人の間にため息が、あるいは恍惚とした吐息が、重たく広がる。心地良い気だるさに身を浸しながら、僕は親指でスレイの口元を拭ってやった。スレイは、さっきよりずっと眠そうにしていた。

「もう終わり?」
「今は」
「そっか」

 ふう、とスレイは深く息を吐く。動いてずれた掛け布団を直して、僕はスレイの腰に腕を回して身を寄せた。気付いたスレイも、目を細めて額を寄せる。二人の間には重ねたままだった手が横たわるだけだ。
 少し迷って、もう一度触れるだけの口づけを交わす。スレイは、もう目を閉じなかった。

「意外と簡単だった?」
「するだけなら、何とかね」
「オレは今ちょっと大変かな」

 嬉しそうに肩を竦めて、スレイは重ねた手指を絡めて握る。どちらも冷えてはいない。ホッとして、スレイの表情を見逃した。

「結構ドキドキしてる」
「――え?」
「ミクリオと初めてしたときより、緊張した」

 視線を上げるとスレイはもう目を閉じていて、僕を受け入れた瞳が揺らいでいたのかどうかは分からない。惜しいことをした。もっと、ひどくすればよかった。
 スレイは目を閉じたまま、「おやすみ」と呟く。

「ありがとう、ミクリオ」

 そこでお礼を言うのか、と半ば呆れながら、僕は笑んで身体を起こす。まなじりを濡らす一滴に唇を寄せて、それからまたぴったりと身を寄せて目を閉じた。
 布団の中は温かく、繋いだ手は緩すぎず、きつすぎず、しっかりと合わさっている。

「いつもながら甘いね、スレイ」

 そうしていつも甘やかされてきた僕は、喉元まで来ていたお礼の言葉を腹の奥底へと押し留める。僕の頼みは際限がないから、お礼の言葉もきりがないだろう。それは、スレイの頼みを受け止めることで良しとする。
 慣れた温もりと慣れた匂いに身を委ねながら、僕は浅い眠りに足先を浸す。まだ少し震えていた唇を舐めると、興る衝動を宥めてひっそりと笑んだ。





(15.02.21.)