ふたりはひとつ



「スレイ! ミクリオ! ご飯だよー!」
「はぁい!」

 大きく返事をして池のほとりからひょこりと立ち上がった子どもは、まだ水面を覗き込んでいる親友へ手を差し伸べる。そよぐ風にゆらゆらと揺らぐ水鏡に差した影でそれに気付き、澄んだ緑の瞳が子どもを振り仰いだ。

「帰ろう、スレイ」
「うん!」

 小さな手は重なり、きゅっと握り合って水面を離れる。足元の花々を避けてぱたぱたと走る小さな二人は適当に節をつけた即興の歌を歌いながら、穏やかな日差しの下を駆けた。

 まだ齢五つにも満たない二人の子ども――スレイとミクリオは、赤ん坊の頃からイズチの杜で皆に育てられていた。イズチの者は皆天族で外見よりもずっと長い生を過ごしているが、元来天族は子を成さない生き物である。当然ながら育児経験など皆無に等しく、当初は何か起こるたびに皆で右往左往したものだ。
 幼く、また脆弱な人間の身体であるスレイのために雨風を凌げるよう家を建て、生命を維持するために水や食事を用意する。どちらも天族には不要なものだ。書物を読み、古い知識を持ち出して人間の生活を真似て、ようやく落ち着いた生活が送れるようになる頃には、共に育てた二人の赤子はすっかり仲良くなっていた。
 育児に不慣れなイズチの者たちは、当然単独で彼らの世話をするのは難しい。赤子は二人一緒に世話を焼かれていることが殆どで、不思議なことに、どちらかが泣けばつられて泣き、どちらかが泣き止めばもう一人もぴたりと泣き止んだ。同じ場所で同じ時間を過ごし、同じものを食べ、同じように眠る。そうしてイズチに暮らす皆が悪戦苦闘しながら育てた子どもたちは、近頃はたどたどしくも言葉を話し、あちこち歩き回るまでに成長していた。
 二人は本当の兄弟のように仲が良く、いつでも一緒にいた。スレイ、ミクリオ、と互いの名前を口にしているのが一番多いと言ったのは誰だったか。何をするにも二人は一緒で、片方を呼べばもう片方も付いてくる。それが当たり前に受け止められるほどだった。

「なぁミクリオ、おこられるかな?」
「うーん……」

 食事を用意してくれているメディアの家へ向かいながら、ミクリオはちらりとスレイの足元を見つめる。今日は朝ご飯が済んでからイズチの中にある池のほとりで遊んでいて、水に草花を浮かべたり、小さな穴を掘ってそこに水を入れてみたりしていた。そうして遊んでいる最中にスレイが誤って池に落ちてしまったのだ。
 池とは言っても、子どもの腰までもない浅く小さなものだ。溺れることはなかったが、腰から下はすっかり濡れてしまって服も色濃く変わっている。もう少し暖かな時分に二人で水遊びをした頃にびしょ濡れのまま家へ上がり込んで叱られたことを思い出し、ミクリオは眉根を寄せた。

「そのままあがったら、おこられるかもね」
「だいたい乾いてるけど……」
「はいる前に聞いてみよう」
「うん、そうする」

 小さな頭が二つ、うんと頷いて揺れる。「お腹すいたなぁ」と笑うスレイに、ミクリオも「今日はなにかなぁ」と笑い返した。繋いだ手を揺らしながら走る二人を、杜の住人たちは微笑ましく見守っていた。


 それが、その日の昼前のこと。
 ミクリオは目に涙をいっぱい浮かべて、「スレイ、スレイ」と呼びかけていた。

「どう、しよう……ううっ。スレイ、スレイ……」
「落ち着くのじゃ、ミクリオ。泣くでない」
「だって! だって、スレイが……」
「大丈夫よ。よく眠ればきっとすぐ良くなるわ」

 スレイとミクリオの育ての親であるジイジがため息をつく前で、スレイの額に濡れた布をのせていた天族の女性が振り返り、困った様子で笑う。
 濡れた服をそのままにして遊んでいたのがいけなかったのか、昼食を食べ終わってしばらくするとスレイはお腹が痛いと言い出し、夕方には熱が出てしまった。腹痛を訴えた時点で遊ぶのをやめて布団へ入っていたが、熱が出たことで苦しくなったスレイは「あつい、さむい」と言いながら泣き出してしまい、そばについていたミクリオも驚いて泣き出してしまった。ミクリオが泣きながら部屋を飛び出してきたことで杜の者が気付き、そうして今、熱さましの薬を飲ませてようやく寝かしつけたところだった。
 スレイは時々熱を出すが人間の子どもにはままあることで、別段虚弱な訳ではない。今日は少し無理をして身体が冷えてしまっただけだ。薬草を煎じた薬は以前もよく効いたし、身体を温めてぐっすり眠れば明日にはケロっとしているだろう。
 そんなことは前にもあったというのに、ミクリオはいつまでもスレイの眠るベッドのそばへ座り込んで、ずっと彼の名前を呼んでいた。まるで今にも死んでしまいそうな悲しみようだ。

「ミクリオ、スレイを寝かせてあげないと。今日は私の家へいらっしゃい」
「そうじゃな。ミクリオ、そうしなさい」

 明かり取りの窓の向こうはもうすっかり暮れている。常ならスレイもミクリオも布団へ入ろうかという頃合いだ。大人たちの誘いに、けれどミクリオは首をふるふると振ってぐずった。引き離されまいと思ってか、小さな手がきつくシーツを握りしめている。
 どうにか宥めて寝かせなければとジイジがため息をついたとき、小さな声が「みく、りお」と呟いた。それまで瞼を閉じていたスレイが、ぼんやりと目覚めていたのだ。ミクリオは慌ててスレイの顔を覗き込んだ。

「スレイ!」
「……ミ、クリ、オ」
「スレイ、スレイ……っ」
「ないちゃ、だめ、だよ……」

 布団の中からゆっくりと手を出したスレイは、ふらふらと覚束ない様子でミクリオの頬に触れる。熱が高く意識が朦朧としているのか、ゆっくりとまばたく目は焦点が定まらずどこか虚ろだ。それでも、労わるようにそろりそろりと頬を撫でると、手のひらでミクリオの涙を拭っていく。

「……ス、レイ」
「ミクリオ、くるしく、ない?」
「うん、ぼくは……ぼくは、へいき……」
「よかったぁ……」

 ほうっとため息をつくと、スレイはそろりと布団の中へ腕を引き戻す。はぁ、はぁ、と苦しげに布団を上下させながら、ミクリオに笑いかけた。

「いっしょに寝られなくて、ごめんな」
「……ぼくは、へいき。がまん、できるよ」
「すごいなぁ、ミクリオは」

 ふふ、と笑ってからスレイは一度言葉を切り、その笑みを少しだけ翳らせる。
 涙の止まったミクリオがそうっとスレイの頬に手を伸ばすと、ゆっくりとため息をついて瞼を下ろした。

「おれはさみしいから、はやくなおすよ」

 スレイの言葉にはっと息を飲んだミクリオは、悲しげに顔をしかめながらも小さく「……うん」と応えてスレイの頬を撫でる。まなじりから一筋流れようとした涙を優しく拭い取ると、今度はそろりと頭を撫でた。

「スレイが、はやくよくなりますように。くるしいの、なくなりますように」

 ゆっくりとスレイの髪を撫で、片手を自分の胸へ当ててミクリオは目を閉じる。祈りの言葉を口にして開いた目からは、もうすっかり涙の気配は消えていた。
 いつも元気なスレイがこんなにつらい思いをして、さみしがっている。それならミクリオは、スレイが少しでも安心できるように元気でいないといけない。わがままを言って心配をかけたら、スレイはミクリオのために無理をするだろう。それでは駄目だ。
 そっと布団から離れると、ミクリオは小さな両手でジイジの手を取った。

「ぼく、寝てくる」
「うむ。スレイにはワシがついておるから、安心せい」
「うん。おやすみなさい、ジイジ」

 女性が手当に使っていた道具を片付けて立ち上がる後ろについて扉をくぐる前、ミクリオはもう一度スレイを振り返る。話をして疲れたのか、スレイはもう眠っていた。苦しげな呼吸に心を痛めながら、ミクリオは口の中で小さく呟く。

「おやすみ、スレイ。はやく、よくなって」

 唇を震わせ、暗い夜道を俯きながら歩いて行く。
 疲れたでしょう、早く休みましょうね。
 気遣って掛けられる声に頷きながら、ミクリオはまた涙があふれ出しそうになるのを抑えるために胸元をぎゅっと握った。スレイが元気になりますように。くるしいのも、いたいのも、なくなりますように。願いながら、ミクリオはすんと鼻を啜った。

「ぼくもさみしいよ、スレイ」



 気を張っていたせいもあってか、結局ミクリオはずいぶんとぐっすり眠った。昨日の憔悴ぶりを可哀想に思われたのか家主の女性に起こされることもなく、太陽がずっと上へ昇った頃ようやく大きなあくびをしながら布団を抜け出した。
 家を抜け出して見れば外はすっきりと晴れた青空が広がっている。足元の短い緑をさわさわと揺らす風はほんのりと暖かく心地良い。何だかいい予感がして、ミクリオはスレイの元へと駆けだした。

「おはようミクリオ」
「おはよう!」
「転ばないよう気を付けるんだぞ」
「うん!」

 イズチで一番の頂に建つ家を目指して走れば、イズチの仲間たちは優しく声をかけてくれる。それに一つ一つ返事をしながら、息を切らして走り続けた。ミクリオの細くやわらかな髪がふわふわと跳ね、すみれ色の瞳は期待と不安に揺れて輝く。
 昨日スレイと遊んでいた池が見えてくると、自然と足が止まってしまった。日差しを受けてきらきらと輝く水面は明るく眩しいのに、中心にそびえる大岩の影のように、ミクリオの心にすっと冷たいものが過る。

「……ぼくが、スレイについててあげなきゃ」

 口にすると何だか違う気がしたが、ミクリオは自分の心を奮い立たせるので精いっぱいだった。少し池から距離を取ると、再び走り出す。ジイジの家は、もうすぐそこだ。
 小さな足を目いっぱい動かしながら、けれど視線は下がっていく。まるで何かに追い立てられているような、恐ろしい何かから逃げているような心地で駆けるミクリオは、またじわりと目の奥が熱くなってぎゅっと手を握りしめた。

「ミクリオーっ!」
「スっ、……うわぁっ!?」

 呼び声に驚いて顔を上げるのと、転げるように飛び込んできたスレイがミクリオを吹っ飛ばしたのはほとんど一緒だった。勢いよく飛びついてきたスレイを抱き留めて、けれどあまりの勢いに踏み止まることも出来ず来た道をごろごろと転がり落ちていく。

「うわああああ!?」

 結局子どもたちが止まったのは、少しなだらかになった池のほとりだった。ちょうど昨日二人が遊んでいた辺りである。柔らかく茂る草葉のおかげで大した痛みはなかったものの、驚きと転げ落ちた恐怖で固まるミクリオの横でスレイがぴょこりと顔を上げて笑った。

「あー、びっくりした!」
「こっちのセリフだよ、スレイ!」
「アハハハ! だって、やっとミクリオに会えたからさあ!」

 地面に伸びたままのミクリオの目には、青い空とにっこり笑っているスレイだけが映っている。スレイはすっかり具合が良くなったようで、昨日の夜あんなに苦しそうだったのが嘘のようだ。
 とっても心配したのに当のスレイはケロッとしているから、ミクリオはホッとしたような、呆れたような複雑な気持ちになる。そんなミクリオのことなど気付きもせず、スレイは興奮気味に「ミクリオ!」と言って顔を覗き込んできた。

「ジイジが、もういっしょに寝てもいいって!」
「ほ、ほんとに!? スレイ、もうへいきなの?」
「うん! でも、今日はまだ家の中であそびなさいって」
「えっ」

 今は思いっきり外だ。しかもものすごい勢いで転がり落ちてきた。慌てて飛び起きたミクリオは、スレイの頭からつま先まで全部に目を走らせて、ぺたぺたと触ってケガをしていないか確かめる。くすぐったいと笑うスレイに怒りながらどこもケガしていないことが分かると、ミクリオは小さい身体を更に小さくしょんぼりと肩を落としてため息をついた。

「よかった……」
「はやくミクリオに会いたかったから」
「でも、あぶないのはだめだ!」
「……おなか、すいたから」

 怒るミクリオに身構えながら、それでもスレイは口を尖らせて言う。

「ミクリオといっしょにたべるから、ごはん、まってたんだ」
「スレイ、たべてないの? ……おくすりは!?」
「まだだよ」
「だっ、だめだよ! はやくのまなきゃ!」

 もう! と憤慨しながらミクリオはスレイに飛びつくと、ぎゅうっと抱きしめる。

「まったく、スレイはぼくがいなきゃだめなんだから!」

 飛び出た言葉はまた少し違う気がして、けれどやはりミクリオは自分の気持ちで手いっぱいだった。くるしいよ、と笑うスレイを少し離して、ミクリオは小さな手を取る。駆けてほんのり温もった指先を握り、立ち上がった。

「いっしょにたべて、おくすりものんで、それからいっしょにあそぼう!」
「うん!」
「いっしょにおかたづけして、いっしょに寝よう!」
「うんっ!」

 ミクリオに手を引かれて立ち上がったスレイは、はやくはやくと手を引いて駆け上っていく。晴れた空に、足元は柔らかな緑。スレイの茶の髪が一歩走るたびにふわりと跳ねて、ミクリオは繋いだ手をぎゅっと強く握る。
 振り返ったスレイが、翠の目を陽の光に輝かせて笑った。

「ミクリオ、はやく帰ろう!」
「……うん!」

 一人で駆けていたときが嘘のように足取りは軽い。ぱたぱたと走る二人の影はあっという間に頂へ届いて、競うように扉へ飛び込む。目を盗んで飛び出していたスレイを叱る声へ一緒になって縮こまりながら、ミクリオは同じ笑顔を見合わせて笑った。





(15.02.15.)