逃げ水の願うこと



 暮れたグランコクマの広い街をくまなく歩いた。
 探していたのは赤毛の子供で、けれど見つけたからといって特別な用事があるわけでもなかった。王宮への報告は済ませたが軍部に戻れば仕事が山と詰まれている。それを分かっていて尚、当てもなく歩き回っていた。
 ルークの音素乖離の事実を知ってから強行軍を避けるようになった。それは実に巧妙に為されており、誰もが以前よりの変化に気付かなかった。
 それはジェイドにとって好都合であったし、仲間に音素乖離を知られたくないと思っているルークにとっても都合が良かった。
 少なくとも、そのはずだとジェイドは想定していた。
 馴染みの酒場を覗いたが姿はなく、店を出たその足で貴族の屋敷が立ち並ぶ区画へと向かった。そこにはジェイドの屋敷もある。ルークが立ち寄りそうな場所はあらかた回ってしまったので、仕方なく足を向けた。
 屋敷にはもう随分と帰っていない。軍部で一室を与えられており、仮眠室もあるとなれば帰る時間のほうが余程勿体なく思えるのだ。
 旅を続けている間は王宮と軍部、そして仲間の泊まる宿を往復していた。使用人が家を片付けているはずだが給金は軍から受け取るよう取り計らっていたので、屋敷を持っているのだということもすっかり忘れそうになっていた。
 街灯の明かりは煌々と足元を照らしている。長い影が舗装された道の上に伸びて揺れていた。高い塀に囲われた白亜の屋敷が立ち並んでいる。その家々からそれぞれ黒い影が落ちている。影の上を歩いていく。
 ブーツの踵が慣らす足音がやけに静かな辺りに響いていた。背の高い塀ばかりだから反響しているのだろうが、それにしてもうるさく鼓膜を叩いて煩わしい。
 見知った者の屋敷の角を曲がり、ずっと奥へと歩いていく。あと一つ角を曲がればジェイドの屋敷が見える。そこで、すいと視界に白いものが過ぎった。白い布がジェイドの視界で角を曲がっていった。

「ルーク」

 聞こえているのかいないのか、白い服の裾の持ち主はそのまま先に歩を進めてしまったらしい。少しだけ足を速め、ジェイドも追って角を曲がった。
 ジェイドの屋敷が見える。他の屋敷に倣った高い塀、飾りのついた荘厳な門扉。
 その門扉を、白い服がくぐって行く。動くたびに翻る彼の服だけが宵の街に浮かんで見えた。半ば駆け足になりながらジェイドも屋敷に飛び込み門を押し開けた。後ろ手に閉じ、薄暗い屋敷の前庭を見渡す。
 使用人はもう帰ってしまったようで、この屋敷だけどこにも明かりが灯っていなかった。背後から僅かに届く街灯の燐光を頼りに目を凝らすと、左手に何か動いたような気配がした。迷わずそちらへ歩いていく。

「不法侵入ですよ」

 屋敷をぐるりと回り塀に囲まれた庭でルークを捕らえた。子供は塀の際に設けられた花壇の前でしゃがみ込んでいる。芝生を踏む音が、やはり耳障りに大きかった。

「ジェイドが黙っててくれたらばれないだろ」
「……どうしてここに?」

 振り返り、短い赤毛がふわりと揺れる。ルークは困ったように笑みを浮かべて頭を振った。膝に手をついて「よいしょ」と大仰に立ち上がり、ジェイドの横をすり抜けて屋敷の傍まで歩いて立ち止まる。
 ジェイドにはまたルークの背しか見えなくなった。

「ジェイドこそ、どうしてここに来たんだ?」
「あなたを探しに来たんですよ」
「仕事放り出してまですることかよ」
「ふらふら彷徨って人に心配かけた者の言うことではありませんね」

 語調を強めて言えば、ルークはしばし口を噤んだ。それからゆっくり空を見上げ、ふっとため息を打ち上げた。

「ありがとうジェイド」

 もうこの場に街灯の光は届かず、月明かりだけでルークを見ていた。まだ満月ではないが、それでもやけに明るくルークの緋色の髪が美しい紅色に映っていた。まるでアッシュのような、深い赤だった。
 朱より濃く紅より明るいと、ジェイドの瞳をそう評したのはルークだったはずだ。それがいつのことか、明確に思い出せない。

「待っててくれて、ありがとう」

 何も言わずに、白い背を見ていた。足元を夜風が走りぬけ、ひらひらと裾を揺らす。
 狭量な心がくだらない恨み言を吐き出そうとして、ジェイドはそれを押しとどめた。漂う空気はひんやりと涼しく流れているのに、己の内から込み上げる思いは重苦しく、切ない。
 ルークがこちらを振り返った。少し見上げて、気の抜けるような微笑みを浮かべている。白い屋敷の前で緑の芝生の上に立ち、赤い髪を黒い空に靡かせている。

「ジェイドはもう帰らなきゃ駄目だ」
「――ルーク、私は」
「大丈夫。全部ちゃんと分かってるよ」

 だから大丈夫だよ、と念を押すようにルークは繰り返した。
 念を押されたのはジェイドの方だった。視線をはずすことは出来ず、けれど正視も出来ず目線を下げる。ゆらゆらと揺れる白い裾をねめつけた。もしかしたら表情に出ているかもしれない。この、耐え難い情念が浮かんでいるかもしれない。
 この感情が生まれる前にかえりたい。
 この感情が生まれた後に出会いたかった。
 最初から彼をよく見ていたら、少しは今が変わっていたかもしれない。形振り構わずに手を尽くせば、あるいはルークの乖離を少しでも遅らせることが出来たかもしれない。限りなく可能性が低くても、手を尽くすことは出来たはずだ。
 後になってらしくもなく悔やむほどの願いをなぜ叶えられないのだろうかと、ジェイドは己の手をじっと見つめた。
 全てを失う訳ではない。けれどジェイドは世界を失うのだと知った。この世の全ての繋がりが崩れ、消えていく。光を失い色を捨てて彼の元へと集まっていく。そう、思い知らされた。
 たった今も抱いた感情の名は分かった。ずっと分からずに生きてきて、そのせいで多くのものを失い、道を誤った。今更理解してなんになるというのだろう。今ここにあるこの思いさえ、すぐに奪われてしまうというのに。

「ジェイド、行こう」

 ルーク。
 愚かなジェイドが生み出した技術から生まれた、愚かで哀れなレプリカはジェイドの目前できらきらと輝きながら微笑んでいた。辺りの色という色が全てその輝きに収束していく。
 そして柔らかな声音でジェイドを呼んだ。

「大丈夫だよ、ジェイド」

 一際強い風が吹いて、ジェイドは視界を閉じた。風が収まり目を開くと、そこには何ら変わりない風景が広がっていた。月明かりの淡い光の下で薄暗い景色が広がっている。
 主の帰らぬ無人の屋敷がひっそりと佇んでいた。




 世界は色を失ったまま、ジェイドから急速に離れていった。
 それでもジェイドは生きている。オールドラントの大国、マルクト帝国の大佐として日々を重ねていた。一穂の焔に触れることはもうない。けれど生きていた。
 「ジェイド」と己を呼ぶ彼は永遠に失われてしまった。彼へと抱いていた数多の想いも、共に失われた。それらが何であったのか、今のジェイドには到底理解できなかった。
 まだ生まれたばかりだったのだ。柔らかなそれらはゆっくりと息づいて、これから名前をつけようとしていた。自分からそれらを引き出したルークと共に、それが何であるか知ろうと思っていた。それを願い口にする前に、彼は失われてしまった。
 それでもまだ、ジェイドは子供の帰りを待っていた。
 子供はジェイドに「ありがとう」と言ったのだ。 「待っててくれてありがとう」と、そう言った。それが幻視に過ぎないのだとしても、ジェイドはそれを見てしまった。見てしまったら、もう、それに縋るほかなかった。
 ジェイドは世界を失ったのだ。
 何もない世界に子供が現れたのなら、何であれ、それが全てだった。

 いつまでも捕まえることの出来ない逃げ水のような子供は、ありがとうと言った。
 ジェイドが生み出した不安と孤独から生まれた、愚かで哀れな幻はジェイドの目前できらきらと輝きながら微笑む。
 それが本当の子供の願いではないと知りながら、ジェイドはいつまでも待ち続けるのだ。





(07.05.03./08.11.17.修正)