「あまり他人を信用しすぎないことです」

 ジェイドの言葉に、振り返ったルークの眉が怪訝そうに寄せられる。動きに合わせてふわりと揺れた長い赤毛は、毛先がやや明るい色をしていた。

「どういう意味だよ」
「そのままですよ。信じるな、ということではありませんが」
「ワケわかんねぇ……」
「よく考えなさい」

 窓際に立って視線を外に向け、ルークはぼんやりとしていた。不機嫌なその顔には少し擦り傷がある。彼は、親友と派手な喧嘩をしたばかりだった。怪我の手当てにやってきたジェイドへ喧々囂々と罵倒の言葉を並べ、喚きつかれて不貞腐れている。
 喧嘩相手の方も自室へ戻ったようだ。可哀そうに、どちらが悪かろうと相手の方へ厳しい罰が下るに違いない。

「ガイは信じたらダメなのか?」
「さあ、私はあまり親しくないもので」
「はあ? なんだよそれ」

 ルークが口を尖らせる。じきに17になるというのに幼い仕草は一向に治らなかった。手厚い庇護下にいれば、それがどのような方向に伸びるにしろ、甘えで子供っぽくなってしまうのだろうか。
 ジェイドが知っていたもう一人のルークは、我が侭で癇癪もちの子供だった。今のこのルークは、甘ったれの寂しがり屋だ。
 少し、接し方を間違えたと思う。もう少し距離を置いて用心深く見守るべきだったのかもしれない。
 だが、もう二度と失いたくないという強い想いがどうしてもジェイドの心を鈍らせる。

 生まれてくることは防げなかった。
 ジェイドが目覚めたとき、ルークもまたこの世界に目覚めていたのだ。生まれたばかりの、泣きじゃくる子供をジェイドは抱きしめた。自分が異常な事態に巻き込まれていることをはっきりと自覚し、そして瞬時に決意した。
 抱きしめた小さな体は、とても暖かかった。

 ルークはベッドに腰掛けるとそのまま仰向けに寝転がった。苦々しい顔は不安げで、この顔は以前のルークにもあったなと思う。世界が恐慌に陥ったとき、死を決意した彼が見せた顔だ。ゆっくりと近づいてくる消滅の時に怯えながらそれでも諦めずに戦い、事情を知るジェイドの前だけでひっそりと見せた、彼の弱い部分。縋りたいと願い、縋ってはいけないと自戒する葛藤。
 今、この瞬間にルークが死ぬようなことはない。表面上はもう、このルークは過去のルークと違いすぎている。それでもなお根底に息づく彼の彼たる本質が、ジェイドの気を昂ぶらせた。
 全ては彼の存在を守るために――そう願うジェイドのために、動いている。

「俺は貴族で、悪い奴が近づいてくることがあるから、注意しろってことだろ」
「概ねそんなところでしょう」
「ガイは、ちげーよ」

 殴られた頬に手を当て、ルークは窓の外を睨んでいた。窓から見える花壇には黄色い花が揺れている。散々なじったくせに、ここへきてガイを庇うルークに内心あきれていた。
 これだから、この子供は何度だって裏切られる。何度だって騙される。
 ジェイドは知っている。
 この子供は実の父にも、親友にも、必ず騙される。

「あなたがそう思うのなら信じなさい。そのかわり、何があっても信じた自分の責任です」

 手当てした道具を片付けながら淡々と告げると、ルークは寝転がったまま器用に枕を投げてきた。片手でそれを叩き落し、顔を上げる。首を逸らして上目にむくれたルークが、ジェイドを睨んでいた。

「冷てーの」
「親切にも忠告して差し上げているんですけどねぇ」

 おどけて肩をすくめると、ルークはベッドの上に起き上がった。わしゃわしゃと髪をかき乱してジェイドを見つめる。
 綺麗な目だ。
 たまに褒めてやると「ジェイドの方が」と目を逸らして口ごもり、そしてジェイドは改めてこの子供が「ルーク」ではないと痛感する。
 ルークは、ジェイドの目が譜眼であることを知らない。だから安易に口にする。鮮血のように鮮やかな赤を、自分の髪色より綺麗だと言う。そうしてまた、ジェイドの心を鈍らせる。綺麗ではないジェイドを追い詰めていく。

「じゃあジェイドは何も信じてねえのかよ。……俺のことも、信じてないのか」

 ほら、また、そうやって寂しさを隠さない。
 ジェイドは出来る限り優しく笑ってやった。子供を騙し続ける自分は、こうやって笑顔を塗り重ねていくしかない。そうすることで、この子供を全てから守り抜かなければならない。

「私は私自身と、何よりあなたの可能性を信じていますよ」

 ジェイドの小奇麗な笑みにルークは戸惑って視線を彷徨わせ、そしてほんのりと頬を染めてむくれた。からかわれたと思った子供は、それからまた、クッションを投げた。




 頬に赤い筋が一本、横にすっと引かれている。調理場より手ずから運んできた盆を小さなテーブルに乗せ、その拗ねたような目を見下ろしていた。
 最初はジェイドの前でも嫌味なほどに丁寧な態度を示していたが、彼がルークと親しくなるにつれ、こちらへの態度も軟化してきていた。それでも彼はまだ、本当の姿を見せていないことを知っている。ここまでは恐らく、以前の彼と同一のままだ。

「食べて結構ですよ。私が了承を取りましたから」
「助かるよ、腹が減って眠れそうになかったんだ。適当にそこらへん座ってくれ」

 言って視線が指したのはバラされた譜業が乗せられた机と、質素なベッドだ。まばたき一つ分ほど迷って、ベッドに腰掛けた。
 譜業から漂う油の匂いでルークはここへ来たことに気付くだろう。気付けば理由を問われ、問われればジェイドは答えるだろう。

「あなたと喧嘩をした使用人は食事抜きです。首を切られなかっただけマシでしょう。なにせ手を出してしまった。害意があると思われなかっただけ幸運ですね」

 そしてルークは顔をしかめる。ガイは使用人だけど使用人ではない、大事な親友なんだと情を口にする。その気持ちが一通のものであると知らずに絆を深める。

「ルークは?」
「もう眠っています。ご機嫌のことなら、そちらもご心配なく」
「そうか。まあ、あんたがいるから大丈夫だろうとは思ってたが」

 良かった。
 そう言ってガイはシチューに手をつけた。
 ガイラルディアであるべきか、ガイであるべきか、この男はまだ迷っている。だから、ジェイドも決めかねていた。ガイの存在は、ルークの内面に大きく影響している。ガイとまったく面識を持たせない、というのは無理だった。ジェイドがルークと共に屋敷へ戻ったとき、既にガイはファブレ家に仕えていた。ここにアッシュがいたころからいたのだから、致し方ない。
 当初、ジェイドは身元不明の記憶喪失者を装っていたが為にずいぶんと疑いの目を向けられた。ここへ連れ帰るまでにルークを懐かせておかなければ、誘拐の犯人と決め付けられて処刑されていたっておかしくはなかった。そんな疑わしい男にルークの側役という立ち位置を奪われ、ガイはどう思ったのだろう。
 一族の仇と怨み、そして同じくらいルークに惹かれながらガイは迷い続けている。ジェイドがいるから殺せない、そんな言い訳を自分に言い聞かせているのだろうか。

「あんたはルークの恩人だからな。ルークもよく懐いてるし、あんたの言うことならまだ素直に聞くほうだ」
「恩人というなら、私にとってはルークこそ恩人ですよ。こんなにあやしい人間が使用人として雇われているのは奇跡でしょう」
「あの頃はみんなどうかしてたのかもしれないな。ルークが……あんなで、帰ってきてさ。手に負えなくて、懐いてるあんたに押し付けたんだ」

 やや引きつった顔で自嘲し、ガイはパンを口に押し込んだ。
 実際、ガイの言う通りなのだろう。泣き喚くばかりのルークを手懐かせていたジェイドは、体よく押し付けられたに違いない。ジェイドにとっても好都合であるから構わなかったが、それにより、今更だがガイは悔やんでいる。ジェイドに舞台を奪われたことへの後悔と、友としての罪悪感だ。
 ルークの一番側にいれば、いつでも殺せる。
 ルークの一番側にいたのに、助けてやれなかった。
 おそらく、このままでは永遠に答えは出まい。出るとすれば、過去の歴史どおり、少女がこの屋敷に忍び込んでからのこと。

 世界はそう簡単に変わらない。ジェイドが一人足掻いても変わることなどちっぽけなもので、もしかしたら何一つ変わらないのかもしれない。
 それでも誰にも止められやしない。暗闇から拾い上げたいびつな未来を、その手で少しずつ滑らかに整えていく。指で形を作るたびに、本来あったものがボロボロと零れ落ちて失われていく。
 それでももう、ジェイドの手は止まらない。

「ルークには、ガイ。あなたが必要だ」
「そうか? 俺は案外、あんただけでいいんじゃないかって……」
「ルークはあなたを信じている。だから必要なんですよ」

 ジェイドが望む未来には、ガイの存在も必要だ。他にも何人か、必ず外せない人物がいる。必要で、後々排除すべき者もいる。ルークを、そうあってほしいと望む姿へ導くためには必要なものが山のようにある。必要でないものも、また同様にある。

「ルークが、そう……言ったのか」

 やや戸惑った様子で食事に目を落とすガイを、見定めるように見ていた。決意次第では、必要にも不要にも成り得る。過去、仲間であった男の、ルークの頬を殴りつけた姿を瞼の裏で思い描いた。
 出来ることなら必要なピースになって欲しいと、そう思う。だが、もし不要ならば――――




 一晩の謹慎処分を言いつけられているガイから食事の盆を受け取って部屋を出たが、調理場へ向かう途中でメイドとぶつかり、盆を落としてしまった。大きな音を立てて割れた食器を拾い集めながら、ジェイドはふと笑みを浮かべる。
 食器は捨てられ、新しいものが買い足されるだろう。同じ模様で、同じ色身の皿が何度だって食卓に並ぶ。それが以前と同じ皿ではないことなど殆どのものが気付かず、気にしない。割れた食器よりも、ひびの入った食器よりも、同じ姿の新しい食器の方がいい。単純な話だ。
 割れた欠片をいつまでも偲んでいては、新しい器の居場所がなくなってしまう。新たな器を迎えるには、壊れた不用品は捨ててしまわなければいけない。食器を磨くのに必要な道具は、使えるのなら引き続き使っていく。不要なら、買い換える。
 メイドが持ってきた袋に割れた破片を捨て、ジェイドは暗がりに目を眇めた。

 手作りの未来は少しずつその形を確かなものにしていた。
 作り変えられた未来は、誰にも気付かれずに歩み始めている。





(07.06.10./08.10.27.修正)