欠片の味



「俺も! 俺も行くよっ!」

 ジェイドがメモを片手に買い出しへ出ようとすると、それまで窓際のソファに座っていたルークが勢い良く手を上げた。寒い寒いとロビーの暖炉に集まっていた仲間たちが、その食い付きっぷりに首を傾げる。先ほどまで誰が話題を振っても上の空で窓の外を見ていたから、余計に不思議だった。

「ミュウも行くですの!」
「お前も雪見るか?」
「はいですの!」
「よし、じゃあ行こうぜジェイド!」

 言って、ミュウを片手に引っ掴んで一人先に飛び出していってしまう。他の仲間たちは勿論、当のジェイドすら置いてきぼりだ。どうやら買い物よりも口実を作って雪を見に出たかったらしい。やれやれと肩を竦めたガイが立ちあがり、既に雪を掴んでミュウに投げ付けていたルークへ窓越しに声を掛けた。

「ルーク! ほどほどにしておかないと、体冷えるぞ!」
「わかってる! ……おりゃっ!」
「みゅううぅぅ〜! つめたいですの〜!」

 街で見かけた子供たちと同じようにはしゃぐルークの手から雪が舞う。手荒な可愛がられ方をしているミュウは、それでも主人に構われるのが嬉しいようで悲鳴とも歓声ともつかぬ声が上がっていた。子供と遊ぶにはこれくらいタフでなければならないのかもしれない。
 その内、ズズンと大きな鈍い音がして「わぁっ」とルークの悲鳴が上がった。慌てて窓を開けたガイが、すぐさま飛び降りてルークに駆け寄る。何が起こったのかと窓際に集まる仲間たちの背を眺めてから、ジェイドはそっと玄関に足を向けた。
 悲鳴は屋根から落ちた雪がミュウを直撃してしまったからで、ミュウはそのままティアに介抱されることになった。ルークはというと、いつのまにかジェイドが消えていたことに気付いて、もう一度大きな声を上げた。

「おや、見つかってしまいましたか」
「一緒に行くって言ったろ! 置いていくなよ!」
「長くなりそうに見えたものですから。買い出しが遅れれば明日の昼食は抜きです。それでは困るでしょう」
「そっか、明日の弁当か……」

 ケテルブルクは観光地だが、街の観光事業に従事する者とその家族らも住んでいる。決して金持ちばかりが住んでいるわけではなく、当然、ごく普通の商店もあった。
 かさ張るパンは最後に回して野菜を手に取るジェイドの横で、ルークも適当に眺めたり手にしてひっくり返したりしていた。どれがいいのかなんてさっぱり分からないから、ジェイドが手にとってから駄目だと戻したものを追い掛けた。どうして駄目なのか、繰り返している内に分かってくる。綺麗に並べてある分にはいいが実は裏が虫に食われていたり、萎びていたり。赤く熟れていると思ったら、隠れていた部分が青いままだったり。

「これでいいでしょう。ルーク、荷物を持って下さい」
「あ、うん」

 そうなることは分かっていたし、元からそのつもりで付いてきた。荷物持ちをするからと言えば、ジェイドだって無下に追い返したりはしないだろうと踏んでいたのだ。
 店主から買った野菜の入った袋を受け取り、足元に気を付けて歩き出す。地面は降った雪が踏まれて溶けて、さらにその上にまた降り積もって、滑りやすい。この街に住む人はすべり止めのついた雪靴を履いているが、ルークたちは違う。ジェイドは雪歩きに慣れた様子だが、少なくともこの旅で初めて大量の雪を見たルークには危ない。ともすると転んでしまいそうで、自然と歩き方はぎこちなくなった。
 先を歩くジェイドに、いつもより小またでちょこちょことついていく。危ないのは分かっていたが、店先を覗きながら歩いた。
 ルークたちの旅はいつも急ぎの旅で、追われる様に過ぎていく。だから、のんびり店先を覗いたりなんてしていられない。
 いつか全てが終わったら、みんなで他愛無い話をしながら買い物を楽しんだり出来るだろうか。そんなことをふと、考えた。それがいつ訪れるのかは分からなかったが、いつかそうなればいいと思う。あまりそういう話題に絡んでこなさそうな目先の軍人も、つきあってくれたらいいなと思った。

「ルーク。どこへ行くんですか」
「へ?」

 そんなことを考えていたら、ジェイドが立ち止まっているのに気付かなかったうようだ。慌てて数歩戻って、ごめんと謝る。ジェイドは少しだけ呆れたような顔でルークを見て、しょうのない子だと溜息を吐いた。もう一度謝って、ふっと鼻孔をくすぐる香りに気を惹かれる。立ち止まったのは、パン屋の前だった。ルークの視線を追って店内を見たジェイドが言う。

「お腹は空きませんか」
「そりゃあ、空いてるけど」
「一つなら好きな物を選んで構いません」

 それだけ言って、ジェイドは店に入っていった。ルークはしばし考えてから、その後を追う。
 もしかして、でも、まさか。
 期待と不安の入り混じった表情で口をぱくぱくしていると、ジェイドがバゲットを手に取りながら振り返らずに口を開いた。

「早くしないと会計を済ませますよ」
「……あ、ありがとうジェイド!」

 やった、やったと隠し切れぬ笑みを浮かべてルークは菓子パンの前に走っていく。それを横目で見ていたジェイドは、やれやれと肩を竦めた。
 髪を切って、変わると決意した少年はとても臆病になった。辛いことを辛いと言わなくなった。不用意な発言をせぬようにと言葉を選んだ。結果、好意をそのまま受け取れなくなっている節がある。それで調子に乗らぬようにと自戒しているからなのだろう。
 外見に惑わされがちだが、まだ彼の中身は幼い子供のままだ。だから許されるというわけではないが、哀れだと思う。ガイの言葉を借りれば、まだ七歳の子供なのだ。
 好きなパンを選びなさいと言われたら、同年の子供はどうするだろう。そう思うと、やりきれない。
 トレイにバゲットとサンドウィッチ用のパンを乗せて待っていると、やがてルークが振り返り、一つのパンを指差した。

「ジェイド、これにする!」
「分かりました。こちらではないんですね?」
「え? うん、こっち」

 値段の割には大きな惣菜パンの前に立っていたから、危うく間違えそうになった。ルークが指差したのはその隣にあった三色パンだ。チョコ、クリーム、カスタード。なんだか可愛らしい選択だなと思いつつ、トレイに乗せた。
 会計を済ませて通りに出ると、まっすぐホテルに向かう。その間もルークはずっと嬉しそうにしていた。

「安いですねぇ。たかだかパン一つで」
「う、うるせーな! 別にいいだろ!?」
「いけないなんて言ってないでしょう」
「言ったようなもんじゃねーか……」

 時々バランスを崩しながらも転ばずについてくるルークの先を歩きながら、ジェイドは笑みの浮かぶ口元を片手で覆い、小さくむせた。




 ホテルに帰って荷物を部屋に運びこむ。
 明日、旅先で食べる事になるであろうメニューは簡単なサンドウィッチだった。中に挟む具を工夫しなければそろそろ飽きが来るぐらい定番になってしまっている。手早く食べられ持ち運びも便利だから、とつい何度もこれを選んでしまうのだ。
 夕食前に下準備ぐらいしておくかと手袋を外していると、部屋に戻ってからどこか落ち付かない様子のルークがおずおずとジェイドの背に声をかけた。

「なあ、パン、食べてもいいかな?」
「夕食に差し支えないのでしたら、ご自由に」
「これぐらいなら大丈夫だって。へへっ……どれから食べよっかなー」

 にこにこと笑いながら、ベッドに越し掛けて先ほど買った菓子パンを手に取り眺めている。天井の譜石灯へ透かすように、手に持ったパンをくるくると回して眺めていた。
 仮にも公爵子息として育ったくせに、菓子パンを一つ買ってもらったぐらいで何がそんなに嬉しいのか。
 あまり気にしないことにして、ジェイドは手を洗ってナイフを取り出した。部屋の洗面台で洗った野菜をサイドテーブルに運び、フロントで借りた小さなまな板で切る。
 座っている椅子か、あるいは背に視線を感じていた。しかし静かだった。
 彼と二人の部屋になる事は度々合ったけれど、二人共起きている時にこんなに静かなことはあっただろうか。普段ならばこの場に、あの賑やかなチーグルがいるからだろうか。そういえば、戻ってからもチーグルの様子を見ていない。一応の飼い主であるルークも、この様子では忘れているのだろうか。

「ジェイド」

 自らの手の先からトントンと響く音が、止まりそうなほどゆっくり続いていた。ルークの声にふと改めて手元を見れば、野菜は全て切り終わっている。あとは塩もみをすれば準備は終わりだ。パンに挟むのは翌朝でいい。
 布巾で手をぬぐって振り返ると、ルークはベッドに越し掛けてこちらを見ていた。

「終わったか?」
「ええ。……おや、なんです? まだ食べ終わっていなかったんですか」
「ちげーよ、これはジェイドの」

 言いながらルークは立ちあがり、ジェイドの隣に立った。ジェイドはまだ椅子に座ったまま、少年の手の内にあるパンを見ている。どうやら齧り掛けではないらしい。

「結構美味かったぜ。ほら、これはジェイドの分」
「それはあなたに買ったものですよ。食べてしまいなさい」
「ホントに美味かったんだって」

 何を勘違いしているのか、子供は熱心にジェイドへ勧めてくる。宮殿やホテルで出される味を知っているはずだが、ルークはそれを美味いと言った。街のパン屋を侮っているわけではないが、しかし材料や製作環境を鑑みても、どうしたってこのパンが至高の一物だとは判じがたい。
 それでもルークがずいぶんと期待を込めた目を向けているので、ジェイドはほんのわずかに迷っただけでそれを受け取ってしまった。夕飯に差し支えるほどの量ではないし、何より、ここで口にしてやらねば後が面倒そうだったからだ。食べることで気が済むのなら、容易いこと。
 一番手前にあったのはクリーム味で、躊躇せず口に含んだ。毒見をするよう殊更ゆっくりと咀嚼し、もったりとしたクリームの甘味を舌の上で引き伸ばす。ルークは、子供ゆえの無邪気さでそんなジェイドをじっと見ていた。

「ふむ、なかなか本格的ではありますね」
「だろ? そっちのさ、餡子のがまた美味いんだ」

 にこにこと笑うルークの台詞は、更なる試食を促している。ええいままよと口にして、クリームとは違った甘味に一寸目を眇めた。ややざらついた餡は舌と上あごの間でふわりと香りを広げ、ゆったりと腹へ下りていく。豆を砂糖と一緒に煮つぶしたこの甘味は、ホドで多く消費されていたものだという。くだらないただの記憶の欠片を口にしようとして、しかしジェイドはただパンを味わうことにした。
 ルークは、次の味の説明に入っていた。




 ごちそうさまでした、と告げるとルークは嬉しそうに頷いた後、はっとして「そもそもジェイドが買ってくれたんじゃないか」と慌てた。照れたような、落ち着かない所作で手を振り首を振ったルークをいつもの軽い笑いで追い払うと、独りになった部屋でまな板の上に並んだサンドウィッチの具材を見つめる。
 柄にもないことをしただろうか。口の中に残る甘味がルークの見せた笑みを思い出させ、胸が詰まった。
 ジェイド・カーティスが出来ることといったら、菓子パンを一つ買い与えて、共に食べてやるくらいのことしかないのだ。うまく冗談を言ったり、優しく労わってやることも出来ない。きっと、もっと何か与えられるはずだ。しかしルークが己を哀れんでのことだと察しないよううまくやるには、やはり菓子パン一つがジェイドに出来る妥協点であった。
 自分は今、パンを分け合ったルークを覚えている。クリームの味を、餡の味を、ルークがそれらをどう評したのかも知っている。
 分け与えたのは、ジェイドの記憶に残るためであろうか。そう考え、すぐに否定した。あれはそんなに狡猾でない。愚かで、怖がりで、澄んだ愛情しか持っていない。何のいらえもなくジェイドの手を取れるくらいには悲しく、夢のように綺麗な優しさしか持ち合わせていなかった。

 記憶しか残らないとは、やはり酷なことだ。残された者の身勝手な言い分を脳裏に、ジェイドは天井を仰ぎ目を閉じた。涙の一つでも出やしないかと待ってみたが、まぶたの裏が明るく照らされるばかりで何も浮かんでは来なかった。





(06.07.19./08.10.27.修正)