あの子のために



 いつだったか、グランコクマに立ち寄った時の話だ。

「ジェイド、ちょっと顔貸せ」

 ピオニーがいつになく険しい顔でそう言ったのが確か1時間ほど前。二人はジェイドの執務室へ向かって、それからまだ帰ってこない。ジェイドがすぐに戻ると言うから待っていたが、どうにも遅すぎる。

「なあルーク、宿に戻っていてもいいんじゃないか?」
「うーん……。でも、ここまで待ったんだし」
「そうかぁ?」

 疲れた顔をしながらも、ルークはそう言った。待ち始めてしばらくしてから兵が応接室に通してくれたので、今はそこで待っている。ソファがあるので立ちっぱなしよりは断然ましなのだが、とにかく暇だ。ルークに付き合って待っていたガイは、やれやれと天井を見上げる。ルークはまた、うとうとと舟をこぎ始めた。
 そこへ、怒りをはらんだ声が遠く届いた。

「……は、……きか!? ………いを………て、……のは……!」

「あれは……」
「今の声ってピオニー陛下じゃないか?」

 聞こえてきた怒鳴り声に二人は顔を見合わせた。いくら近くに用意された部屋とはいえ、壁の厚さも防音設計も為された軍の施設だ。ここまで聞こえるとなると、相当な声量だろう。すぐに廊下の方が騒がしくなり、二人も帯刀して部屋を飛び出した。

「なにがあった!」
「それが……」

 剣を構えて飛び出した二人は、困惑した表情に出迎えられる。ジェイドの執務室前には数名の兵が集まっていたが、彼らはみな、何とも言えない微妙な表情をしていた。あえていうなら、気まずそうにしている、というところか。
 彼等が止める素振りもないので、ガイは軽く戸を叩いて目前の部屋の戸を開いた。

 ピオニーの声はまだ上がっていた。

「いい加減にしろ! 正気じゃないぞ!」
「うるさいですねぇ。ほら、陛下がわめくから二人が来てしまったじゃありませんか」
「ちょうどいい、おいルーク! ガイラルディア! こいつをブチのめせ!」

 喧嘩している。
 そう判断したガイは、ピオニーの最後の台詞は聞かなかった事にしてルークを外へと促した。無論、すんなり出られるとは思っていなかったが。
 焼け焦げそうなほど強い視線に、深く息をついて項垂れる。ルークはどうしたらいいのか困っているようで、ジェイドとガイを交互に見ておろおろしていた。

「すみません。陛下が私のお金の使い方にケチをつけてくるもので」
「余計な世話だってのは分かってるさ。でもなぁ!」
「分かっているのなら口出しは無用でしょう。さっきから同じ事を何度言うつもりですか」

 どうやらヒートアップしているのはピオニーだけのようだ。ジェイドは定規片手に何やら表を作っていて、机の上には紙が広がっていた。そこに近付いて、ガイは完成されていた一枚を手に取る。

「なんだ、これ?」
「陛下が出納表を出してみろというので書いているところです」
「そうじゃなくて、この使用内容は……」
「文字通りですよ」

 ここで初めてジェイドは顔を上げた。意味ありげな微笑みは、ガイを通りすぎてルークに向けられている。
 さて、と口にして、ジェイドは腰を上げた。どうやら最後の一枚を書き上げたようだ。

「お待たせしました。宿に戻りましょうか」
「あ、うん。けど、その……陛下は」
「あぁ、いいんですよ。どうせ反省する気はありませんし」

 国王陛下相手に喧嘩を売っているのか。
 ガイは内心青ざめる。ジェイドの肝の据わりようには、いつになっても完全には慣れることが出来ない。
 歩き出したジェイドはルークの背を押し促して、さっさと出ていってしまった。ガイは仕方なくその背を見送り、手にした表をひらひらと揺らす。
 軍人であるジェイドは国から給与が与えられている。それは彼個人の資産であり、違法でもない限りはピオニーであろうと口を挟むものではないだろう。その上で、友人として忠告したかったのだということは表を見れば一目でわかった。受け取っている給与も相当な額だが、ここ最近の支出額が多すぎる。
 しかし問題は、その使い道にあった。

「陛下、これは……」
「あいつのことだから、それは氷山の一角に過ぎないんだろうな」
「旅の資金から出してるものだとばかり……」

 ガイは心配になった。
 忠告すべきだ。
 ジェイドではなく、ルークに。




「いい買い物をしましたね」
「値段も相当だったけどな。ジェイド、本当に財布、大丈夫か?」
「必要なものを買う為に資金を確保しているんです。武器の購入は妥当な理由でしょう」

 新しい剣は刀身も束も見事な研磨と装飾で輝いていて、一振りしただけでその良さがわかった。今まで使っていた分はもしもの為に持ち返ることにする。この剣がすぐに刃こぼれするような可能性が、ゼロではないからだ。そうなった時に、もう手持ちはありません、では済まない。
 ふんふんと鼻歌を歌うルークの足取りは軽く、ジェイドより少し前を歩いていく。その横顔を、裏のない優しい目が追っていた。
 旅の資金は微塵も減っていない。
 ジェイドは軽くなった自分の財布を、軍服の内に仕舞った。





あの子に費やされるものは全て
(06.08.25.)