壊れた時計
「…くそっ」 まあ貸してみろって! ガゼルがそう言ってから、かれこれ三時間になる。ベッドに座り壁に凭れただらしのない姿勢で本を読んでいたハヤトは、またしても漏れた悪態にやれやれと目を伏せた。ガゼルはそれでも手を止めることなく時計の修理に勤しんでいたが、既にハヤトは期待していなかった。多分、直らないだろう。元の形に戻せるかどうか、そちらの方が心配だった。 細やかな作業に苛つき顔をしかめながらも、ガゼルの表情は真剣だ。だから、その横顔を何とはなしに眺めていた。ガゼルと二人でいて、これだけ長く会話がないことも珍しい。目先の顔立ちは出会った頃よりずっと大人びてきたが、結局中身は大して育っていないような気がした。 そうだと思いこみたいのかもしれないな、とハヤトは一人思う。そうでなければ困ることもいくつか思い当たるから始末に負えない。そこまで考えて、早くこの部屋を出ようと立ちあがった。嘘も隠し事もしたくないし、得意でもない。ボロが出る前に退散するのが賢いやり方というものだ。 「ガゼル、もういいよ。ありがとな」 「もうちょっと待ってろって。ぜってー何とかしてやる」 「最初から壊れてたし、そもそも拾い物なんだからさ。本当にもういいんだ」 そうハヤトが言えば、不満げに口を尖らせガセルが振り返る。 ほら、その表情。その仕草。 ハヤトは顔が強張る前ににこりと微笑んだ。嘘は苦手だから、嘘でない誤魔化しをする。嘘でなければそれは本当なのだから、誰かを傷付けることもない、はずだ。 「そういうの、ガゼルが好きそうだと思って拾ってきただけなんだ。だから、俺は別に直らなくても良かったんだよ」 「ハヤト…」 「新品はもう少し待ってくれよな。どうせ買うなら良いやつがいいだろ」 予算が足りてないんだと続けて、ハヤトは曖昧に笑った。ベッドに置いていた本を手にして、ガゼルに背を向ける。 「ジンガと稽古する約束があるから。俺、行くよ」 「おい待てよ! ハヤト!」 そのまま出ていこうとしたハヤトの腕が、ぐいと後ろから掴まれる。ガゼルの手の平の感触に肌が粟立った。唾を飲みこんで、けれどそれを悟られぬようハヤトはへらへらと笑って振り返る。 「なんだよ、どうしたんだ?」 「お前……今日、これから俺に付き合え」 「は? あ、いや…だから俺、ジンガと約束が」 「嘘つけ」 ガゼルは掴んだ腕を放して、自分はまた椅子にどっかりと座った。腕を組み、扉の前に立ち尽くすハヤトを下から睨め付ける。棒立ちのまま、ハヤトはガゼルを見ていた。 「お前の嘘なんかすぐに分かるんだよ。くだらねえ誤魔化しは止めろ」 「誤魔化してなんか…」 「だから、お前の嘘はつまんねえって言ってんだろ」 ガゼルはふいっと視線を後ろへ逸らし、卓上でバラバラになったままの古い時計を見つめた。 懐中時計なり腕時計なり、兎角持ち歩ける時計が欲しいとガゼルは言っていた。それを思い出して、ハヤトはバザーの小物市から買ってきた。拾ったなんて嘘に決まっている。ガゼルへ渡す物なのに、そこらの落とし物を渡す訳がない。けれど中古品であるのは事実だから、品を見て気付くとは思えなかった。 ジンガとの約束だって、今すぐではないがいつだって約束させられている。修行に付き合っても良いと最初に言ったのはハヤトだし、自身の鍛錬にもなる。だから約束は、常にあった。今日だって時計を買って帰った玄関で、手が開いたら手合わせしようと声を掛けられている。そして、ハヤトはそれに「分かった」と応えていた。だから嘘ではない。 「いいから付き合えって。ジンガには俺から適当に話を付けてやるよ」 「ガゼル! 俺は嘘なんか…」 「ごちゃごちゃ煩せえなあ。黙ってついてこいよ」 その言い草には些かむっとしたが、後ろ暗い気持ちも手伝いその場では何も言わなかった。 外の気温は少し肌寒くなって来て、ガゼルは出掛けるからと薄手のジャケットを羽織った。見立てたのはリプレで、こうして落ち着いた雰囲気の物を着ていれば歳相応の良さが見え隠れする。口を開けばそれも台無しだけど、とハヤトはベッドに腰掛けてぼんやりしていた。 良かれと思って買って来たが、結局壊れていたし、直せもせず、手を煩わせただけになってしまった。更にはハヤトの半端な態度が災いして、ガゼルの機嫌をどうやら損ねたようだ。踏んだり蹴ったりだと、自分の浅慮を棚に上げて溜息をついた。 「なあハヤト」 「なんだ?」 ガゼルは窓の外を見たまま、ジャケットの襟を立てている。そのままの姿勢で、振り返らずに話した。 「俺、すげえ厭らしいこと考えてんだ」 「……そりゃあ…嫌だな…」 何と返せば良いものか迷いつつ、素直に思った通りを応えた。ガゼルは真面目腐った口調で続けたが、それが照れ隠しなのだろうとは分かった。彼が言いにくいことを言う時、目を合わせてくれないのを知っている。 「これをダシにお前を誘ってさ、自分で貯めてた金使って時計買おうかと思ってんだ」 なんだ、そんなことか。うっかり言いそうになったが、ハヤトは口をつぐんでいた。ガゼルは上着を羽織るだけの着替えをいつまで続けるつもりなのだろう。もうこちらへ振り向いても良いはずだ。 「俺が好きそうだから、とか…そういうのは後出しにすんな」 「……なんでだよ」 ガゼルの答えは薄々分かっていた。だからこそ、ハヤトは俯いてそう呟く。小さな足音で、ガゼルが振り返りしゃがみ込んだのだと分かった。 「礼を言いそびれるだろ」 声があんまり近いから、どきりとして顔を上げた。驚くほど近くにガゼルの顔があった。近すぎてよく見えない。 無意識に距離を取ろうとしたハヤトの後ろ頭には、ガゼルの手が添えられていて逃げられなかった。 息が、掛かる―― 思わず呼吸を止めてしまったハヤトの眼前で、ガゼルの唇が動いた。 「俺に嘘付くたぁ、いい根性してるじゃねえか。礼は高くつくぜ」 それは礼とは言わない、なんて考える余裕が生まれたのは随分と後のことだった。 (06.10.16.) |