デルタ


 僕が好きな彼のこと。
 彼はこの世界に対する思いやりが深い。
 けれどこの世界に関する知識は少ない。
 彼は「家族」に対し等しく優しい。
 けれどその優しさは時に謙虚だ。
 彼は――

「キールさぁん」

 ベッドに寝転がってうつらうつらしていた。そこへ、彼女が眉根を下げてやってきた。レビット族の少女、モナティだ。黙って立っていれば文句なしに愛らしい彼女が、半ば泣き出しそうな顔で部屋を覗きこんでいた。

「どうしたんだ? おいで、そこでは話も出来ないだろう」
「それどころじゃないんですの〜!」

 もうもう、キールさんのわからずや!と少女は尻尾をばたつかせた。こういうところが、頭が弱いと言われる所以だろう。事実なのだから仕方が無いと思うのだが、それを今口にすればまた話が反れて面倒臭い事になる。

「何が大変なのか教えてくれ」
「マスターがお帰りにならないんですの!雨なんですの!」
「出掛けたハヤトが帰ってこない。雨も降ってきたので心配だ。傘を持って出たかどうかも怪しい。…そんなところ?」
「そうなんですの〜!」

 ようやくベッドの上で上体を起した僕の腕を掴んでぐいぐいと引っ張る。はやくはやく、はやくマスターをお助けするんですの!慌てるモナティとは対照的に、僕は煩わしげにその手を腕から剥がした。寝転がっていたせいで乱れた髪をぐしゃぐしゃと掻いて、その手を後ろでついて体を支える。その場で駆け足をしながら急かす少女に、嘆息を贈った。

「いいかいモナティ、ハヤトも子供じゃないんだから、雨が降っていたって自力で帰ってこられる。今戻らないのはどこかで雨宿りしているからだよ」
「でもでもっ、濡れてるかもしれないですの!」
「濡れた服は脱ぐだろうし、どこかの店に入って暖を取っているかもしれない」
「で、でもぉ〜」
「とにかく」

 ぐずるモナティを他所に、また寝転がった。雨の落ちる音は然程煩くはなく、雨足が強くないものであると証明していた。見上げた天井は湿気を吸って、どこか濡れたような色を見せている。床下の材はもっとひどいことになっているだろう。残念ながら丸々建て返るほどの蓄えは無い。崩れたらそれまでだ。中古物件としても破格の安値で買った家だ。もしかすると、基礎が元々危ういのかもしれない。

「行きたければ君が行くといいよ。僕は留守を守っていよう」
「寝てるだけじゃ…」
「うん、まあ、そうなんだけどね」

 心配なら召喚獣の2、3体は喚んでおくから。そういって目を閉じると、あからさまに落胆した声音で少女が言った。

「キールさん、冷たいですの!いいですのっ、マスターは私がお助けしますのっ!」
「行ってらっしゃい、気をつけてね」
「……ベー!ですのっ」

 おそらく舌を出したのだろう。その苛立った声と戸の閉る音を最後に、邸は静かになった。一つの足音が遠ざかっていくのが小さく聞こえた。迎えに出たのだろう。

「冷たい、か」

 腹に手を置いて、その暖かさを抱えて眠りの縁に座る。僕の、僕だけの彼を目蓋の裏に思い描く。冷たくなんてない。情に欠けると表した己に、彼が言った。だから自分は冷たくない。それは確かなことだ。それだけではない。何故なら彼は、僕の―――



「キール、晩飯食った?」
「いや、まだだ」
「じゃあ、一緒に食べようぜ」

 帰ってきたハヤトが屈託なく笑って、リビングへと手招いた。その後ろでモナティが不服そうに口を尖らせていた。ハヤトには褒められただろうに、それで帳消しにすることなく未だ根に持っているらしい。嫉妬深いことは罪ではないと思う。自分自身が執着心や征服欲の強い人間だからだろうか、兎角嫉妬には寛大だった。

「モナティ、早く座れよ」
「…はーい」
「なあキール、今日何してた?」
「別に、特にはなにも。寝ていただけだ」
「そっか」

 ふうんと言って笑い、ハヤトは食事とモナティとの雑談に専念した。モナティはハヤトの隣で頬を染め、目を輝かせて頷いている。傍目には麗しい主従愛と映ることだろう。
 所詮そんなものだ、と思った。





(06.05.24.)