悪魔は微笑む


「見てくれよ、ほら! すっげーだろ〜」

 満面の笑みを浮かべたハヤトの勝利宣言を見上げ、僕は読んでいた本を閉じようか迷い――栞を挟んで傍らに置いた。
 今年もこの日が来たか、と苦々しく思う。
 二月十四日。
 菓子屋の販促で、チョコレートを主とする菓子がやたらと出回る日。ハヤトの母君はこれが好きで、二週間も前から浮き立ってしまうイベント。父君とハヤトへ贈るものを買う時、僕も一緒に付いて行ったから間違いない。この世界へ来て四度目の、悪夢の日だ。

「これが後輩からで、これがゼミの女子から! で、こっちが下の公園で小さい子にもらったサッカーボールチョコ。バスケだったら良かったんだけど、まあ今サッカーブームだししょうがないよなあ」

 このあと、今夜は母さんから貰えるだろ〜? なんて、上機嫌な独り言は続く。僕が顔をしかめていることに気付きもしない。いや、見えているはずだから、分かっていてやっているのかもしれない。どのみち僕には無縁の話題だ。
 最初にこの日を知った年、ねだった僕は鼻で笑われた。
 バカだなあ、俺もお前も男じゃん?
 次の年、一月前からしつこく頼みこんだ。これだけ言えば嫌々でも一欠けぐらいはとほくそ笑む僕の前で、ハヤトはクラスで人気の女子から貰ったのだと万歳三唱。さらに次の年、つまり去年、とうとう僕はハヤトに詰めよって最後には頭まで下げた。この国で最高の礼だという、土に額を付けるというアレを敢行した。ここまでくると僕の方も意地で、ハヤトを頷かせることに意味があるような気がしていた。
 今の僕がぼやいていることから察しはつくだろうが、要するに、僕は今まで一度も何一つ貰えた試しがなかった。

「僕はこんなに君が好きなのに、君はなんて薄情なんだろうなー」
「棒読みで言われたって例年通りやる物は一つもないんだけどなー」
「なんでそこで笑顔なんだろうなー君は。さすがに僕も苛々するなー」

 変な笑いで胃が痙攣しそうだ。
 溜息が目に見えて溜まる物なら、きっとこの部屋は天井まで僕の溜息で一杯だろう。ベッドへ座っていた僕は、そのままドスンと横に倒れた。
 今日はベッドを占領してやろうかな、ああ腹立たしい。他の物はねだればくれるのに、この日のチョコに限って断固として寄越さないとは一体どういう了見か!
 毎年この流れでぶーたれて一日が終わる。母君なんて最早僕に同情気味で、昨年は後日そっと僕の枕元にチョコレートを置いてくれたぐらいだ。しかも御丁寧に、ハヤト名義で。字が思いっきり母君の物だったから、僕は感謝の念と共に散々枕を濡らした。身を投げようかと真剣に数日悩み、腹上死を希望して本当に生死の境をさ迷った。絶対、良い思い出ではない。

「どんだけ睨まれたって、何年待ったって、俺はお前にはやらないって。俺が誰かに上げるのはホワイトデーのお返しだけだって、ずーっと言ってるだろ?」
「どうして例外が作れないんだ? この状況では信じ難いことだけど、僕らは恋愛感情も交わしていたよな?」
「そうだな、でなきゃお前をここに置いたりしてないだろうし。俺の貴重なバイト代でデートしたりしないだろうなあ」

 そうそう、次どこ行く? 俺見たい映画あるんだけど!
 ハヤトの独り言は続く。この際、僕の希望しない返答は全部独り言っていうことで。
 そう、別に僕がハヤトに嫌われているとか、愛は消え失せてしまったのだ、ああ! なんてことはなく、デートもするし、それらしい言葉も交わすし、僕は今この瞬間もハヤトが好きだ。週末の予定を立て始めたハヤトの顔は楽しげだし、彼も僕が好きだということに変わりはないんだろう。
 なんなんだ、一体!

「……映画、付き合うよ。昼ご飯は行きたい店があるんだ。こないだ見せた、ほら」
「あー、あのガイドの? 行く行く! やっぱ時々は新規開拓しないとな!」
「替え玉ありだし、君の好きな醤油ベースだしね」

 溜息と共に鬱屈した気分を吐き出した。今日この瞬間に貰えなかった以上、愚痴を零しても暴れても首を吊っても貰えないものは貰えない。四年もかかったが、諦めがついた。やはり二度あることは三度あるのだ。
 僕はハヤトの机に積み上げられた本の山から一つの雑誌を抜き出して、ラーメン屋特集の記事を開いた。僕はこうしてハヤトの期待する物を探す努力をするのだけど――言っても仕方が無いか。諦めよう、諦めよう。

「ホワイトデーのお返しを考えなきゃなあ。どうしよっか、今年は」
「君はそれを僕に相談するのか」
「だってお前鈍いからさー。俺も気が長いとは思うけど」

 聞こえよがしに言う。
 ベッドに倒れたままだらしなく見上げる僕を見下ろしながら、他の女から貰った包みを丁寧に開けて、小さな菓子を食べ始めている。僕はそれを見て、もぐもぐと動く口を見ている。瞬きを何度か繰り返して、僕は「どういうこと?」と一言返した。どういうことだ?
 ハヤトは更に一つチョコレートを取り出して包みを置き、空いた手で僕の鼻を摘んだ。しばらく待っても放さないので、観念して口を開く。押しこまれたのはビターチョコだった。
 僕の視界には、逆光で翳るハヤトの笑顔。どこかがっかりした様子で、彼は肩を竦めた。

「お前だって、今日、俺に何も用意してないくせに」

 俺が誰かに上げるのは、ホワイトデーだけなんだってば。
 先の台詞を繰り返して、ハヤトはもう一度僕の鼻を摘んだ。





先ず隗より始めよ
(07.02.19.)