血の絆と、その甘み




 金曜の夜は長い。
 己が身を守っている妖(あやかし)が昼の陽の下には現身(うつしみ)を現し難いからだ。仮に現身を作ったとしても彼女の姿は現代には相応しくないために違和感を拭う苦労が生まれる。あんなに裾が短い着物の持ち主を桂は他に知らない。青珠に依る鬼の少女ノゾミが、件の妖だ。今は窓際で完全に日が暮れるのを待っている。桂は夕飯の洗い物を終えたところだ。

「ねえノゾミちゃん、お天気はどう?」
「保っているわ。夜が更ければ降り出しそうだけれど、今はまだ月が見えているもの」

 そっか、と返して桂はノゾミの傍へ寄った。そう広くはないアパートの一室で、二人は暮らしている。幼い頃に父を火事で亡くし、そして昨年の夏に母を亡くした。所謂天涯孤独の身の上という訳だが、幸い母の古くからの友人が度々様子を見に訪れてくれたり何かと良く計らってくれるので、然程生活の上では困る事はない。母を失った寂しさはあったが、その年の夏に出会ったノゾミが四六時中共にいる為、それも打ちひしがれるほどではない。困ることといえば、精々食事ぐらいだろう。しかしそれも熱心な友人達の指導のおかげか幾分マシにはなってきており「毎朝固形の携帯食料に頼る」なんてことはなくなった。見るに見かねたノゾミが何のかんのと言いつつ手伝ってくれるのも大きい。
 洗濯物を畳み終わった頃、ノゾミは「行きましょう」と言った。出る支度は既に出来ていた。畳み終わった服はそのままに、携帯電話と家の鍵だけを持って表に出た。家の中では現身を作っていたノゾミが、一端その姿を消す。けれど、桂は確かに彼女の気配を感じていた。外はすっかり夜の帳が下りて、ノゾミら鬼の世界と化している。もっとも、今この辺りにはノゾミ以外の鬼はいないはずだが。アパートから離れ、人気のない道を選んで歩いていく。街灯が疎らになると、ノゾミは改めて現身を作った。

「ふうっ……」
「天気予報じゃあ明日は雨だったよね? 雲は多いけど……」
「よく御覧なさいな。あの雲の厚さを見て、雨は降らないかも、だなんてどうして考えられるのかしら」

 大手を振って、というと語弊があるのかもしれない。とにかく、ノゾミが外で現身を作るのは大よそ1週間ぶりのことだった。大きく深呼吸をしたノゾミの隣で天気の話をすると、その思考の穴を鋭く切り捨てられた。彼女が桂の、いわば敵として相対していた時からこの歯に衣を着せぬ物言いは変わらない。変わったとすれば、それは彼女の心の内々の話だろう。

「ううっ……でもでも、明日は陽子ちゃんとお凛さんとね、出掛けるんだよ?」
「そんなこと知るものですか。どうして天気があなたの予定に合わせなくてはならないの?」
「それはそうだけど……」
「明日は雨具の用意を忘れないことね。濡れたら、あなた絶対に風邪を引くわ」

 仰る通りですと頷くとノゾミは満足げに笑った。つられて微笑みながら、桂はノゾミの手を取って歩き出しす。
 ノゾミは既に死んだ身で、この体は肉体ではない。けれど、血が通っているように暖かだった。もしも血が通っているのだとしたら、彼女の血はおそらく、桂の血で出来ているだろう。桂の体に流れる血は「贄の血」という、鬼に特別な力を与えるものだ。桂はノゾミに血を与え、ノゾミは桂がストラップとして携帯している青珠に依り、血の匂いを隠し、もし鬼に遭遇することがあれば桂の身を守る。端的に説明すれば、二人の関係は持ちつ持たれつだ。桂は、それだけではないと思っている。そしてノゾミも同じ気持ちでいてくれていると、そう信じている。

「桂、どこまで行くつもりなの?」
「うーん……ここならいいかな?」
「桂?」

 ノゾミが訝しげに問う。それには気付かずに、桂はようやく足を止めた。一人で何やら呟きながら、辺りをキョロキョロと見渡している。緑の多い公園の、裏側に来ていた。雨季を迎え鬱蒼と茂る木々が、数少ない街灯の薄暗い明かりを覆い隠しており、周囲は少し気味が悪いほどに静かで、暗い。ノゾミが一緒でなければ、歳若い少女が一人で来るような場所ではないだろう。

「ちょっと桂、聞いているの?」
「聞いてるよ。えへへ…はい、どうぞ」

 繋いだ手を強く引いてむくれたノゾミの前に、桂はしゃがみ込んだ。そうしてそのまま、ノゾミの小さな体を抱き締める。薄明かりの中でそうしていると、何だかとてもいけないことをしているような気分になり、胸が高鳴った。

「な、何? どうぞ、って…」
「今日、ノゾミちゃんお誕生日だよね。だから、いつもと違う雰囲気で、わたしの血をプレゼントしようと思って」
「それで、ここに? まったく、あなたって子は……」

 照れくささから顔を上げられずにいる桂には、ノゾミの顔は見えない。ただ、彼女の手がそっと頬に触れ、そして首に下りてくる感覚は感じていた。小さな指が触れるか触れないかの弱い刺激を与えてくる。抱き締める腕の力を少し抜くと、ノゾミは少し屈んで桂の首に口を寄せた。

「は……んっ、ん」
 小さな舌が首筋を伝う。ゆるゆると這わせ、濡れた部分に柔らかな唇が押し当てられた。きつく吸い、また舐め、唇で食み、また吸う。ノゾミの息遣いが、耳元でいやに大きく聞こえた。愛撫とその吐息が、桂の体を内から火照らせる。

「いいよ、ノゾミちゃん。……きて」
「嬉しいわ、桂……」

 一拍の間の後、暗がりに小さな水音と甘い声が落ちた。




 家に戻ってもまだ上せたままでいる桂の前に、ノゾミは冷蔵庫から取り出した物を次々と並べていく。帰り付いてしばらくして降り出した雨が、少し煩かった。

「桂、明日の外出は取り止めなさいな。そうすればまだ楽しめるわ」
「そ、そんなこと言っても……これ以上飲まれちゃうと、わたしの血がなくなっちゃうよ……」
「死なせやしないわ。ほら、鉄分補給なさいな」

 冷凍のほうれん草のおひたしと、サプリメントをどんと突きつける。桂は、別の意味で目の前が暗くなっていった。





(06.06.18.初出/07.04.25.加筆修正)