手のひらの中で




「桂さん、そろそろ時間じゃないかい?」
「え……もう、そんなに?」

 烏月さんに言われて、わたしは慌てて携帯を開いて時間を見た。かちゃっという軽い音を伴って、ディスプレイが光る。
 諸行無常。
 そんな言葉が私の脳裏を過ぎった。陽子ちゃんがいつも、「はとちゃんと一緒にいると時間が少ない!」っていうけど、やっぱり好きな人といる時間って、とっても早く終わってしまう。まだ烏月さんと一緒にいたいし、まだまだ話したい事も一杯あるのに…

「可愛いね」
「えっ!?」

 わたしがいつの間にか(いつも通り)ぼうっとしていると、後ろから烏月さんがわたしの手元を覗きこんでいた。烏月さんの優しい目と言葉に、わたしの顔が茹で上がっていく。まばたきを二、三回繰り返している内に、烏月さんはその綺麗な指でわたしの携帯の画面を指した。

「桂さんに相応しい可愛らしさだね。ハムスターかな?」
「え、あ……うん! そ、そう! ハムスター!」
「そうか。気に入っているんだね」

 随分前から同じ絵だよね、と烏月さんは続けた。
 わたしは改めて、手の中の携帯を見つめる。携帯が壊れたことはあったし、データフォルダの中には他のイラストも入ってる。だけど、わたしはこの絵を使いつづけていた。

「この絵はね、お母さんが知り合いのイラストレーターさんに頼んで、書いてくれたものなんだ」
「母君の……」
「携帯を初めて買った時、私の思うような可愛い待ちうけ画面が見付けられなくて、それをお母さんにも話してたんだ。そうしたら、ほら、わたしのお母さんは翻訳のお仕事をしていたって話したよね。それで、そういう知り合いがいたみたいで」
「それで気に入りなんだね。……いいお母さまだ」
「うん……」

 このイラストは確かに可愛かったんだけど、その可愛さよりもお母さんの気持ちの方が、ずうっと嬉しかった。それで、お凛さんの提案で、このイラストのデータだけは別に取ってある。それさえあれば、携帯を壊しちゃっても、また読み込ませるだけで大丈夫…らしい。

「さあ桂さん、本当にそろそろ帰らないと、危ないから」
「あ、うん」

 ぱちんと携帯の画面を閉じて、ポケットに滑りこませる。そこでふと、首を傾げた。

「ねえ、烏月さんはどんな待ち受け画面にしてるの?」
「私かい?私は……」

 苦笑いしながら肩を竦めて、烏月さんは自分の携帯をわたしに見せてくれた。わたしのピンク色の携帯とは対照的な、落ち着いた色のシックなフォルム。映し出された画面には、たぶん買った時のままの、幾何学模様のロゴが光っていた。

「鬼切りの連絡手段として使うことがほとんどだからね」
「あ、そっか……。じゃあ、私と一緒にしない?」
「え?」



 薄暗い廊下を歩く。足音は、毛足の長い絨毯が吸い込んでいた。気配を殺し、息をひそめ、私は彼女に近付く。今、力ある言の葉を吐けば彼女は呆気なく餌食になるだろうか――そんなことを考える。
 しかし、その瞬間に長い髪を流して彼女が振り返った。一拍ほど遅れて、漆黒の髪が残像のようにゆっくりと彼女に重なっていく。先に口を開いたのはこちらだった。

「こんなところで立ち止まっているとは、どうかしたんですか烏月さん?」
「葛様……。いえ、なんでもありません」

 彼女の手には、薄明かりに鈍く光るものがあった。携帯電話だ。両手で包み守るようにして、後生大事に持っていた。私が掌を差し出すと一度瞬くほどの間を挟んで、その携帯が渡された。
 恐ろしく理想的に、彼女は従順だ。それが私情あってのことかどうかは、私にはあまり興味がない。見上げて一応の是非を問うと、彼女は小さく頷いた。
 それを待って、携帯の画面を開く。

「…………」
「…………」
「……えーと、烏月さん」
「はい、なんでしょうか」
「………いえ、結構です」

 ゆっくりと閉じると、それを彼女に押し付けて私は身を翻した。彼女の声が何事か言いながら私の背を追ったけれど、決して振り返らなかった。
 足早に元の部屋に戻ると、私は備え付きの電話に手をかけ、短縮で外に繋ぐ。コール音が数度鳴るか鳴らないかという内に、相手が出た。

『はい、もしもし?』
「こんにちは、桂おねーさん。実はお願いがあるんですけどー」



 お母さん、大事なものは一人占めするよりも皆で持ってた方がいいよね?

「ちょっと桂、どこに向かって話しているの?」




(06.02.13.初出/07.04.25.加筆修正)