宵立ち人





 眠りから覚める瞬間というのはいつだっておぼろげだ。たった今意識が戻った、と判別することが出来ない。瞼は開いたはずなのに天井の木目が見えないのは、まだずいぶん遅い時間だからなのだろうか。眠気は強く、瞼は今にも合わさろうとする。ふわぁ、と小さくあくびをすると目の前の闇が揺れた。
 ――揺れた?
 ぼうっとそれを目に映しながら、千鶴の脳はゆっくりと動き出す。ゆっくりとまばたきを繰り返す千鶴の前で、また闇が揺れる。ふっと空気も動いた。吐息が千鶴の頬を掠め、そして微笑む。
「んっ、う……」
 ぎゅっと強く目を閉じ、もう一度、二度まばたきすると、すぐ側で笑うのが闇でも何でもなく――月明かりを背負い、ぼんやりとその輪郭を浮かび上がらせた人であると気付く。目の前が真っ暗だったのは夜が深いのではなく、その人が黒尽くめで、寝起きの目には眩しいほどの月の灯りを千鶴に隠すように背負っているからだ。
 こちらを覗き込んで微笑むその人が誰なのか、ようやく気付いて口を開こうとした千鶴の唇を、男の渇いた指が遮る。紅を塗るように指先でほんの少し柔らかな感触を辿り、名残惜し気に離れていく。
 まだぼんやりとしたまま、千鶴は珍しくあからさまに楽しげな男を見つめた。
「起こしてすまない。これから出るところだ。声は抑えてくれ」
 端的な言葉は相変わらず要点を抑えて分かりやすい。黒衣の口布を引き下げた男は傍らに置いていたものを千鶴にも見えるよう持ち上げると小さく揺らして見せる。見慣れたそれを見て、千鶴はすぐに彼がここにいる意味を理解して思わずこくんと頷いていた。
「山崎さん、いつお戻りに?」
「つい先ほどだ。松本先生から教わった書き付けも挟んでいるが、まだ整理していない。今度時間をとって君にも伝えるから今はそのままにしておいてくれ」
「……はい」
 多忙な山崎は監察の隊務の合間を縫って隊と昵懇の医師松本の下を訪ね、医術の手ほどきを受けている。昨日は大坂の屯所への伝達も兼ねて松本へ会いに行っていたはずだが、他の隊務をこなしてから京まで引き返してきたのだろう。
 障子ごしに差し込む月明かりがまるで昼のように明るいので分かりにくいが、恐らく半宵は過ぎている。だというのに、夜通し歩いて帰ってきた山崎はこれからまた出掛けていくらしい。彼に限ってはままあることとはいえ、千鶴はほんの少し顔をしかめた。
 気遣いの言葉の一つでも掛けたいのに、寝起きの頭はまだ眠りの泉へひたひたと浸かっていて、うまく言葉を紡げない。もどかしい想いで見つめていると、山崎は千鶴へ見せた傷病人をまとめた帳面を枕元へ置いて、それから指の背で千鶴の目元を優しく拭った。その手はそのまま、額に掛かる髪を少しだけ払って離れていく。短く切りそろえた爪先がほんの少し濡れて光るのを見た千鶴は、山崎もまたその爪先を見ながら笑んでいることに気が付いた。
 千鶴が目覚め、彼がいると気付いてからずっと、山崎はどこか楽しげだ。普段からあまり感情の起伏は見せる方ではなく――もちろんそれは、例えば沖田たちが彼や土方をからかわなければ、だけれど――こうしてずっと笑顔を見せているのは珍しいことに思えた。
 疲れているだろうに、上機嫌なのはどうしてなのだろう。これからまた隊務に、しかも黒衣の装束を身にまとっているということは監察として人目に触れてはいけない危険な隊務に赴くのだろうと察しが付くのに、どうして楽しげなのだろう。
 困惑をにじませる千鶴に気付いたのか、それとも口が滑ったのか、山崎は口角を上げて笑むとつり目がちな目を細めて、掛け布団の上から千鶴の胸元に手を置いた。
「闇に紛れて出て行こうというのに、今夜は昼のように月が明るいだろう。満月の夜は困りものだと思ったが、出掛けに君を訪ねて良かった。俺は夜目が利くが、やはり明るいほうがよく見える」
 そうして千鶴の目を手のひらで覆うと、楽しげな声音のまま「おやすみ」と呟いた。手のひらはそのまま動かない。千鶴が眠るまで――眠ると分かるまで、そうしているつもりなのだろう。これから出掛ける山崎を引き留めるわけにはいかない。千鶴は大人しく、山崎の手のひらの下で瞼を閉じた。
 眩しいはずの月明かりも山崎の背に隠され、わずかな明かりも手のひらで閉ざされる。真実真っ暗な夜の中で、千鶴は先ほどの山崎の言葉を思い出す。あれは、千鶴の言葉にならない疑問へ答えてくれたのだろうか。
 触れていた手のひらが離れていく感触に気付くが、瞼は重く、開くことが出来ない。せめて見送りたいと思う気持ちは確かにあるのに、身動きが取れない。
 畳の上を歩くわずかな衣擦れの音と、静かに障子が開く音。そして不意に、閉じたままの瞼を眩しい明かりが照らした。山崎が離れたことで、隠されていた月明かりが再び届いたのだろう。このまま目を開けたらその眩しさに目が眩みそうだと、そう思う千鶴の耳に小さな声が囁く。
「良いものを見せてもらった。おやすみ、雪村君。良い夢を」
 低く抑えられた声はくすぐったいほどに甘く、優しく、だけれどそんな言葉が彼から出るのは不思議で仕方がない。どうしてそんなことを、そんな声で告げるのだろう。月明かりに瞼を照らされてもなお強く残る眠気に意識を引きずり込まれながら、千鶴は残る自意識で彼の無事を祈る。
 明日か、明後日か、いつか目覚めたとき再び山崎に会えさえすれば、今夜のことも尋ねられる。不思議で仕方がないそぶりの数々も、それがどうしてか嬉しくてほっと安堵してしまった自分の気持ちも、その正体を明るみに出すのは月明かりの下ではなく、陽の光の下が相応しいのだろう。
 もう瞼の向こうで闇も光も揺らめきはしない。音もなく去っていた人を想いながら、千鶴は再び眠りについたのだった。





8/18薄桜鬼ワンライお題「満月」(16.08.18.)