瞳の海に





 目が覚めたのは慣れない寝台の上だった。
「ふわぁ……っ」
 うんと伸びをしたちょうどそのとき、大きく視界が揺れる。慌てて寝台の淵に掴まり辺りを見回すけれど、窓もない船室では揺れの原因は何も分からない。きっと大きな波が来たのだろう。この揺れも、船旅が始まってから何度も出会っている内に慣れてしまった。
 身支度を整えて部屋を出ると、喉が渇いていることに気が付いた。船内の廊下を進み、すれ違った隊士の方に頭を下げつつ調理場に辿り着くと、湯呑に水を汲む。一口飲んでほっと息をつき、減った分だけまた水を足す。それから、少し悩んでもう一つ湯呑を手に取った。
 不規則にゆらゆらと揺れる船の中で歩くのも少しだけ慣れてきた。それでも、水の入った湯呑を両手に握っている状態では壁伝いに進むことも出来ず、中身が零れないか心配で、一歩一歩ゆっくりと進んでいくしかない。
 そうして恐る恐る進んでいると、甲板へ上がる階段が見えてきた辺りで後ろから声を掛けられた。
「何してんですか、雪村先輩?」
 振り返ると近藤さんの小姓である野村君が不思議そうに首をかしげている。でも、振り返った私の両手を見てすぐに事情を察したようで、噴き出して笑いながら湯呑を持ってくれた。彼の足取りはしっかりしたもので、陸地にいるのと変わりなく歩いている。湯呑の中の水面は揺れるだけで、零れそうにはなっていない。
「すごいね。野村君は船に慣れてるの?」
「そうじゃないけど、飯運んだりしてるんで慣れました。それに、こういうの得意みたいで」
 にこっと笑った野村君は、そう言うと足音軽く階段を駆け上っていく。慌てて追い掛けた先の甲板で「はい到着!」と満面の笑みで湯呑を返してくれた。
 甲板は掴まるところがないけど、あちこちに積み荷の箱がある。そこに身を寄せれば船内にいるのとそう変わらず進めるはずだ。
「ありがとう、野村君。助かっちゃった」
「これぐらいお安い御用ですよ。じゃ、俺戻ります」
 身をひるがえして今来た道を引き返した野村君は、船内へ繋がる扉へ手を掛けたところで不意に足を留めて振り返った。何か言おうとして口を開き、ためらうように閉ざして視線を落とす。けれど、すぐにぱっと顔を上げてまっすぐに私を見つめる。
「あの! 無理すんなよ!」
「えっ?」
「ちゃんと食ってます? 飯んときいないから、気になってて」
「あ、うん。ちゃんと食べてるよ。……ごめんね、心配かけて。でも大丈夫だから」
 私も少し考えて、言葉を選んで伝える。
「まだ、戦は終わっていないもの。きちんと食べて、休んでる。いつでも動けるように」
「そっか」
 俯いて大きく息を吐いた野村君は、次に顔を上げたときにはまたいつもの笑顔に戻っていた。鼻の頭を少し擦ると、うんうんと頷く。
「ならいいや! ここ冷えるんで、ほどほどで戻ってくださいよ。相馬も心配してました」
「ありがとう。野村君も、無理せず休んでね。私に出来ることなら代わるから」
「じゃ、やばくなる前にちゃんと頼ります」
 おどけた風に言って、今度こそ振り返らず戸をくぐって船室へ戻っていった野村君の背を見送り、私もふっと息を吐き出す。
 そう、戦いはまだ終わっていない。江戸へ戻ったら仕切り直しだと、土方さんはそう言っていた。だからこそ私はこんな時間に寝起きしているのだ。
 両手の湯呑を持ち直し、小刻みに揺れる甲板を進んでいく。視界の端に映る海面は、夕暮れの太陽に照らされて昏い赤に染まっていた。

 彼の元へ辿り着いたとき、両手の湯呑は何とか中身を零さずに済んでいた。船が波に揺られるたびにどうにか平衡を保ち進んできたけれど、ここまで来て転んだり落としてしまっては全てが水の泡。慎重に歩み寄っていると、船べりから水面へ視線を投げていた山崎さんが振り返った。
「おはよう。……大丈夫か?」
 少し笑いを含んだ声へ返事をする前に辿り着き、黙ったまま片手の湯呑を手渡す。残った自分の分の湯呑を両手で持って、ようやくほっと息を吐いた。
「今日は零さず持ってこられました」
「そのようだな。途中まで野村君に手伝ってもらっていたが」
「えっ、見ていたんですか?」
 持ってくるのに緊張してまた喉が渇いてしまった。湯呑に口をつけていた私は、からかうような山崎さんの言葉にぱちぱちと瞬きを繰り返す。ここは船室との出入り口とは反対側で、他の隊士さんの姿はない。出入り口の辺りで話していた姿は、ここからは見えないはずだ。
 驚いている私をひとしきり眺めてから、山崎さんは船べりに腕を置き、視線を水面へと戻した。
「声が聞こえた。見てはいないが、その様子だと当たっていたみたいだな」
「そんなに大きな声でしたか?」
「いや」
 そこで言葉を切った山崎さんは、湯呑を傾けて口をつぐむ。その姿を見て、ようやく台詞の先に気付いた。山崎さんは羅刹になったから、きっと耳の聞こえも良くなったのだろう。筋力などの身体能力が向上するなら、聴力が上がっても不思議はない。何も言えず、私も船べりに手をかけて波間を見つめた。
 ざあ、ざあ、と絶えず波の音は続いている。この船に乗ってからずっと、この音と共に進んできた。波の音が途切れたら、江戸に着いたら、新選組はまた戦うことになるのだろう。体制を整えたり、装備を補充したり、やるべきことはたくさんあると聞いていた。
 山崎さんは湯呑をちびちびと傾けながら、飽きることなく海を眺めている。潮風に長く当たっているのは身体に良くない。そんなことは山崎さんも当然知っているはずで、だから私も何も言わず並んで海を眺めていた。
「繰り返し同じ夢を見るんだ。夢の中で、俺はこの海に落ちて沈む」
「えっ?」
 はっと山崎さんを見上げると、彼の目は変わらず穏やかなまま遠くの海面を見つめている。水平線の向こうで、陽が沈みかけていた。
「土方さんを庇って、怪我を負って……そこには、雪村君。君もいるんだ」
 寝物語を聞かせるように語る山崎さんの声は至って穏やかで、波の揺れと同じように優しく私を包む。静かな夢の話は現実によく似て、そして終わりが違っているという。
「俺は変若水を飲まなかった。副長の分は、副長が既に飲んだ後だったんだ。生身の俺は土方さんを庇って倒れ、この船へ運ばれる。君が、必死に涙をこらえて止血して、俺の看病をしている。それを、少し上から眺めているんだ。傷が深く、会話もままならない俺は君と何かを話して……君は気丈に俺を励ます。けれど俺はそのまま……。遺された君が、死んだ俺の手を握って、泣き叫んでいる。何も出来ず、ただそれを眺めている。そういう夢だ」
「それ、は……」
 一番あって欲しくない結末だった。山崎さんが目覚めるまで、私はその終わりにずっと怯えていた。言葉にならず、ぎゅっと湯呑を握りしめる。その上から、温かい手が重ねられた。少し乾いた、筋張った手が優しく宥めるように指先を撫でてくれる。
 沈みかけた夕陽を背に、山崎さんは微笑んでいた。
「やがて俺は水葬されるんだ。甲板に隊士が並んで、きちんと儀式の形式で見送られていた。泣きはらして憔悴しきった君も、そこにいる。俺はそれを、やはり少し上から眺めている。……いつもそこで目が覚める」
 不安が湧き上がって口を開くより先に、山崎さんの手が頬に触れる。眩しいものを見るように、慈しむ眼差しが私を捉えていた。
「今ならはっきりと言える。俺は、変若水を飲んで良かった。死ななくて良かった。生きていなければ、こうして泣きだしそうな君に触れて安心させてやることも出来ない」
 親指で目じりをなぞると「まだ泣いてはいないか」と笑う。船の中で目覚めてから、山崎さんはよく笑ってくれるようになった。目を細めて、微笑んで、私の名前を呼んでくれるようになった。
 だから私は、彼が目覚める前よりずっと、泣きそうになってしまう。
「雪村君、君は俺を一人にはしないんだろう? だったら、俺は死ぬわけにはいかない。君はこの先も、俺と一緒にいると言ってくれた。それなら死んでなんかいられない。君を遺してはいけないし、君を道連れにするのはもっとだめだ。だから、この夢を見るたびに生きていると強く実感する。まだ、この先も君を守れる。安心するんだ」
「山崎さん……」
 喉の奥が震えて言葉にならなかった。山崎さんが優しく頬を撫でるから、目の奥が熱くてたまらない。
 揺れる視界で、薄暗い夕焼けが山崎さんを赤く染めている。優しく見つめるその眼差しは、私が泣きだすのを待っているのかもしれない。もう泣いてもいいのだと――泣いたら本当に山崎さんを失ってしまう気がして、怖くて涙も出なかった数日前の私に告げているのかもしれない。
 温かい手に頬をすり寄せて、私はゆっくりと瞼を閉じた。





薄桜鬼ワンライ3/2分:お題「水」(15.03.02.)