とばりを越えて





 揺られる船室は、波の音が続くほかはずいぶん静かだった。目が覚めて千鶴といくらか話したのち、山崎はまたうつらうつらと眠りについていたらしい。寝る前と変わらず繋いだままの手の先に、少し疲れの見える千鶴の寝顔があった。きっと山崎が目覚める前もずっとそばに付いていてくれたのだろう。本当なら起こしてきちんと休ませるべきなのだろうが、安らいだ様子の寝顔を見ると揺り起こすのも気が引けて、もう少しだけ目を瞑ることにした。
 自分は恵まれているのだと、そう感じたのは何度目だろう。
 士族の出ではない自分が新選組への入隊を許され、副長に見込まれ監察の任を与えられた。誠の武士になりたい。その願いを叶えてくれた同志の集う新選組を共に盛り立て、支えていきたい。その願いは今もまだ叶い続けている。
 加えて今は、と繋いだ手の温もりに目を細めた。
 戦況は思わしくなく、山崎の読み通り――あるいは山崎が思っていたよりずっと悪いようだ。新選組は大敗を喫し大坂へ、そして江戸へと逃げ延びている。自身も追い詰められて変若水を飲むこととなった。今はまだ異変を感じていないが、これから徐々に陽を嫌い血を求め始めてしまうのかもしれない。そうなる公算は高いと考えている。
 それなのに、驚くほど穏やかな心地だった。自分が変若水を飲むことになろうなどとは考えたこともなかったけれど、あのとき、あの瞬間を何度やり直すことが出来たとしても、自分は必ず同じ選択をするだろう。土方に飲ませるわけにはいかない。そして、彼女を奪われるわけにもいかない。
 散り散りになって逃げ出す直前、島田が言っていた言葉を思い出す。山崎の強さも弱さも、命をなげうってでも貫くところにあったと。実際そうだったのだろう。以前の自分なら、きっと自分を盾にして土方と千鶴を庇い、二人を逃がせるなら死んでも構わないと、そう考えていたはずだ。
 しかし今は違う。変若水を飲み、後悔はないかと不安げに尋ねた千鶴を思い返すにつけ、息苦しいほどに愛おしさが込み上げる。
 「誰か」では駄目なのだ。自分が、この手で彼女を守る。そして傍らにいて欲しいのは、他の誰でもなく千鶴だけだ。
「……雪村君」
 穏やかな寝息と寝顔を見つめ、重ねた手にそうっと力を込める。
 彼女のすべてをずっと見守ってきた。彼女が逃げ出そうとするのではないか、逃げ出せば見張りにつく幹部に殺されるのではないか。年端もいかぬ少女を自分たちの都合だけで監禁している事実はさすがの山崎にも心苦しいことだった。それでも、隊のため黙して従っていた。
 やがて彼女が幹部たちの信用を得て、監視の任を解かれたときには、ホッと胸を撫で下ろしたものだ。安堵と共に誇らしささえあった。千鶴をずっと見てきた山崎にとっては、もうずいぶん前から彼女が危険な存在でないことは分かりきったことで、苦境にありながらも健気に尽くす姿に心打たれていた。彼女が新選組のために何くれとなく気遣ってくれているのも知っていて、医療の面で他に頼る者のなかった山崎にとってはその点でも千鶴の存在はありがたいものだった。
 彼女になら傷ついた仲間を任せられる。彼女なら新選組の仲間を思って行動してくれる。
 その確信を誰よりも先に、誰よりも強く持っていたと言い切れる。
 大切な仲間で、信頼出来る人で、彼女の存在には何度となく支えられてきた。命を捨てて隊のために役に立つのではなく、その覚悟を持ちながらも生きて隊を支えなければと、そう考えられるようになったのは千鶴のおかげだ。
 だから変若水を飲んだ。ここで死ねるものかと、そう思ったのだ。闇に身を浸すことになろうと、自分という存在が闇に葬られようと。風間へ切った啖呵の通り、覚悟は決まっていた。悔いはない。
 あるとすれば、未知の領域へ踏み込んだ不安が幾ばくかというところだ。けれどそれも、先ほどの千鶴の言葉で霧散した。山崎の心を支え、命を繋いでくれた千鶴が、この先のうかがい知れぬ運命までも共にあると言ってくれたのだ。これほどの救いが他にあるだろうか?
 ぐっすりと眠っている千鶴は未だ目覚める気配がない。これならばと、そうっと身を起こした。やはり体に不調はなく、妙にすっきりとしている。これが羅刹の力を得たからだというのは分かっていたが、まだ動けるということには心底安堵した。
 右手は千鶴と繋いだままで、その温かさと柔らかさは手放すには惜しい。左の手も重ねて、小さな手を包んだ。
「……千鶴」
 言って、やはり躊躇いと気恥ずかしさに見舞われる。心の中では、もう何度も呼んでいた。藤堂や原田、永倉、そして沖田がそうしていたように、千鶴、千鶴と呼びかけていた。
 愛おしい。彼女が自分と共にあると、そう決めてくれたことが嬉しくてたまらない。二人だけで過ごす時間はこれまでにもあったけれど、それもこれからの日々とはまったく違うのだ。こうして触れてもいいのだろう。いや、そうしたい。今度はもっとそばで、もっと彼女を大切にしたい。彼女を守り、共に新選組の仲間のために――
「あー、ちょっといいか」
 ごほん、と近くで咳払いが聞こえて山崎はびくりと肩を跳ね上げる。いつの間に、いや、いつからそこにいたのか、山崎からは死角になる出入り口のほうで目をそらして立っていたのは土方だった。
 千鶴を見つめながら考え込んでいたのは、そう長い時間ではなかったはずだ。千鶴と共に寝入っている間にこの船室へ入ってきていたのだろう。そこで山崎が目覚め、何やら千鶴へ話し掛けたので声をかけそびれたのか。
 思い至り、山崎は全身からどっと汗が噴き出す思いで頭を下げた。
「ふ、副長……その……」
「……悪い」
「い、いえ……」
 気まずさはお互い同じだけ抱えていたらしい。山崎もごほんと咳払いをして、深呼吸一つで気を落ち着けた。監察として、表情を取り繕うのは慣れている。あまりにも動揺の激しい今、きちんと平静を装えている自信はなかったが。
 改めて顔を上げると、土方もため息ひとつで気を取り直したようだった。
「具合はどうだ。顔色は悪くないみてえだが」
「はい、どこも問題ありません。……変若水は正しく作用しているようです」
「そうか……」
 暗い表情になるのも無理はない。山崎は、土方の代わりに変若水を奪って飲んだのだから。けれど山崎の晴れ晴れとした表情で、固い決意から飲んだことを察したのだろう。それ以上何か言うことはなく、やがて土方の視線は眠る千鶴へと向けられた。
 結った黒髪が細い首筋に散っている。その身の小ささに、改めて心が震えた。守れて良かった。本当に。本当に。
 息をつめて眠る少女を見守る二人の間に、ため息が重なった。
「あれからお前を抱えて逃げる間も、大坂城にいた間も、ここに寝かしてからも」
 ぽつりと、小さく土方が言う。
「千鶴はずっとお前のそばにいたよ。片時も離れようとしなかった。食事も睡眠も疎かにしてな。何度言っても、誰が宥めすかしても聞きゃあしねえ」
 呆れた口調で言う声は、言葉に反して柔らかい。
 そうだろうとは思っていたが、やはり千鶴は山崎の看病で無理をしていたようだ。今眠っているのは、山崎が目覚めたことで安心したからなのだろう。やはり、あのまま死んでしまわなくてよかった。土方を庇って死んでしまえば、千鶴が今どうしていたか、どれだけ心を痛めたことか。自分の判断は間違いではなかった。改めてそう思う。
 再び和らいだ山崎の眼差しに、土方の言葉が重なる。
「目が覚めたらちゃんと飯食わせて、きっちり休ませろ。どのみちお前も千鶴も、船が着くまでは休養だ」
「報告や今後の打ち合わせはよろしいのですか」
「そんなもん、向こうに着いてからだ。どうせ着いたところで即日すぐって訳にゃあいかねえよ」
 それは確かにそうなのだろう。本拠を置き、情勢の確認をし、藩の意向を伺い、とやるべきことは山のようにあるが、そのうち山崎に出来るのは市井から情報を得るくらいだ。しばらくは土方や近藤が動き回り、隊士に出来るのは乱れた足並みを揃え、改めて隊をまとめることだろう。落ち切った士気を取り戻すのは、言うほど簡単なことではない。
 それに、と考えが及んだ先で山崎は気付いた。部屋を見回すが、どうやらここにいるのは自分と千鶴、そして土方だけだ。
「他のけが人や病人は、どうされたんですか」
「別の部屋だ。医者が見てるから心配ない」
 大坂城に集まった幕軍の中で医術に明るい者がいたため、まとめて重傷者を診ているということだった。急激な疲労で昏倒していたとはいえ、羅刹の力で傷が癒えている山崎は、それを隠す意味もあってこの個室へ移されたらしい。
 亡くなった者、傷の具合からもたないであろう者、戦線に戻れそうもない重傷者。土方から聞き、じくりと心を痛めつつ現状の把握を済ませると、山崎は頭を下げた。とにかく今自分に出来ることは、いつでも動けるよう英気を養うことだ。
「雪村君が起きたら、必ず食事を取らせます」
「お前もな。食うもん食って、後で精々働いてくれ」
「はい」
 わざわざ見舞いに来てくれた土方は、手をひらひらと振ると船室を出ようとした。が、不意に思い立った様子で振り返ると、ずいぶん悪い顔をしてにやりと笑う。
「良かったな」
「……は?」
 生きていて、ということではなさそうだ。珍しい表情に呆気にとられつつ土方の視線を追い、包み込むように握ったままの千鶴の手へと至る。
 目を見開き、絶句して耳まで熱が込み上げた。はくはくと唇が震えるが、何を言うことも出来ない。
 完全に取り乱した山崎を見て、土方は肩を揺らして笑うと今度こそ部屋を出て行った。
「……しまった……」
 おそらく土方は、山崎が千鶴の名を呼んだのも聞いてしまっただろう。道中の千鶴の様子や、今こうして手を握り合っていることを加えれば隠しようもない。あの様子では咎めるつもりもないのだろうが、だからといって平然としていることも出来なかった。気恥ずかしさで顔から火が出そうだ。
 完全に朱に染まっているであろう頬を扇ぎたくもあるが、握った手を離してしまうのも名残惜しい。
 参った。本当に参った。
 うう、とも、ああ、ともつかない呻きを漏らすと、山崎は頭を冷やすためにしばし瞑目するのだった。





(15.10.18.)