今はまだ明けぬ夜の中で





 整頓しても仕切れぬ書物が積み重なり、洗い清められた包帯がまだ巻かれぬまま山と積まれている。それらを避けるよう端に置かれた行灯は、もうじき油が切れるのかじりじりと焔の揺らぐ気配が続いている。
 指に巻きつけて包帯を巻きなおしていた山崎は、ふと行灯を挟んだ隣に並んで座る千鶴の手元を覗き見た。

「器用なものだな。縫製の手習いをしていたのか?」
「ちょっとだけ教えてもらったことはありますけど、手習いというほどでもないですね。でも、見よう見まねでも何とかなるものですよ」

 謙遜して微笑んだ千鶴が、次の瞬間はっと目を見開く。よく表情が変わるのは彼女にとっては珍しいことでもないので、そのまま見つめていた。慌てた千鶴はおろおろと視線を上げ下げして、最終的にはすまなさそうに眉を下げた。続く言葉も想像がつく。同時に口を開けば台詞を重ねるのも難しくはないだろう。ぐるぐると包帯を巻き取りながら、静かに彼女の口が開くのを待った。

「やっぱり、私の仕立てでは……その、きちんとしたところで作って頂いたほうがいいかもしれません」
「そこまで手をつけているのに、か?」
「す、すみません……」

 からかいを含んだ口調でいらえを返せば、千鶴は顔を赤くして恥じ入っている。ほうっておけばしょげていくばかりだろう彼女へ、声を立てて笑ってみせた。くるくると包帯を巻く手は止まらず、行灯の炎も絶えず揺らめいている。

「君に任せたんだ。無理なら止めて構わない。出来るなら、頼む」
「でも……」
「俺の目にはよく出来ているように見える。……楽しみにしていたんだがな。君がどうしても無理だというなら、諦めよう」
「え?」

 洗ったところで落ちないしみが残ってしまっているものもある。巻いていた包帯を裁ちばさみで切り、長さの短いものは別の山に取り分けて再び巻いていく。きょとんとしたまま手が止まっている千鶴へちらと視線を投げて、すぐに包帯の山へと目を向けた。

「包帯を巻くくらい、ここでなくても出来る。君と時間を合わせる必要もない」

 二日連続でこうして同じ部屋に介していたが、それ自体は別段珍しいことではなかった。
 山崎は屯所を空けることも多いが、その代わり屯所にいる間は自由が利く。その自由も医療担当として与えられた役目が全う出来るよう、今は勉学に励んでいることが多い。時間が合えば千鶴と共に筆を取り、互いの知識を摺り合わせていた。彼女は医者でもなく、その知識も聞きかじりのものだ。同様に、山崎自身も医者ではないし応急処置以上のことは出来なかった。まさしく互いに手探りである。
 隊のためになることでもあり、興味がない訳でもないから医学の勉強は苦ではなかった。それでも、ただ一人で誰に請うこともなく黙々とするよりはずっと有意義だと感じていた。松本の元から戻るときも、一刻も早く身につけて彼女にも教えなくてはと思うと心が急いた。

「無理をさせるつもりはないんだ。だから、嫌なら止めて構わない」

 やんわりと目を細めて、千鶴の膝の上に広がった反物へ目を落とす。視線を追った千鶴は、先ほどとは別の意味で頬を染めながら唇を噛んでいる。
 いじらしいではないか。
 貰った反物を、わざわざ着物に仕立てようとしてくれたのだ。日頃世話になっているであろう幹部の者を差し置いて、「山崎さんさえ良ければ、作らせてもらえませんか」と千鶴は言った。まぶしい夕日が差し込んでいた、薬の臭いがしみついた屯所の一室で、山崎は千鶴の真っ赤に染まった顔を見ながら大いに呆れたのだ。
 頷く以外、返答がないではないかと。

「や……」

 呻くような千鶴の声に顔をあげれば、少し責めるような色を含んだ目がじっと山崎を見返している。吸い込まれそうな、とはよく言ったものだ。惹かれてやまないのは、彼女が大切な仲間であり、それ以外の何者かになっているからなのだろう。

「やります。嫌なんかじゃありませんし、無理でもありませんから」

 ややむくれた様子でそういう千鶴の顔は、夕日も何もない部屋の中でも赤く染まっている。じりじりと行灯の炎が揺れて、額に掛かる影が小さく揺れていた。
 巻き終わった山のほうが多くなった包帯の、残りの幾つかを手に腰を上げる。座ったままの千鶴を見下ろせば、やはり、彼女は頼りなく小さかった。

「それなら、もう少しそばで見てもいいか?」
「え? は、はい……どうぞ」

 了承に頷きを返して千鶴の隣に腰を下ろす。先ほどまで山崎と千鶴を遮っていた行灯を片手で押しやって、暖かな彼女に身を預けた。着物越しに触れ合う腕から伝わる熱が、平熱より高いことには互いが感づいているだろう。
 背には壁、右手に灯り、左は千鶴と触れ合っている。
 微動だにしない千鶴を覗き込んで、少し、後悔した。

「や、まざき、さん……」

 気恥ずかしさからか、あるいは少ない光源が瞳を包むわずかな水気をやたらに煌かせているせいか。どちらにしろ、好いた女にさせる顔ではなかった。寄り添ったまま見せる顔ではないし、見てはいけない顔だ。
 そのまま下から掬い上げるように唇を重ね、啄ばみながら焦点が合わないほどの近さで彼女の顔を見る。朱に染まる頬はそのままに、口付けの気配と共に閉じられた瞼はわずかに震えていた。
 やがて唇を離すと、やり場のなくなった視線を行灯へと差し向ける。いよいよ危なげな炎は絶えず揺らめいて、床に伸びる二人の影も濃淡さえ一定でない。けれど二人して気付いているはずのそれを、どちらも指摘しないまま黙っていた。

「君には他にもやることがあるだろう。あまり根を詰めないように」
「……はい」
「それから、これはとても重要なことなんだが」

 ぐるぐる、再び包帯を巻きながら山崎は重苦しいため息を吐く。

「幹部の方には絶対に知られないように。君の部屋ではなく、ここにいるときだけにして欲しい」
「それなら随分時間が掛かってしまいますけど……」
「構わない。とにかく、くれぐれも見つからないように」
「分かりました」

 隊規には触れないだろう。「個人的に着物を縫うな」などという法度はないし、そもそも彼女は隊士ではない。ただ、それでも知られればただでは済むまい。からかわれるならいいが、制裁が入るようなら命がいくつあっても足りやしない。出来ることなら彼女の治療を受けるような羽目にだけはなりたくなかった。
 どうして秘密にしろと言うのか、本当のところは千鶴には理解出来ていないのだろう。どうして山崎が「ここにいるときだけ」と限定したのか、それさえ気付いていないに違いない。

「明日は午前中が少し空くんですけど、山崎さんは何かご予定がありますか?」
「昼から少し出る。それまでなら」
「それじゃあ、お掃除とお洗濯が終わったらまた来ますね」
「分かった」

 寄り添ったままではやり難かろうに、千鶴はほんのりと頬を上気させたまま、また針を進めていく。すいすいと繕われていく布地を眺めながら、山崎はさて困ったとため息を飲み込んだ。
 薬も包帯も、今夜中には用意が出来てしまう。昼からの外出は足りない備品の買い増しで、それを整理するという名目は当然午前中には使えない。勉強の続きならいくらでも出来るだろう。だが、勉強する山崎と針仕事をしている千鶴が薬部屋に二人で篭らなければいけない理由とはなんだろう。幹部の皆々様を納得させて締め出せるだけの説明は可能だろうか。

「……参ったな」
「どうかしました?」
「いや」

 どうしたら君といられるか考えていた、と出る前に口を閉ざす。これではまるで口説いているようだ。実際は、口説くどころか手を出してさえいるのに。いや、まだ一線は越えていないのだから、出したのは口だけで。しかしそれでも手を出しているといえばいるわけで――
 悩ましい問題はいくつもあったが、ひとまずため息に押し込んで静かな部屋に打ち上げた。ため息は幸せを逃がすというから、失ったものを埋めるよう千鶴へ身を寄せる。気遣うような千鶴の声を聞きながら、やがて浅い眠りへと落ちていった。







(10.07.05.)