君の此岸にひとはなを





 裏切りを考えるとき、最も恐れるのは何か。
 今の土方ならば、思いも寄らぬところからの裏切りだと答えるだろう。




「考えもしませんでしたよね。たとえ誰かがあの子を連れ出すとしても、僕は左之さんあたりだと思ってたんですけど」
「……まだ、そうと決まった訳じゃねえだろう」
「そうですけど、そうだったほうが面白いじゃないですか」

 夜の京を駆け抜ける沖田の目が、物騒な色に染まっていた。ちらと振り返ってうんざりした土方は、前へ向き直り口を噤む。万が一を思って連れてきた人選は間違いだったのかもしれない。

 秋が深まり紅葉の色鮮やかな京も、夜ともなれば一転冬の気配を如実に現し、その寒さは骨身に染みた。布団の上掛けをもう一枚用意するべきかと押入れを前に思案した土方の下へ、千鶴の失踪を告げに来たのが沖田だった。すわ鬼に攫われたかと顔色を変えた土方へ、意味深に笑んだ沖田が鯉口を切る。まばゆい月明かりを背に、沖田はそれこそ童心に返ったように朗らかな笑顔で首を傾げた。

「斎藤君が連れ出したみたいなんです。追っても構いませんよね?」

 事実上軟禁状態だった千鶴だが、彼女が身を置くようになった事情が事情故のことであって、今となっては土方らにとっても不本意なものとなっていた。だが、新選組と親しいのだと既に顔が割れている千鶴に単独行動を許せば彼女自身の身の危険もありえる話で、今現在も千鶴は一人での外出を許されていない。
 出掛けるときは必ず彼女の本当の性を知る者が傍近くについていた。一人で買い出しに行かせたよう見せかけたときもあったが、それだって内密に監察方の者をつけていた。軟禁自体は千鶴も了承していることだ。迷惑をかけたくはないと、千鶴が進んで屯所へ残ろうとすることもままあった。不自由をさせることに歯がゆく思うことはあるが、しかし。
 斎藤一はひどく真面目な男だ。土方をやや妄信しすぎているきらいはあったが、これと決めたことを黙して貫ける、大層義理堅い男だった。隊務も実に堅実にこなし、誰彼のようにふざけて大騒ぎすることもない。ならばと千鶴の世話は当初より斎藤に任せきりで、根が真面目なもの同士気が合うのか、千鶴も斎藤にはよく懐いているようだった。
 斎藤が千鶴を用心深く見ていたのはいつまでだったのか、今となっては分からない。千鶴は何かあれば斎藤を頼り、斎藤もそれに必ず応えていた。愛想がいいとは言えない斎藤のそばで、よく千鶴は笑っていた。過ごした時の長さだけ、情も深まったのだろう。斎藤が、ひどく穏やかな顔をしているのを見かけたことも何度かあった。
 それでも構わないと思っていた。斎藤も千鶴も、普段からよくやってくれている。薩長の動きのみならず頭の痛いことの多い土方らにとっては、世話役が世話を焼くことに何ら不審を抱くことはなかったのである。
 千鶴は実によい娘で、「そういうこと」になる可能性を考えなかった訳ではないが、今すぐどうにかなるとは思っていなかった。まして忠勤を尽くす斎藤が、である。まったく予想の範疇外だ。そも、彼は色事への興味が薄いようだと理解していたのだが。
 まさか、斎藤が千鶴と駆け落ちするなどとは思いも寄らぬことだった。

「それで? どこか心当たりでもあるんですか、土方さん」
「……いいから、おまえは周りをよく見ていろ」
「この隙に時間稼ぎをしてあげてる、なんてことはないですよね」

 沖田の目は宵闇の中らんらんと輝いている。沖田の本意は概ね斎藤へ本気の刃を向ける格好の機会を得たことによるのだろう。隊規により私闘は厳禁、手合わせはあっても命の取り合いは許されない。
 だが、土方は斎藤を始末するために沖田を連れ出したわけではない。放っておくと危ない気がしたがために随従を命じたのだ。
 背後をつかず離れず駆ける沖田は「ねえ土方さん」と再び軽口を叩く。終始楽しそうでありながら、実に冷え冷えとした声音であった。

「助け出したら、千鶴ちゃんには誰か護衛でもつけさせたほうがいいのかもしれませんね」
「『助け出す』?」
「だって、同意の上じゃないでしょう?」

 底知れぬ寒気を感じ、駆ける足を緩めて振り返れば沖田はそれに合わせて足を止める。肌寒い秋風が吹き抜け、月明かりが沖田の冷えた眼差しに色をつけていた。

「あの子が何故僕らのところにいるか、忘れたんですか? 綱道さんは見つかってない。監察方が血眼になって探しても、です。あの子は綱道さんを慕ってる。命の危険も顧みず、あの歳で、江戸からここまで単身探しに来るほどにね」
「斎藤が無理に連れ出したって言うのか」
「屯所から逃げ出すようには思えません。僕らが必ず見つけて殺しに来るって、あの子もよく分かっているはずです」

 千鶴が屯所で過ごすようになってからも、脱走者や隊規破りへの罰は変わらず実行された。体罰で済めば儲けもの、実際は入牢や斬首に処せられる者もいる。捕らえた浪士の口を割るための拷問も行っていた。それらは直接千鶴の目に触れぬよう限りなく注意深く行われていた。外で噂話を聞いてしまうことはあっただろうが、拷問中は必ず幹部が一人は千鶴の傍についていた。場所も屯所の入り口を出た敷地の端であるし、断末魔の悲鳴を聞き届けるようなことはなかったはずである。
 しかし、それでも千鶴はよくよく理解していた。千鶴とて、当初の約束を違えれば殺される身の上だと。
 今現在幹部たちは千鶴に心を砕き、和やかな関係が続いている。それは土方とて同じことだ。細々と働き、土方の体調を気遣っては茶を運んだり気分転換を提案したりと、本当に小姓らしい千鶴には感謝の念も抱いている。
 それでも、やはり千鶴が自分の意思で脱走したのなら、殺さねばならない。それが規律を守るということであり、新選組に関わったが故にいつ何時身の危険が及ぶか分からない千鶴のため、手を下してやるという誠。
 月夜を見上げた沖田が深呼吸をし、吐いた息は白く煙って立ち上る。
 覚悟があっても、やり切れぬ夜だった。

「脱走なら、切腹だ。斎藤も、それは分かってるだろう」
「……僕は別に、斎藤君を殺したい訳じゃない。千鶴ちゃんも」

 ふ、と吐いたため息と共にかぶりを振った沖田は、暗闇に沈んだ京の山々を眺め瞑目した。

「かすみの山の、あわいの夢。異路つれづれに、色つれる」
「……なんだ、そりゃあ」

 聞き覚えのない歌に眉をひそめれば、沖田はゆるりと笑って肩を竦めた。

「千鶴ちゃんと言葉遊びをしたんです。掛け言葉で」

 霞は春、秋は霧である。霞む春の山の間(あわい)に見る、淡い夢。誰彼が辿るいくつもの異路(いろ)は、木々や花々のたくさんの色に彩られている。
 屯所に閉じこもることの多い千鶴にとっては、身近な季節は遠く見える山の色の移り変わりが一番分かりやすいものだったのかもしれない。春の山の景色を夢想した千鶴がどんな想いであったか、土方には分からなかった。
 目を開いた沖田がもう一度ため息をつく。手を刀に掛け、「行きましょう」と暗い先を見る。

「――総司」

 踵を返す沖田を、土方は呼び止めた。怪訝そうに首を傾げた沖田の暗い眼差しに、屯所を出て幾ばくか、可能性として抱いていた予想が確信に変わる。

「その場に、斎藤もいたんじゃねえのか?」




 心当たりはあった。脱走かそうでないかは分からなかったが、旗本を斬り京へ来た斎藤に行く当てがあるとは思えない。千鶴の江戸の家が妥当であるが、それではすぐに足がつく。身を寄せる地はともかく、二人が真っ先に足を向ける場所はと考えたとき、そこが思い浮かんだ。先ほどの沖田の話も、なるほどと思える。
 京の小山を静かに登っていく。足音を立てぬよう細心の注意を払い、ゆっくりと天頂を目指した。さくさくとくすんだ草木を踏みしめて登る土方の背を黙って追っていた沖田が、不意に足を速める。土方を追い越し、それでも気配を巧妙に消したまま駆け上ると、開けた場所に出る寸前で大樹の陰に身を隠した。驚きに愕然とする沖田の横顔を見、土方もまた木々の陰に膝をついた。

 小高い丘の上は、京の町を見下ろす景観を有している。林立する木々は、この頂に限ってわずか平地を晒していた。夏、鮮やかだった緑も今はくすみ、黄や朱、茶に染まり地を埋め尽くしている。
 並んで立ち尽くす二人――斎藤と千鶴は、黙したままじっと広がる風景を目に焼き付けていた。微動だにせず、ただ食い入るように見つめている。寄り添うでもなく、拒むでもなく、二人の間には言い得ぬ距離があった。
 舞い落ちたのは木の葉だけではない。白と淡い桃色が一足早い雪のように舞っていた。

 夜空の下、季節はずれの桜が咲いている。子福桜という、その冬桜の名を斎藤は知らないだろう。桃色に咲く寒木瓜(かんぼけ)の、溶けそうに淡い色は千鶴の着物の色味を髣髴とさせた。肌寒い風が木の葉を落とした枝先に咲く花を揺らし、二人のまなこを捉えて離さない。千鶴の震える吐息が、細く白く、夜気に溶けて消えた。

「――ありがとう、ございます」

 泣き濡れた声が、木立の影、息を潜めて隠れる土方らの元まで届く。言葉にならず、続くささやかな啜り泣きに視線を落とす。どちらかの歩みよる足音に、息苦しさを覚えた。

「顔を上げろ。……千鶴」

 啜り泣きが止まり、ざあと吹いた風が落ち葉を鳴らす。再度聞きとめた吐息には、どこか笑みが含まれていた。
 音もなく立ち上がり沖田を見れば、口を閉ざしたままじっと二人を見つめている。木立の影にあって、沖田の瞳は色濃い影を落としている。不機嫌そうな口元が、彼の内心を如実に表していた。

「おめでとう」

 囁くようにひそめられた言葉で視線を二人に戻す。再びゆるく吹いた風に夜空を見上げた斎藤は、彼の白い襟巻きで千鶴の肩を包んだ。月明かりの下、言葉を失ったまま斎藤を見つめていた千鶴の頬に躊躇いがちな指先が触れる。
 伝う涙を拭いながら、斎藤は何事か呟く。離れた土方らの下へは、その言葉は届かない。涙に濡れた千鶴の目が、月光を受けて輝きながら揺れるのを、息を殺して見つめていた。

 生真面目な斎藤が、隊規に触れぬ昼でなく危険を冒してまで夜を選んだ理由。それを、千鶴は正しく理解していた。頬に触れた無骨な手を取り、祈るように額を寄せて泣いている。斎藤はその姿をじっと見下ろし、やがて空いた手で頭を撫でた。頬に触れたときと同様に恐々と、けれど確かな想いを乗せた指先が、千鶴の黒髪を梳いていた。




「早く帰って早く寝て、朝一番で近藤さんに相談しなきゃ」

 山を下り、街中に差し掛かると先を歩いていた沖田がそうぼやいた。どこか息巻く風であるが、土方の手前、それを隠しているつもりらしい。沖田の呟きに、「そうだな」と返して土方も嘆息した。ぐるりと脳内で算段を企てていたのは二人揃って同じ目的故なのだろう。少し驚いた様子で振り返った沖田へ肩を竦め、苦い表情で吐き捨てる。

「あっちが花見なら、こっちは紅葉狩りでもやってやらぁ」
「……じゃあ、僕は花より団子にしようかな」

 にやと笑った沖田へ同じく不敵な笑みを返し、足早に屯所を目指す。
 あちらが夜ならこちらは昼だ。千鶴には肌寒い夜より陽の光差す午後が似合っている。賑やかで心和む時を、出遅れた分を補って余りある笑いを、たんと用意してやろうではないか。
 それと告げねば問題ない。隊士の慰労でも誰かの思いつきでも、大義名分などいくらでも作り出せる。京に潜む浪士どもが震えて恐れる新選組副長と一番組組長が、珍しくも戦場以外で協力し合うのだ。平助や原田、永倉らにも手伝わせれば、今宵に負けず劣らずの祝宴が開けるに違いない。

「一君に何か指示出しといてくださいよ、『副長』」
「物置の掃除でもさせりゃいいだろ。ついでに重箱でも探させときゃあ都合がいい」

 早足は駆け足となり、夜の闇を抜けていく。後ろへ流れて消えていく白い呼気を、妙に躍る心で見送った。

 花の色のとりどりはなくとも、六、七人も集まれば鮮やかな弁当なり贈り物なりが花を添える。春待ちの紅一点に話を咲かせ、秋風に負けぬ祝いとしよう。日々の煩わしさから一時掬い上げてくれる彼女の笑顔に、この一日を捧げるのだ。
 千鶴と共に迎える日常を皆が心中どう名づけていることか、きっと彼女は知らない。その名をはっきりと告げる日は、おそらく土方には来ないだろう。

 おいそれと口に出せぬ、千鶴のいる今日。
 人は名を、安らぎと呼ぶ。





君の此岸に 一花を / 陽と花を / 人は名を(10.11.19.)