乞い煩い





「……何してるの?」

 おそらく見たままだろうと思いながらも沖田が敢えて問えば、真っ青になって慌てる千鶴を一瞥した斎藤は深いため息をついた。しゃがみ込んだ二人の間には、まるまると育った三毛猫の姿。
 不意に思い出したのは、まだ千鶴が新選組に身を置くようになってから間もない頃、屯所に迷い込んできた一匹の猫のことだった。




 屯所裏より場所を移し、沖田総司の私室にて。
 綿入れを羽織らされ千鶴の淹れた茶を啜りながら、沖田は「ふうん」とさながら猫のように目を細めた。沖田の傍で今度は斎藤の分の茶を入れている千鶴と、猫を膝に乗せたままむっすりと黙り込んでいる斎藤へ目を向けると、盆に置かれた茶筒を手にもてあそびながら笑みを深める。

「じゃあ、あれからずう〜っと、二人で面倒見てたんだ。確かに屯所の中で野良猫は何度か見たし、その子も見たかもしれないけど、まさか飼ってるとは思わなかったよ」
「……しばらく面倒を見るだけのつもりだったのだがな」
「猫は家につくっていうけど、二回の引越しにもついてきたんだね」

 からかうような口調で言う沖田は言い逃れをよしとはせず、徹底的にからかう気でいた。長く御陵衛士として屯所を離れていた斎藤が戻って以来、沖田が臥せっていることもあってこうした他愛ない話をする時間をもつことも随分なかったことだ。だからなのかは分からないが、沖田は上機嫌に茶を啜る。
 膝に乗せた猫の背を撫でる斎藤は、やや諦めた様子で肩をすくめた。

「西本願寺へ移るときはこいつが怪我をしていた。それを放り出す訳にはいかぬだろう」
「じゃあここへ移るときは? あのとき一君はいなかったんじゃなかったっけ」

 西本願寺が不動堂村への移転話を切り出したのは、千鶴を狙って鬼の襲撃があった後のことだ。そのときにはもう衛士として斎藤は新選組を離れていたはず。屯所が移転したこと自体は斎藤ももちろん知っていたのだろうが、引越しの荷造りには当然参加していない。沖田も私室の片付けは千鶴に任せきりだったが、そもそも新選組にいなかった斎藤が、密偵の最中に猫の移動のためだけに戻るとは到底考えられなかった。
 沖田が首をかしげると、斎藤はちらと視線を千鶴へと差し向ける。ちょうど茶を淹れ終えた千鶴は、斎藤の視線を受けて沖田へと居住まいを正した。

「私が連れてきたんです。お腹に赤ちゃんがいたので、心配で……」
「え、なに、屯所で増えちゃったわけ?」
「も、貰い手はみんな見つけましたよ!」

 巡察の合間に綱道のことを聞きながら、加えて子猫の貰い手も探していたらしい。猫の妊娠期間は二月ほどであるから、子が出来たと気付いてからでも何とかなったのだという。頼りの斎藤が衛士として抜けた後のことだ、隠し通すのにもさぞ苦労しただろう。沖田が以前ほど出歩かなくなった頃のことだから、つつく人間がいなかったのも幸いだったのかもしれない。もっとも、察しのいいどこぞの監察が嗅ぎ付けて、敢えて口止めしていたのかもしれないが。
 ともあれ、そんな事情でその三毛猫は今の今まで新選組についてきてしまっていたらしい。沖田が前線を離れ、山南と平助は死亡扱い、斎藤は間者働きの後始末としてこれからしばらくまた屯所を離れる身。残る幹部はまさに猫の手も借りたいくらいだろうが、本物の猫がいるのは困りものだ。最近は千鶴も忙しくしているし、隠したまま世話を続けるのは難しい。もしまた怪我をしたり子を宿すようなことがあっても、気を回してやれる者がいないのだ。

「今更捨てたところで、野良としてやっていけるとは思えん。それで、以前子猫を貰い受けてくれた者に頼んで、こいつを飼ってもらうことにした」
「今夜、斎藤さんにこの子を連れて行ってもらうので、それでお別れを……」
「なるほどね。それであんなところにしゃがみこんでたの」

 切なげな顔でこそこそしているからてっきり逢引か何かかと思っていた沖田は、納得したような呆れたような、何とも言いがたい心地で頷いた。
 斎藤は今晩から再び屯所を離れ、今度は天満屋という旅籠にて護衛の任に着く。斎藤が密命を受けて御陵衛士に潜伏していたことは隊士たちには伏せられているために、隊内で裏切り者とそしられているのだ。ほとぼりが冷めるまではと遠ざけられる訳だが、その出立のついでに猫を預けに行く算段らしい。長く面倒を見てきた二人――特に千鶴はすっかり情が移ってしまっているようで、寂しそうに猫を見つめていた。
 彼女は隊士ではない身故になかなか厄介な立場であり、結局今に至っても父親の消息は知れぬまま、馴染みの隊士は日向に出られなくなり、訳の分からない連中にその身を狙われ、実に気の休まらない生活だ。物言わぬ動物に触れることで癒されることもあったのだろう。
 さすがにからかう気にもなれず、湯飲みを傾け舐めるように茶を飲み干す。ゆっくりと猫を撫でている斎藤も、ちらと千鶴に目をやって、猫より彼女を気遣っている様子だ。長く面倒を見てきたのは斎藤も同じことだろうが、斎藤にとっては猫よりも千鶴の面倒を見ていた時間のほうが長いし、より情も移ってしまっているだろう。こうして手をこまねいてぼんやりしている沖田とて、かわいそうだと哀れむくらいには情がある。
 ――正直なところ、以前までの自分ならからかって追い掛け回したりしていただろう。今は、それが出来ないからしていないだけに過ぎない。巡察の帰りに寄り道に誘ってやったり、非番の日に連れ出してやったり。これまでなら出来ていたことが、今は出来ない。屯所を離れる斎藤も、きっと同じようなことを考えているのだろう。彼に至っては、しばらくは千鶴と顔を合わせることさえ出来ないのだ。
 はあ、とため息をついた沖田は布団に身を横たえながら猫を眺めた。沖田の動きに気付いた千鶴が上掛けを整える様が視界に移り、余計に歯がゆさが募る。
 千鶴が屯所に来た頃は、面倒を見ていたのは沖田たちだったはずだ。それが今では、土方の手伝いも沖田の看病も、屯所の雑用も何から何まで彼女の手を借りている。土方が千鶴を沖田の看病に充てたのは、決して医学の知識があるからというだけではない。病床の身内の傍に置いても、彼女なら安心だという信用があるからだ。けれど今、その信用に報いてくれている彼女を慰められる手立てがない。
 口に出すことこそないが、今更彼女を斬るようなことにはならないだろう。万が一そんな事態になれば、おそらく隊が割れる。埋められない溝が出来てしまう。そんな想像が安易につくほど、千鶴は新選組に深く関わり過ぎてしまった。彼女自身には悟られぬよう当初からの建前を貫いてはいるけれど、きっと皆が気付いている。千鶴は、今更何の関係もない他人だと放り出せるような存在ではないのだ。
 床に就いた沖田は布団の中からそろりと手を伸ばし、再び猫を眺めている千鶴の袂をそっと摘む。その動きにいち早く気付いた斎藤の目をしばし見返して、ふと笑ってしまった。
 やっかいなものに捕まってしまったものだ。千鶴も、自分たちも。

「良かったね、千鶴ちゃん」

 くいと袂を引いてそう言えば、千鶴は少し困ったような笑顔で笑った。きちんとした飼い主が見つかったのは喜ばしいけれど、やっぱり寂しい――そんなところだろう。
 沖田は構わず続ける。指先で摘んだ袂を手の中に握りこんで、決して離さぬよう、ぎゅっと力を込めた。

「その子、これから自分の子どもと暮らせるんでしょ? 君が見つけてきた飼い主なら、きっと君とおんなじようにお人よしなんだろうしね」

 だからきっと、幸せに暮らせるよ。
 そう続けた沖田は、じりじりと胸にこみ上げる罪悪感を飲み込んで笑顔を差し向けた。こう言えば、千鶴は自分の寂しさよりも猫の幸せに目を向けるだろう。彼女は人一倍お人よしで、誰かのために優しくなれる人間だ。沖田が下手な慰めをしていることだって、無意識に悟ってしまうかもしれない。とにかく、回りに気を使う性分だ。きっと明日からは何事もなかったように振舞って見せるに違いない。そうと知っていて、こんな台詞しか言えない己が身が呪わしく思える。歯がゆいと思う。それさえ、千鶴には悟られてしまいそうな気がした。
 斎藤とて、現状のまま隊を離れるのは気がかりなはずだ。相変わらず人手不足は解消しないままであるし、おそらく、沖田の容体も気になっているのだろう。無駄口を叩かない彼の心情が、同じく黙したままであるとは思わない。言えず隠した言葉の何倍も気を回している。そんな男だ。
 そんなことを考えながら引いた袂を手慰みにしていると、沖田と千鶴のやりとりを見守っていた斎藤が猫を眺めたまま小さく笑みを浮かべた。

「屯所で見つけたときは痩せて小さかったが、よくここまで育ったものだ。二度も住処を変え、いずれも新選組の屯所だというのだから、こいつは相当肝が座っているのだろうな」
「そうですね……。怪我はしましたけど、病気はしなかったですもんね。いつも元気でいてくれて……」
「元気で逞しいなら、千鶴ちゃんに似たんじゃない? ほら、産みの親より育ての親っていうし」
「わ、私ですか?」
「……少し危なっかしいところも、似ているのかも知れんな」
「ええっ!?」

 思わぬところから同意の声が上がってしまった千鶴は目を丸くして斎藤を見るが、対する斎藤は涼しい顔だ。横になったまま肩を揺らして笑う沖田は、ああ、と感嘆の息を漏らす。全くどうして、斎藤の言うとおりだ。
 言わんとするところを察した沖田がやれやれと斎藤を見るも、そ知らぬ顔で千鶴と言葉を交わしている。何だかずるいような気がして――けれど、もしかしたらそれは斎藤も同じ心地かと考え直す。互いに、千鶴へしてやれることは少ないのだから、行き届く範囲で手を打つのが妥当なのだろう。
 会話の合間に大きく息を吐いた斎藤が、仕舞いとばかりに目を瞑った。沖田は改めて袂を捉えると、小さく引く。なるほど、袂の引くを縋ると言うのは、確かに正しいのかもしれなかった。

「こっそり飼ってたことは内緒にしてあげるから、明日からその子の話、聞かせてよ」

 それなら、一人で寂しい思いをすることはないだろうから。
 せめて少しでも緩やかに、優しい思い出になるように。
 陰りが少し鳴りを潜めた様子の千鶴を、二対の瞳が見つめている。いつか彼女もこの猫のように、ここを離れる時が来るのかもしれない。そのとき沖田は、あるいは斎藤は、果たして今と同じく慰める側にいるだろうか。これほど否定しやすい問いかけも、そうはないだろう。
 素直に「はい」と頷いた千鶴にやんわりと笑みを返しながら、胸のつかえに目を細める。
 いつかこの遣る瀬無さが別の想いに変わるとき、どうかそれが愛おしさであるように。らしくないと思うより強く、そう願っていた。





こいわずらい(10.07.13.)