ねえ、夜はこれから





 じっとりと汗ばむ夏の夜。それでも夜半にはいくらか気温も下がり、ゆるく風が吹けば涼しさも感じる。団扇や扇子で扇ぐのもいいが、汗ばんだ肌に夜風があたり、汗が引くのと共に身体の熱が逃げていくのも悪くない。
 そんな、夜の小さな楽しみに気付いたのは屯所を不動堂村へ移して最初の夏だった。
 澄んだ夏の夜空には今夜も大きな月が昇っている。夜目が利かない者でも安心して出歩けるような月の明るさの話題にも花は咲き、障子ごしに月明かりを受ける小さく灯りのない部屋で、今宵も相馬は少女の笑顔を見つめている。
 相馬の先輩にあたる雪村千鶴――新選組で唯一の女性である彼女は、公私ともに相馬の良き理解者であり、敬愛する女性だ。実年齢よりも幼く見える色白の面立ちに、下ろした長い黒髪がちらちらと影を作っている。誠実で芯のあるしっかりとした女性ではあるが、まだ少女が背伸びをしたような、境界立つ危うさがあった。不意に幼い童のような愛らしい仕草もすれば、息を呑むほど美しい艶やかさを感じることもある。
 相馬がもう少し風流の分かる者であれば、彼女のそんな様を朝露に濡れる花蕾とでも表せただろうか。慈しんで見守りたい愛らしさと、他の者に見つからぬうちにこの手で摘み取ってしまいたいと惑わせる妖しさ。まるで毒のようだ。色恋が人を盲目にさせるのは、この毒にあてられたせいか。
 薄暗がりの中で、相馬の手は千鶴のほっそりとした指先を捉えている。互いのぬくもりを分け合うように、このささやかな繋がりは夜毎繰り返される。何度触れても、指先から感じる痺れるような心地には慣れることがない。慣れないのに、脳髄まで蕩けるような心地だった。呼吸の仕方さえ忘れるほどの強い酩酊状態の中、相馬は千鶴と他愛ない言葉を交わす。味わっている感覚とはまるで掛け離れた、穏やかで、ささやかで、おそろしく清らかな日常の話が続く。
 己の唇が勝手に話を紡ぐのを聞きながら、相馬はただ、じっと千鶴を見つめ続ける。千鶴の大きな瞳もまた、間近で相馬を見つめている。千鶴がそうであるように、彼女の部屋もまた、危うい境界の上にあった。
「そうだ。あのね、相馬君が摘んできてくれたお花、押し花にしたの。きっと明日には出来上がると思う」
「押し花ですか。いいですね、出来たらぜひ見せてください」
「うん。あのお花、小さくて可愛らしかったよね。私、すごく嬉しかった……」
 河原で見かけた小さな野の花を、千鶴はこうして頬を染めて喜んでくれる。気の利いたことなど思いつきもしない相馬の精いっぱいの想いを、それ以上の価値あるものに変えて受け取ってくれる。少女の喜ぶ顔が見たいがために、相馬は何度となく小さな花を持ち帰った。小さな命を摘み取る罪悪感などあろうはずもない。千鶴が微笑んでくれるなら、何だって良かった。
 ささやかな話題は途切れ、しばしの沈黙が落ちる。小さく薄暗い部屋の中、寄り添うように向き合っている二人の視線は繋がれた指先に注がれた。絡み合っているわけではない。千鶴の指先を、相馬の手がそっと握っている。それだけだ。千鶴が手を引けば容易く抜け出せるだろうし、相馬が身を引けばそれもまた簡単に別たれる、やわな繋がり。
 相馬は、親指の腹で小さく細い、千鶴の指先をそうっとなぞった。指先に向けてゆっくりと滑らせる。薄く柔らかい皮膚と、その下の骨をなぞるような感覚。それから、爪。縦に長い千鶴の美しい爪の形にすら感嘆する相馬は、言い得ぬ想いで胸がいっぱいになり、逃れるようにゆっくりと息を吐き出す。ため息はどこか恍惚として、普段なら恥じ入るほどのあからさまな色めきに、けれど今だけは二人とも気付かない。気付いているけれど気にならないのか、今この夜は許されているような気がするのか。
 もう一度、相馬は深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。そうしてこくんと唾を飲んだとき、不意に部屋の外からこちらへ近づいてくる気配を察知し、はっとして障子を見つめる。閉ざされたままの障子に、やがて辿り着いた足音が足を留めた。「雪村」と、低く抑えた声が千鶴を呼ぶ。繋いだままの手を通じて、千鶴が小さく震えるのを感じながら、相馬は障子をじっと見つめた。
「起きてるか? ……こっちに誰か来なかったか」
「……いえ、気付きませんでした」
「そうか。……悪かったな。おやすみ」
「はい、おやすみなさい。土方さん」
 ぎ、ぎ、と板張りの床をきしませて足音は遠ざかっていく。完全にその音が遠ざかるまで、身じろぎもせず障子を見つめていた。月明かりの差す方向が違っていれば、相馬はもうここにはいられなかったかもしれない。過去、既に千鶴とのことで軽率な行動を取るなと注意されている。
 再び静かな夜が戻ると、どちらともなくほっと安堵の息を吐いていた。この逢瀬が見咎められる類いのものであるとお互いに思っている何よりの証だ。それでも、二人の手は未だゆるく繋がったままでいる。
 名残惜しさと後ろ髪惹かれる想いは夜毎のことだ。このままこの息苦しいほどの甘い空気に呑まれ、身を委ねてしまいたい。募る想いを抑える己の手は、震えている。
「……では、おやすみなさい。雪村先輩」
 ぎゅう、と強く指先を握りこむ。渦巻く熱を千鶴へ渡すためか、あるいは彼女の仄かな温もりを己が身に沁み込ませるためか。切なる想いを忍ばせ、相馬はゆっくりと息を吐く。今宵は、これで。
「まっ……」
 そうして立ち上がろうとした相馬の指先を、小さな爪が掻いた。引き留めようとした細い指が、相馬の手からするりと抜け落ち――けれど、相馬は逃がさず強い力でその手を握り締める。
 咄嗟に出てしまった声に一番戸惑っているのは千鶴のようだった。動揺した小さな肩は可哀想なほど竦み上がって、身体は逃げ腰になっている。相馬の視線から逃れるように俯く千鶴の片手は、縋るようにきつく敷布を握り締めていた。
 相馬は、浮かしかけていた腰を下ろすと、這うように千鶴へ身を寄せる。布団の上で身を固くする千鶴の肩にかけただけの羽織を、肩に触れ、二の腕へ指を滑らせることで落とした。掴んだままの片手をそっと外し、けれど触れ合わせたまま滑らかな肌を辿っていく。腕の内側の皮膚はいっそう薄く、頼りなく、少しひんやりとして夢のように淡い心地だった。そうして肘の手前を掴むと、千鶴の手は反対に相馬の腕に沿っている。力なく小刻みに震えていた手は、縋るように相馬の腕を掴んだ。
 千鶴が息を呑む気配が耳元に届いたのは、右腕で彼女を抱き締めたからだ。薄く、温かい身体がぴったりと相馬の腕の中に納まっている。中腰になって近づいた相馬の膝の間に千鶴の腿があり、背に回した腕で、片方の肩に引っ掛かって残っていた羽織を布団の上へ落としてしまった。
 ふ、ふ、と必死に震えを抑えようとする千鶴の吐息が相馬の首筋に掛かっている。その弱々しい力なさに愛おしさは募る。身を寄せ、心の臓は鼓動を重ねようとしている。相馬の左腕、千鶴の右腕は互いに縋り合うように掴みあっている。
 相馬の鼻腔を掠めるのは、甘い匂いだ。草花や菓子、砂糖のそれではない。香でも、ましてや花売りの白粉でもない。千鶴の肌からのみ唯一香る、彼女自身の匂いだ。初めてそれを知ってしまった日から、相馬はこの甘い匂いの虜になっていたのかもしれない。決してまろい肢体ばかりを求めてはいないのだけれど――千鶴の優しさや誠実さ、まっすぐで眩しい性根、隊を思う慈愛の心――理由はどうあれ、今はもう髪の一本から爪先、匂い、その全てが相馬を惑わせる。
 ふ、と吐き出した息が千鶴の首筋を掠め、抱き締めた身体がびくんと跳ねる。ああ、可哀想に、と思う腕が、千鶴の背をゆるり、ゆるりと撫でて這う。殊更ゆっくりと蠢かせながら指先は千鶴の背をなぞり、脇腹を伝い、下りた先で丸みを帯びた柔らかな肉付きに行きあたった。掴まれた腕が、ぎゅっと握りしめられる。
「ま、待って……相馬、君……」
 這う手のひらから逃れようと仰け反る千鶴の身体が、相馬の胸に縋りついている。細い身体の、けれど確かなふくらみが二人の間で押しつぶされている。甘い匂いは、その胸元からも強く香った。
 震えてしがみ付いてくる千鶴の白く細い首筋が、障子ごしに差し込む月明かりに照らされ相馬の目を焼く。吸い寄せられるように顔を寄せると、髪の生え際から肩口へ、鼻先を滑らせた。
「ひっ……あ、あ……」
 がたがたと震える千鶴は、は、は、と乱れた吐息を零す。その身がじっとりと汗ばみ始めたのを感じながら、寝間着の背を掴んでぐっと後ろへ引いた。そうして少し覗いた肩へ、さらに鼻先を潜り込ませる。甘い香りは、寝間着の奥からむせかえるほど漂っていた。このまま全てを暴けば、きっとこの匂いに溺れることが出来る。
「は、あ……う、んっ……ふっ……ああ……はぁ……」
 相馬の呼気が千鶴の肌蹴た肩口から滑り込み、二度、三度と千鶴の身が震える。堪えて漏れ出る声は艶めかしく湿り気を帯び、徐々に力が抜けてきた身体はすっかり相馬の胸に身を任せ、ただただ震えるばかりだ。
 怯えの色は隠されることなく、相馬は疼く己が身を宥めるように再び鼻先を、唇を、白いうなじへ這わせていく。押し付けはしない。辿るだけで、ぞくぞくと愉悦が腹の底から沸き上がった。
「ま、って……あ……ああ……」
「気付いていますか、先輩」
 相馬は、己の声に喜色が満ちていると、音に出してようやく気付く。理性より先に、本能が悦びを感じている。ああ、そうか、とじわりじわり、幸福が満ちていく。
 耳の後ろ、髪の生え際に鼻先をうずめ、乾いた唇を首筋へ押し付ける。千鶴の身体がまた、ひくりと跳ねた。
「先輩、一度も、やめてって言っていませんよね」
 息を呑む音。何かを言おうとして、かちかちと歯が鳴っている。
 一度千鶴から身体を離すと、相馬はそっと千鶴の肩に手を掛ける。覗き込んだ瞳は濡れて、揺れている。上気した頬、薄く開いた唇。怯えた眼差しが、けれど助けを求めるように相馬をじっと見つめている。
 再び抱き締めると、そのままゆっくりと自分の身体で千鶴の身を押した。褥の上へ、千鶴の黒髪が広がる。
「あなたが嫌がることは絶対にしません」
 掴んでいた腕も、支えていた腕も、今はもう千鶴の顔の横で檻になっている。けれど押さえ込んでいるわけではない。最初から一度も、相馬は強い力で千鶴に触れたことなどない。
「俺は、あなたが好きですから」
 だから、と続ける相馬の下で、千鶴が熱に浮かされたかんばせをいやいやと左右に振る。むずかる子どものような仕草に微笑ましい想いすら抱きながら、相馬は千鶴の髪を、頬をなぞる。手のひらはすべり、辿り、指先が衿に掛かったところで止まった。温かなふくらみの合間で、千鶴の鼓動を感じる。
 千鶴の唇が、震えながら二度、三度と開いては閉じる。唾を飲み、短い呼吸を繰り返し、唇を少し噛んで――そうしてようやく千鶴が口にしたのは、先ほどと変わらない言葉だった。
「待って、お願い……」
「……はい、先輩。待ちます」
 そう言いながらも相馬の指先は衿に掛かり、ゆっくりと寛げようとしている。露わになった首筋へ再び顔を寄せ、乾いた唇と鼻先が透けるように白い肌と鎖骨をなぞった。
 胸元へ顔を寄せる相馬の肩を、千鶴の手が掴んでいた。拒むでも、受け入れるでもなく、ただ不安から逃れるように縋りつく小さな手はやはり震えている。
「そ、ま……くん……こわい、の……おねがい、まって……おねがい……」
「待ってます、先輩」
「ああ……お、おねがい……どうしたら、いいのか……わたし……」
 ぎゅうっと、強く、強く千鶴が縋りついてくる。肩を掴んでいた手はいつしか背へ回り、相馬は抱き寄せられていると気付く。小さく、愛らしく、甘く、やわらかなこの女性は、ただ一人、相馬を求めている。
 全身を駆け巡る甘ったるい悦楽に、知らず相馬の口は笑みを形作っていた。そうして、その口から漏れる言葉もまた、蕩けるように甘い。
「大丈夫です、雪村先輩。俺のことを考えていてください。ずっと、ずっと俺のことだけを……」
 寝間着の帯に指をかけると、呆気なくほどけてしまう。一層強く縋りついてくる千鶴と、顔をうずめた先から香る彼女の匂いに包まれながら、相馬は眼前の柔肌へと舌を伸ばす。噛みつきたくなる強烈な衝動を抑え、とうとう彼女を己の露で濡らしていく。
 強すぎる酩酊感に瞼を閉じると、ぐらりぐらりと眩暈を感じてきつく目を閉じた。


 厠から出て、手を洗った相馬は廊下の柱に頭を寄せて、深々とため息を吐いた。
 夢見は最悪だ。敬愛する先輩で手を汚すことになるなど、最悪以外の何ものでもない。自己嫌悪で腹を切りたくなる相馬がぎりぎり踏み止まったのは、もはや隠し切れぬほど膨れ上がっていた想いを自覚しつつあるからだった。もう、誤魔化しようもない。夢に見るほどとは、まだ気付きたくなかったけれど。
 だからといって甘んじて受け入れたり、あまつさえ喜んで思い返せるほど相馬は器用な男ではなかった。今はただ、千鶴への申し訳なさと自分の汚らしさに打ちのめされている。
 まだ夜は深く、どうにか気持ちを落ち着かせて部屋へ戻り、眠らなければ。そう思いはするのだけれども、なかなか重い気持ちと足は動かない。はあ、と重ねてため息が落ちた。
 夜風が吹き、視界の端で何か動く気配を感じて相馬は顔を上げた。灯りの落ちた廊下の向こう、月明かりに照らされて紙片がゆらゆらと揺れている。近づいてみれば、それは夕餉の後で千鶴や幹部たちが用意していた七夕飾りだった。永倉や原田が近くの竹やぶから拝借してきたという大きな竹に、短冊がいくつも吊るされている。千鶴に声を掛けられ、相馬も書いたのを覚えている。短冊には、隊士の無事と己の剣術の向上を願ったのだったか。
 他の者は健康であったり、相馬と同じく剣術の向上であったり、あるいはうまい酒が呑みたい、などというものもあった。武人の集まる新選組で、こんな行事が行われているのはなんだか不釣り合いな気もするが、千鶴がそこにいるだけで、こんなのもいいだろうと思われた。土方が許しているのも、きっとそういう理由なのだろう。その土方の短冊は上のほうに吊るされていて、案の定隊の更なる発展をと記されている。御陵衛士が抜け、隊内の不穏分子は一応治まったのだろうが、慣れ親しんだ斎藤や平助が抜けた痛手はまだ埋まっていない。その寂寥感を、この七夕飾りは覆い隠すように思われた。
 ふと、下のほうで揺れていた短冊に何か違和感を感じて手を伸ばす。庭に面した側へ隠すように吊るされた短冊には、見慣れた字で相馬の名前が書かれている。が、もちろん相馬の書いたものではない。
「相馬が、もっと雪村先輩と仲良くなれますように……?」
 口の中で読んだ相馬は、その内容にぎょっとして短冊から手を離す。ふわりと揺れて笹の中へ戻っていったその短冊を書いた主には、心当たりがあった。午後、もっとうまく千鶴の手伝いがしたいとそんな話をした相手だ。
「もっと先輩の気持ちに寄り添いたい、って……あの話のせいか……」
 込み上げてくる気恥ずかしさに、思わず「野村のやつ」と怨むような声が出てしまう。確かに千鶴ともっと親しくなれたなら、彼女に助けが必要なとき、いつでも必要な手助けが出来るだろうとは思う。心を寄り添わせることで、もっと千鶴を助けられると思う。
 しかし、だからといって叶えられた願いが先ほどの夢なのだとしたら、織姫や彦星の勘違いもはなはだしい。相馬が千鶴に近づきたいのは、決してああいうことをしたいがためではない。尊敬し、敬愛する彼女を己の欲で穢すことで、千鶴が悦ぶなど――そんな都合の良い話はないはずだ。
 何か、引っ掛かるような微妙な気持ちで笹飾りを見上げていた相馬の背後から、ぎっと床を踏む音が聞こえた。隠す様子も敵意もないその足音だけで、相手が誰かは窺い知れる。
 振り返った先で、千鶴が少し驚いてからにこりと微笑んでいた。
「こんばんは。相馬君も目が覚めちゃったの?」
「……はい、そんなところです」
 いやらしくあなたを組み敷いて貪る夢を見て飛び起きました、などと言えるはずもなく、相馬は寝間着姿の千鶴から目をそらして笹飾りを見つめる。そんな相馬の内心など知るはずもなく、千鶴は静かに歩み寄ると相馬の隣に並んで笹飾りを見上げた。
「今夜はずいぶん楽なほうだけど、暑くて寝苦しいよね」
「先輩、喉が渇いたんですか?」
「うん、お水を飲んできたところ」
 ふと見下ろした千鶴と、視線が合った。月明かりの下、薄い寝間着姿の千鶴の唇はしっとりと濡れている。ごくん、と喉が鳴る音で凝視している己に気付いた相馬は、慌てて千鶴から目をそらし、一歩下がった。
 どうしても、先ほどまで見ていた夢の内容が脳裏を掠める。ほんの少し前まで、相馬はこの優しい先輩を抱こうとしていたのだ。白い肌に唇を這わせ、やわらかなふくらみを指先で味わった。そうして彼女の甘い匂いを胸いっぱいに吸い込んで、それから――。
 ぶるぶると、思い切り頭を左右に振ると、相馬はため息ひとつで気持ちを無理やり抑えつける。勢いよく頭を下げると、逃げるように彼女に背を向けた。
「では、おやすみなさい先輩。遅くならない内に、先輩も部屋へ戻って――」
「まっ……」
 身をひるがえした相馬は、けれどそこから一歩も進めずにいた。相馬の寝間着の袖を、千鶴の小さな手が掴んでいる。振り返ってはいけないと思いながら、それでも、相馬の身体は知らず知らず、ゆっくりと千鶴へ向き直っていた。
 咄嗟に掴んでしまっただけなのだろう。恥ずかしそうに相馬の袖を離した千鶴が、胸の上で小さな手を握り合わせて視線を彷徨わせている。いじらしい仕草を相馬は食い入るように見つめた。
「ま、待って……あの、わたし……」
 自分で自分の想いを探すように、戸惑いながら千鶴は言葉を続ける。向かう相馬が、どんな目をしているかも気付かずに。
「もう少し、話がしたいの。……だめ、かな?」
「――構いません。雪村先輩がそう望むなら、俺は……」
 その答えに安堵した様子の千鶴は、相馬を見上げて嬉しそうに微笑む。やんわりと笑みを返しながら、相馬は再びぶり返してきた熱に浮かされるように言葉を紡いでいく。
「俺は、あなたが嫌がることは絶対にしません」
 だから、と。
 己の意志が果たしてそこにあったのかどうか、そのときの相馬にはもう、分からなかったけれど。肩を掴んだ相馬をきょとんと見上げた千鶴の瞳が自分だけを見つめていることに途方もない高揚を感じながら、相馬は、視線を彼女の向こう――千鶴の部屋へ向けて、唇を笑みの形に歪めた。
「夜はまだ、長いですから。ねえ、先輩」





(16.07.08.)