ひとつ、ふたつ、ひかる





 今日の撃剣師範は二番組組長の永倉が務めており、稽古は苛烈なものになった。沖田が師範を務める際も相当厳しく激しい指導がなされるが、徹底的に叩きのめしてくる沖田に比べれば、永倉の指導は厳しいながらも的確な助言が混じっている。豪気でカッとなることもままあるが、剣一筋に生きてきた永倉の指導は、まだ新人の域を出ない相馬たちにとってはずいぶんありがたいものだ。
 近藤付きの小姓であり、あまり巡察などには同行しない相馬が他の隊士と親交を深められるのは、稽古の時間が大きかった。稽古を終えた今、井戸端で汗を拭いながらへたり込む数人はそうして親しくなった隊士である。
「あー痛ってぇ……。でも、今日はちょっと褒められたんだぜ!」
「調子に乗ってすぐブッ叩かれてたじゃねえか」
「ひっでえアザ作って言うことかよ」
 笑い声の中心にいるのは、相馬と同時期に入隊した野村だ。賑やかだが気のいい男で、歳が近いこともあって相馬とはすぐに親しくなった。共に局長付き小姓となったのも、もちろん一因ではある。
 冬も間近かと思われる秋風に吹かれながら稽古を振り返り、剣術についてああでもない、こうでもない、と話しながら一休みする輪に交っていた相馬は、汗を拭った手拭いを首にかけてぼんやりと暮れかけた空を見上げた。
 京に来てまだ日は浅い。しかし充実している。野村と揃って正式に小姓へと取り立てられ、日々の何もかもが勉強に等しかった。ここにいれば相馬が求める武士の姿もはっきりと見えてくるだろう。そう確信が持てる。
 けれど、びゅうと強く風が吹くと不意に落ち着かない心地になった。雪村千鶴のことが過ったからだ。隊務や遣いで市中へ出ることもある相馬達とは違い、一般の隊士とさえあまり関わらずに新選組の奥で雑用や医療面に従事している土方の小姓。相馬と野村は小姓としての雑事は概ね千鶴に教わっていた。入隊したばかりの相馬達を気遣って何くれとなく親切にしてくれる良き先輩で、新選組の紅一点でもあった。――これはもちろん、秘中の秘、なのだが。
 朝会ったときに夕食の当番にあたっていると話していたから、今日の夕食は期待できる。江戸風の味付けは江戸に近い笠間藩出身の相馬にもありがたいものだ。近頃は当番を勝手に休んで放り出す隊士も出てきていたから、もし今日もそうならば事だ。稽古後の疲れも何とか落ち着いてきた相馬は、手伝いに行こうと腰を上げる。
 と、そこで呼び止められた。
「なあ、相馬もそう思うだろ?」
「……え?」
「なんだ、聞いてなかったのかよ」
 地べたへ座り込んでいた隊士たちから立ち上がった相馬へと視線が集まっていた。千鶴を手伝うことで頭がいっぱいになっていた相馬がうろたえると、隊士の一人が少し周囲を気にしつつ笑いかける。
「雪村さんのことだよ」
「……先輩がどうかしたか?」
「いい人だよなあってさ。俺はこないだ手当してもらったときに少し話しただけなんだけど、お前と野村はよく一緒にいるだろ?」
「ああ、あの人も小姓だからな。色々と教えて頂いている」
 千鶴の性は一部の幹部隊士と監察の二人以外には徹底的に伏せられている。失言のないよう、野村とちらりと視線を合わせると当たり障りのない返答を心掛けた。ちょうど千鶴のことを考えていたから内心ぎくりとしていたが、それを抑えて平静を装う。
 あまり話題が盛り上がっても困るのだが、気付いているのかいないのか、野村はいかに千鶴が優しいかと手振り身振りで話しだしてしまっていた。内容は差し障りないものの、相馬としてはひやひやさせられる。どうにか話題を変えなければと思っていると、隊士の一人が「それにしても」と大きくうなずいた。
「土方副長は恐ろしいが、役者のようなお顔立ちをしてるだろ? その土方さんと並んでも雪村さんは見劣りしないじゃないか。戦働きをしないせいか華奢だし、ずいぶんな美少年だよな」
「幹部の方が気に入ってるのはそのせいじゃないか、なんて言ってるやつがいたが実際どうなんだ?」
「……そんな訳ないだろう。雪村先輩が幹部の方と親しいのは、先輩が優秀だからだ」
 努めて冷静になだめる相馬へ加勢しようとする野村を目線で制し、続ける。
「あの厳しい幹部の方々が見目だけで取り立てるなんて、そんなことあると思うか?」
「そりゃそうだな。しかし、そんなに雪村さんは優秀なのか? 俺たちとは滅多に関わらないからピンと来ないが」
「雪村先輩はすごい方だ。裏方に徹しておられるから大きな武勲をたてることこそないが、細かなことによく気配りされているし、俺たちが隊務に励めるのも先輩が面倒で手の掛かる雑務を多く引き受けてくださっているからだ。先輩は性根の澄んだ方だから信も置ける。だからあの土方副長が小姓として長くそばに置かれているんだ。幹部の方々が雪村先輩を気に掛けるのも、それだけ先輩が皆さんに心を砕いて尽くしているからこそだ。確かに雪村先輩は綺麗な方だが、この新選組で見目だけで重用されるなんて有り得ないだろ。俺と野村が教えを乞うときも、不慣れな俺たちに優しく丁寧に手ほどきしてくださるし、それに……」
 滔々と話す相馬は、そこでどっと笑い声に包まれる。
「……ははは! なんだ、相馬は本当に雪村先輩を慕ってるんだなあ」
「分かった、分かった!」
「雪村さんが親切で優しい人だっていうのは少し話しただけでも分かるさ。しかし、相馬がそこまで言うとはな」
「……あ、いや、その……」
 千鶴が軽んじられたように感じてつい熱が入ってしまった相馬は、さっと羞恥で頬を染めた。それを見てまた笑いが重なる。
「間違っても懸想するなよ? 副長は男色ではないらしいが、あれほど気に入りの小姓に手を出したら殺されるぞ」
「お、俺だって男色じゃない!」
 からかう言葉に語気強く言い返すと、ため息をついて相馬はその場から逃れることにした。ちらと見た野村が小さく二度頷いている。「それにしても腹が減った」と大きな声で言い強引に話題を反らしだしたのを背に、冷えだした廊下を進んだ。


 あれから千鶴の元へ向かい夕食作りの手伝いをしたが、先の話が気にかかってずいぶん失敗してしまった。共に当番であった原田には「様子がおかしいぞ」と言われ、千鶴にも「手伝いはいいから休んだほうが」と気遣われる始末だ。
 結果、千鶴からの指示は鍋を見ておくだの皿を用意するだのと簡単なものになり、相馬は不甲斐なさと気遣ってくれた千鶴の優しさに肩を落とす。後片付けではきちんとしようと決意して席に着くと、膳の上に見慣れない握り飯が乗せられていた。顔を上げて千鶴を探せば、相馬の視線に気づいた土方に指摘されたのだろう。土方と話していた千鶴は振り返って相馬と目を合わせると、戸惑う相馬が膳に目をやるのを見て、にこりと目を細めた。そうして小さく唇を動かす。いつも相馬を気遣って優しい言葉を紡ぐ唇は「内緒」と言って、細い指が一本添えられた。
 息が詰まった。
 他の者に分からないよう、その女性らしく愛らしい仕草はすぐに仕舞われた。それから千鶴は土方に首を振って話を終えたようだった。あとは幹部に話し掛けられてはそれに応え、もう普段通りに戻っている。
 ぎこちなく固まった体と視線を膳へ戻す。賑やかな広間での夕餉で、相馬はまっさきにその握り飯へかぶりついた。小ぎれいに握られた小さな握り飯の中には、甘く煮詰めた昆布の佃煮が刻んで入れられている。
 大坂の佃という町で生まれた煮物らしく、その出来の良さから職人は江戸にも招かれたという話だ。商家からの頂きものとして、厨にあったのを知っている。量がないからと幹部だけで消費していたはずだ。あまり関西の味を好まない幹部から勧められて千鶴も食べていいと言われたのだと、そんな話を聞いた覚えがある。
 けれど高価なものだ。千鶴は自分ではほとんど食べずに近藤や土方へ出しているようだった。それを、わざわざ。
 他の隊士が力任せに握るのとは違うやさしい味のする握り飯を、ゆっくり噛みしめるようにして食べた。

 夜、扉を背に立ち尽くしながら相馬は雲の多い夜空を見上げていた。
 やっぱり雪村先輩はすごい。敵わない。
 不調の原因を口にしなかった相馬を思うからこそ、千鶴は言葉でなく食べ物で励ましてくれたのだろう。些細なことだ。けれどそのささやかな気配りこそが身に沁みる。彼女の暖かな心遣いはいつも控えめでそつがない。
 小姓としての仕事でもそうだ。土方や近藤が喉が渇いたと思うときにはちょうど差し入れるようにしている。出掛けて帰ってきたばかりのときは、暑いだろうからと少しぬるいものを出したり、書き物に追われている土方が食事の席に出ていなければ、茶を出すときに握り飯と漬物を出したり。一つ一つは本当に些細なことだ。けれどそれがどれだけ難しいことか、相手をどれだけ親身に思っていなければ出来ない気遣いであるか、実際に小姓となり働きだしたばかりの相馬にはまだまだ難しいことばかりだ。
 幹部に限らず、隊士の怪我の手当てをするときも千鶴のそういった配慮は事欠かない。医療に携わる者としての当然の気遣いだけでなく、悔しい思いをしている当人の気持ちに寄り添う看護は既に一般の隊士も知るところだ。
 彼女は行方の知れない父親を捜すために男装をし、この新選組に身を置いているという。不便も多いことだろう。言われるまで気付きもしなかった相馬ではあるが、千鶴が女性のように細いことは知っていた。思い出すと顔から火が出そうになるのだが、まだ新選組へ入る前、巡察途中の千鶴たちと出会った折に彼女の肩や腕を触っていたのだ。何も知らずに「お互い立派な武士を目指してがんばろう」などと宣言していたことを思うと顔を赤くしていいやら青くしていいやら。女性だと聞かされてすぐ謝罪したが、千鶴は「自分が性を偽って隠していたのだから仕方がない」と笑って許してくれた。
 とにかく千鶴は優しいのだ。優しすぎて、よくこの荒くれ者の多い新選組でやってこられたものだと案じてしまうほどに。嬉しく、面映ゆく、けれどその女性的な優しさが決して「女子だから」で片付かないことも分かっていた。
 千鶴が新選組へ来てからもうずいぶんになると聞く。普段は何も言わないが、それだけの間ずっと父親の行方が知れないのはどれだけ辛いことだろう。彼女に母はなく、行方の知れない父親だけが唯一の身寄りなのだそうだ。仲のいい父娘であったらしい。男装してまで単身上京するというのがどれだけ勇気のいることか、切羽詰まったことか。この時世、一人旅をするだけでも命がけだ。
 相馬が初めて千鶴に出会った頃、彼女はまだ幼さの残る少女だった。年齢や境遇を考えれば、肉親を失って途方に暮れ、泣き暮らしていてもおかしくはない。それなのに千鶴は一人父を探して遠く京までやってきた。そうしてもう、三年近くここで暮らしている。
 辛くないはずがないのに、千鶴はいつも笑顔で過ごしていた。常に誰かのために心を砕き、入隊したばかりの相馬や野村は特に気に掛けてもらっている。
 千鶴は「そういう」人なのだろう。気丈で、自然と誰かを気遣える心優しい少女なのだ。その内側に、どれだけ無理を抱えているのか、相馬にはまだ推しはかることも出来ない。
「……はあ……」
 ため息は深くなるばかりだ。曇天の夜空に星を探して、相馬は背にした戸へ身体を預けた。
 知れば知るほど、千鶴はすごいと、どこか唖然とする。
 これと決めた目的のために千鶴は行動し、ここ数年耐え忍んで暮らしている。その間、自分のことだけでなく新選組のため、隊士のため心を砕いている。
 では自分はどうだと振り返れば、相馬はやっと自分の居場所を見つけたばかりだ。武士の家に生まれ、煮え切らない藩や同僚たちに不満を抱きながらもなかなかそこを離れることは出来なかった。やっと脱藩して道を探し始めたが、これぞと思い入隊した陸軍隊では歯がゆい思いをするばかりか、予備兵として留めおかれて碌に前線へ立てなかった。周囲の反応も相変わらずで、消沈して辿り着いたこの新選組でようやく水を得たような気がしている。
 ここまで抱えてきた悩みが無駄だったとは思わない。必要な迷いだったと思う。けれどその間、相馬は自身のことで手いっぱいだった。新選組と何度か縁があったが、そのときの自分は今よりも視野が狭く、考えも凝り固まって、到底誰かを気に掛けられるような心境ではなかった。
 尊敬の念と慕う気持ちは自然と湧き起こった。当然だ、と思う。
 敬愛する彼女に恥じることなく堂々と立てる自分でありたい。目指す「誠の武士」を見出し、体現できればそれも適うだろう。
「……今は、出来ることから」
 何もかも、最初からいっぺんには出来ないから、一つずつ、出来ることからやっていこう。
 小姓見習いとなった相馬と野村に、千鶴はそう言ってくれた。気持ちが逸るとき、この言葉を思い出すと波立った心が穏やかになる。千鶴がそうしてきたのなら、相馬にもきっと出来るはずだ。
 心を落ち着けて決意を新たにしていた相馬は、不意に周囲が静かなことに気が付いた。
 夜半である。夜の巡察に出た隊士以外、屯所内では隊士の大半が既に床に就いている。起きているのは日々遅くまで仕事をしている土方や、任務内容次第で時間が不規則になりがちな監察、そして相馬が背にしている戸の向こう――他の隊士と鉢合わせぬよう、夜遅くに一人で風呂へ入っている千鶴くらいだ。
 彼女の性を知ってしばらくしてから「夜は隠れて入浴している」と聞き、相馬は時折こうして見張りを買って出るようになった。これまで無事隠れられていたからといって、隊士が増えた今、いつまでも大丈夫とは言い切れない。事情を知る幹部や監察の二人も折々気をつけてくれてはいるようだったが、彼らよりは日々の隊務も責務もまだ軽く、何より彼女の護衛を任されている己こそがやるべきだと思った。
 今夜もそうして風呂の近くで人が来ないよう気をつけているのだけれども、この静けさは妙だ。千鶴は湯船に浸かっているのだろうか。水音も聞こえない。具合が悪くなって倒れているのか、あるいは別の何かが? 急に心配になり、思わず振り返って戸をじっと見つめてしまう。
 踏み入って何事もなかったら、まずいことになる。中の様子を尋ねるためにも声を掛けようか。そうして意を決して息を吸い込んだとき、小さく、何か空気の揺れるような気配を感じた。
「…………?」
 息を殺し、耳を澄ませる。誰かが――千鶴以外の何者かが侵入しているような、そんな気配はない。誰かがいる気配はある。中にいるのは、きっと千鶴一人に違いない。
 小さく、す、すう、と震える呼吸が聞こえた。すう、ではない。震えている。
 直感だった。相馬はハッとして浴室に続く窓を見上げる。ほんのり湯気が漏れ出るそこから、限りなく小さく、隠すように抑えられたため息の気配を感じた。
 ……ああ。
 相馬は唇を噛み、俯いて目を伏せた。これはきっと、気付いてはいけないものだ。知らなかった振りをしなければいけない。彼女はそう望むだろう。
 相馬は少し前の己を恥じた。千鶴が強い人だと、そう感心していた己の浅慮を悔やむ。
 確かに彼女は強い人なのだろう。沈んだ姿を気取られぬよう、周囲に気遣わせず済むよう、入浴中にそっと嗚咽を隠すほどに。
 確かにすごい人だ。誰も味方がいなかった頃からずっと、ずっと一人で耐え忍んで。それでも自分のことばかり考えて動くことはなく、常に相手を気遣って。
 そうして助けられている相馬や隊士たちは、果たしてどれほど彼女を助けられているだろう。千鶴は見返りを求めて行動しているのではないだろうけれど。きっとどれだけ気遣っても、根本的な問題が解決しない以上彼女の哀しみが晴れることはないのだろうけれど。
 息をするのが苦しく感じられるほど静かな時間は過ぎ、どれほど経ったのか――恐らくそう長い時間ではなかったのだろう。浴室から出てきた千鶴は薄手の寝間着の上から羽織に袖を通したいつも通りの姿で、相馬へやんわりと微笑んだ。
「相馬君、お待たせ。遅くなってごめんね」
「……いえ、気にしないでください」
 どう答えるのが最良だったのだろう。千鶴が何事もなかったように振舞うので、相馬も何も知らない振りをする。いつものように薄暗い廊下を進み、乾ききっていない髪の毛先を手拭いで軽く押さえている千鶴の少し後ろを静かに歩いた。
 今は下ろされている長い黒髪が、遠くのかがり火の弱い光に濡れて艶やかにきらめいている。文字通りの濡れ羽色を、相馬は吸い寄せられるように見つめた。黒髪が隠す横顔の、白皙の頬と目尻がほんのり色づいている。悲しいほど美しいのか、美しいからこそ一層悲しく思えるのか。
「何だか疲れちゃった。早く休むね」
 部屋の前までたどり着くと、千鶴はそう言って相馬へ頭を下げる。おやすみなさいと、それだけ言って、相馬が挨拶を返すのを見届けると襖はいつもよりずっと早く閉じられた。
 その場に立ち尽くしそうになる身体を叱咤して、ゆっくりと、けれど足音を少しだけ立てて離れた。唇を噛み、歯がゆさに拳を握りしめて、相馬は黙って廊下を進む。己の部屋までの距離が恐ろしく遠く感じた。
 すごい、すごいと思うだけではだめなのだ。何も出来はしないと、竦んで足を留めているようでは昔の自分と少しも変わらない。故郷の笠間や脱藩した先の陸軍隊で燻っていたのと何ら違わない。
 相馬はもう歩き出したのだ。自分の意志で、己の道を選択すると決めた。新選組へやってきて、さらに道は開けたと思っている。武士としても、一人の人間としても、視界はずっと広くなった。先達は幹部たちであり、千鶴だ。
 あの人を心から笑わせてあげたい。
 優しくしてもらったから、というだけではない。そうあるべきだと、自然とそう思えるのだ。千鶴のような優しい人が安心して笑っていられるなら、そこはきっと相馬にとっても正しいと思える場所に違いない。どんな境遇にあろうと、千鶴のいる場所だけは他よりずっと明るい。相馬が求める武士の姿を探すのに、その明るさは必要だ。
「雪村先輩の助けになりたい」
 まだ未熟で、教わり習うことばかりの相馬にどれだけのことが出来るのかは分からない。雑務においては相馬が千鶴よりうまく出来ることなんてまだ一つもない。それでも、何もないなんてことはないはずだ。千鶴の側近くで護衛を言いつけられたことにも、きっと何か意味がある。
 それに、こういうときどうすればいいのか、相馬は千鶴に教わったばかりだ。
 何もかも、最初からいっぺんには出来ない。
「一つずつ、出来ることから」
 千鶴は落ち込んでも、きっと自分で自分を奮い立たせて頑張ろうとするだろう。それは虚勢なのかもしれないが、それでも千鶴が懸命に選んだ道だ。一人でまっすぐ立つために、先へ歩き出すための決意だ。彼女が掲げた旗を否定はしたくない。
 自分に出来ることはなんだろう。教わりながらでも、今はまだ手間をかけてしまうばかりだとしても、側にいることでいつか何かが見つかるはずだ。
 千鶴の笑顔を思い出す。相馬が目指すものはそこにある。
 千鶴はいつ笑ってくれていただろう。相馬や野村が教わった通りにうまく出来たとき、報告するとそれだけで千鶴は自分のことのように喜んでくれる。相馬と野村がちょっとしたことで言い合いになったり盛り上がったり、そうして話しているのを見かけただけでも微笑んでくれることがある。
 ああ、それから。思い出し、廊下を歩く足が少し緩んだ。
 侵入者を警戒して掲げられたままのかがり火が夜の闇にちらちらと揺れている。それを見つめながら、相馬は自分の口がほんの少し笑っていることに気付いていた。
「まずは、おはようの挨拶から、だな」
 朝早くに顔を合わせ、その日一番に見る千鶴の優しい眼差しと微笑みは、どんな悪夢も痛みも溶けるように温かい。相馬がそう感じるように、もし、相馬の一言で千鶴の人知れぬ悲しみを少しでも和らげることが出来るのなら。
 元気よく、明るく声を掛けよう。つられて千鶴まで元気になってしまうくらい、笑って話そう。
 再び廊下を進み出した相馬の足は、先ほどよりも少し早足になっていた。





(16.07.02.)