気になるあなた





 板橋の新政府軍本陣を脱した相馬たちは、厳しい捜索の続く江戸をどうにか抜けて、墨引の北端、本郷の雪村診療所へと身を寄せていた。逃亡中の身で堂々と宿を取るわけにもいかず、しかし長く隠れられる場所に心当たりもない。当然新選組の江戸の屯所など近づくことも出来ず、そんな中で千鶴が真っ先に自宅への避難を提案してくれたのはまったくありがたいことだった。
 町娘だったとはいえ、千鶴は長屋住まいの町人ではない。雪村診療所は三人が暮らしても十分な広さがあり、新政府軍の兵士が嗅ぎつけてくることも今のところはなく、この上なく安全な隠れ家となっている。
 千鶴にとっては四年ぶりの実家ということになるはずだが、その感慨に浸る間もなくなってしまったのは、どこか申し訳なくも思う。相馬と野村が外に出ては目立つからと、買い出しや日中の情報収集などは千鶴一人に任せるしかないのも心苦しいことだった。
 こうして雪村診療所に身を寄せて、もう十日以上が過ぎていた。江戸包囲の隙がないかどうか、夜な夜な出掛けてはいるのだが、残念ながら未だ脱出経路は確保できないまま今に至っている。苛立ちと歯がゆさ、焦燥感ばかりが募っていくが、それが冷静な判断力を失うことに繋がらないよう、どうにか苦心して平静を保っているのが精いっぱいだった。
 千鶴が外出している間、手持ち無沙汰を理由に野村と共に軽く掃除をしてみたが、雪村診療所は恐らくそれなりに繁盛していたのだろうと素人ながらに察しがついた。医療器具はもちろん、相馬にも野村にも理解出来そうにもない蘭語の本や舶来の治療器具があちこちにあり、相馬と野村の寝所として提供された部屋の調度品も、派手すぎずみすぼらしすぎず、品よく置かれている。値打ちは分からないが、そもそも貧しい暮らしならそんなものは置くことも出来ないのだ。千鶴の礼儀正しさといい、それなりの暮らしをしてきたのだろうことは伺えた。もちろん、お嬢さまだとか、そこまでのものではないのだろうが。
 掃除を終え、庭に面した部屋の障子を大きく開けて換気しながら野村がうんと伸びをした。刀を置き、上着を脱ぎ、まだ雑草がまばらに伸びたままになっている庭に足を下ろして座っている。
「俺、こんなに雪村先輩のこと女の人なんだーって思ったの初めてだぜ。結構いい暮らししてたはずなのに、あの人もずいぶん苦労してるよな」
「……そうだな」
 たった一人の父親の失踪すら、普通なら心を打ちのめされるような出来事だ。しかし千鶴はさらに新選組と縁を結んだり、いくつもの事件と関わったり、それどころか、行方不明の父が敵方に味方しているなどと――これ以上なく悲しい目にいくつも合っている。
 いつも優しく明るく親身に接してくれるからつい忘れてしまいそうになるが、よくもまぁ泣き暮らさず気丈に立ち向かっているものだ。京都で暮らしていたときも時折案じてはいたが、ここ今に至り、到底普通の女人が味わうことのない人生を送ってしまっていることは確実だ。
 そんな千鶴が、新選組や相馬たちと歩みを共にしようと自ら決意してくれていることが、本当にありがたい。こればっかりは彼女の意思次第なのだ。千鶴がいなければ今頃自分たちはとっくに新政府軍に捕らえられていただろうし、相馬に至っては変若水の毒に負けたり心折れたりしてしまっていたかもしれない。もう、千鶴なしの道程など想像もつかないほどだ。
 深くため息をついた相馬は、不意に板橋の本陣へ助けに侵入した夜の千鶴の言葉を思い出していた。逃亡の最中、はぐれてしまった千鶴がすわ敵に捕まったか殺されたかと絶望しかけたこともあった。しかし近藤らの捕縛の情報を追っていた土方の調べで千鶴もまた連行されたのだと知ったときには、彼女の命がまだあることに全身が震えたものだ。
 だからこそ、忍び込んだ先で真っ先に千鶴を見つけられたときには相馬こそが救われたような感動があったというのに、それすら吹き飛ぶような言葉を千鶴は微笑みと共に与えてくれた。
 ――ありがとう、相馬君。きっと助けにきてくれるって信じてた。
 ――時間がかかってもきっと、来てくれるだろうって。
 実際、千鶴たちの処遇はかなりぎりぎりのところだった。近藤の処遇をどうするかで新政府軍内で意見が割れたために日にちを稼げたのは幸運だったが、近藤はともかく、千鶴や野村は適当な理由をつけて処分されてしまっていてもおかしくはなかった。新政府軍の新選組への恨みは、そうした無体がまかり通ってしまうと予見できるほど根深いものなのだ。
 千鶴がそれを理解していたかどうかは分からないが、不安だったろうに、千鶴は何の約束をしたわけでもない相馬の助けを信じて、それを心の支えにしていたという。
 それがどれほど相馬の心を打ったか、千鶴はきっと分かっていない。他の誰でもなく、千鶴は相馬が助けに来ると信じて待っていてくれたのだ。悩み、迷い、焦り、決死の思いで乗り込んだ相馬の苦労や心配など、この言葉一つで何もかも霧散してしまった。千鶴に必要とされる、ただそれだけのことが相馬の心を激しく揺らした。
 考えなければならないことは山のようにあるが、考えたところで答えが出るものでもない。となると、日中はこの家の中で大人しく過ごしているしかないのだが、こうして時間が出来てしまうとつい千鶴のことを考えてしまう。野村も共にいるとはいえ、ここは相馬が慕う先輩の実家なのだ。女性の家なのだ。そんなことを気にしている場合ではないから考えないようにはしているが、どことなく浮き足立った気持ちになりそうになるのは抑えようもない。
 はあ、とか、うう、とか唸りながら頭を抱えていると、庭から足を上げて足の裏を軽く払った野村が部屋の中に四つん這いで戻ってくる。
「頭痛いのか? 陽射しは直接当たってねえけど……障子閉めるか?」
「大丈夫だ。別に頭が痛いわけじゃない……」
 内心を見透かされることはないのだろうけれども、何となく居たたまれない気持ちで顔を上げて野村と顔を合わせたところで、玄関の戸ががらがらと開く音がした。
 すっと手を鞘に沿えた野村と共に一瞬息をひそめるが、入ってくる足音の軽さと続いた「ただいま」という声にほっと胸をなでおろす。身軽に立ち上がり飛び出していった野村の背を眺めていると、室内へ顔を覗かせた千鶴と目が合った。にこ、と微笑んで近づいてくる千鶴はいつもの若衆姿ではない。
 繰り返すがここは雪村診療所で、千鶴の実家だ。男装していようと四年の月日が流れていようと、近隣の住民は彼女が雪村千鶴だと気付いてしまうだろう。父親を探して京都へ出たきり戻らない娘が男装しているなど、あまりにも目立ちすぎる。そこで「父親探しの旅から一時帰宅したのだ」ということにして、買い物などに出るときはごく普通の町娘の姿に戻っているのだ。
 新政府軍の精査も、まさかただの江戸の町娘にまでは及ばない。娘姿には目立ってしまう小太刀は相馬が預かり、懐刀を忍ばせて千鶴は外へ出ているのだった。
 実家には千鶴が四年前に着ていた着物がまだ残っていた。いくつかは京都への路銀にするため売ってしまったらしいのだが、普段着になるような着物はまだいくつも残っていて、千鶴は久しぶりの女性の姿に本人も戸惑いつつ、今はどこからどう見てもただの女性でしかなかった。
 今日は淡い桜色に小豆色の刺繍が入った、可愛らしい着物を身にまとっている。相馬が見慣れた袴姿と違い、千鶴本来の丸みを帯びた女性らしい体つきが愛らしい着物の下に感じられて、朝見かけたときには思わずごくんと唾を飲んでしまった。
 ここは屯所ではない。同じ一つ屋根の下でも、隣の部屋で、女性として振舞っている千鶴と寝起きしているのだと思うと、全身の血がカッと熱を帯びて巡りそうになる。
 意識しないよう、千鶴本人や野村に気付かれないよう必死で平静を保つ相馬の内心など知る由もなく、千鶴は普段と変わりない態度で近づいてくると相馬の前へ膝を折った。その座るときの裾を払う自然な仕草すら、ああ、この人はやっぱり女の人なのだと思い知らされるようで、相馬の視線はふらふらと泳いでしまう。
「頼まれていたもの、これで揃ったと思うよ。野村君も確認してくれる?」
「お、助かったぜ! 研ぎにも出せないし、いい加減刀の手入れをきちんとしたくてさあ。ありがとな、雪村先輩」
「ううん、気にしないで。一応お店で確認はしたけど、足りないものがあったら教えてね。相馬君も……相馬君? どうかした?」
「えっ!? あ、はい! ありがとうございます!」
「……? あ、そうだ。二人とも、またお掃除してくれたんだね。ありがとう。でも気にしなくていいのに」
「いえ、そんな。何もかも先輩にお任せしてしまっているんですから、これくらいは」
「そうだぜ。それに俺たち、地図見て唸ってるくらいしかやることないしな」
 肩を竦めながら言う野村に苦い笑いを返しつつ、千鶴は荷物を置いて立ち上がると夕食を作るからと部屋を出て行った。手伝いに行きたいが、「ここは屯所ほど広い厨じゃないし、三人分なんてすぐ出来るから手伝いはいらないよ」と初日に断られてしまっている。千鶴が出て行くのを座したままぼんやり見送ると、相馬は刀と真新しい手入れ道具を手に深々とため息を吐いた。
 手持ちの携帯用の手入れ道具と合わせて早速手入れを始めようとしていた野村が首を傾げるのも構わず、相馬は瞑目して小さく唸る。
 こんなことで惑っている場合ではないのだ。しかし、今すぐ現状を打開できるわけでもなく、やみくもに飛び出して捕まるわけにもいかない。毎日気を張り詰めていてはいつか綻びてしまうのだからうんうん悩み続けていればいいというものでもない。
 しかし、そうやって現状打破に意識を向けていなければ、どうしたって千鶴の姿が気になって仕方がない。この間など女性姿の千鶴相手に血をもらうことになって、発作に苦しみながら襟首から覗く細い首筋やら何やらがいつも以上に気になって、発作とは違う苦しみに苛まれる羽目になった。その光景は今でも脳裏に焼き付いて忘れられなくて――。
「ああ、くそ……!」
「うわっ、馬鹿! そんなに打ち粉振ってどうすん……げっほ! げほ!」
「……っ!? う、ごほっごほっ!」
 えい、と考えなしに振った打ち粉から飛び出した粉にむせる二人の声に千鶴が慌てて部屋へ飛び込んできて、料理のためにたすきがけしたままの千鶴の、ほっそりとした白い腕の柔らかそうな肌を目にした相馬がまた別の道具をひっくり返すのだが――。
 江戸を脱するため千鶴が再び男装に戻るまで、そんなことが幾度か繰り返されることになるのだった。





(16.06.18.)