甘露の水の、零れる先に





 真っ暗な夜の山中に、ふくろうか何かの鳴き声が響いている。もう春分も過ぎたところだから寒さに震えることはなかったが、それでも深夜になれば少し肌寒さを感じていた。
 新選組あらため甲陽鎮撫隊は、甲州街道を西進する行軍の最中である。三十里ほどの距離を移動するこの道程は、武器弾薬、大砲なども運ぶことも相まって、あまり進軍速度は早くない。荷を運搬していない相馬だったが、それでも八王子宿を過ぎてからの道中は峠道となり、細く険しい山道を進むのは慣れないこともあって労を要した。相馬や他の隊士ですら息の上がる道である。千鶴が何一つ弱音を吐かないとはいえ、疲れ切っているのは尋ねるまでもないことだった。
 途中の日野宿で近藤が新人隊士勧誘などのために足止めを食ってはいるが、本隊の移動は甲府城を先んじて抑えるためしばらくは出来る限り早く進もうとしていた。が、不運なことに天候があまりよくなく、思ったより進めていないのが現状である。陽が暮れて雨が止み、休息をとっているが、夜が明ければ遅れを取り戻すためにもう少し進軍速度が上がるかもしれない。体力を回復させるためにも、千鶴にはしっかり休んでもらわねばならない。
 そんなことを考えながら、相馬はぼんやりと夜空を見上げていた。身体はそれなりに疲れているが、瞼を閉じても眠気はそれほど感じない。昼間起きていたのだから夜には眠くなるかと思ったが、そう単純にはいかないようだ。それでも、目を閉じればきっと眠れはするのだろうけれど。
 相馬がじっと息をひそめて起きているのにはわけがあった。それは羅刹となり、活動時間が変わったこととは関係のない話だ。唾を飲みこむことすらためらうほど、相馬は身じろぎもせずにただじっと夜の闇へ視線を彷徨わせる。
 暖かな重みが、相馬の肩にもたれかかっていた。
 後続の隊士たちが運ぶ武器弾薬などと比べるべくもない、軽くか細い肢体だ。洋装に改めた相馬たちとは違い、直接戦闘に関わることはないからと見慣れた和装のままの、雪村千鶴の寝姿が今、相馬のすぐ側にあった。
 首を回して見てしまえば、顔が近づきすぎる。じわりじわりと熱を帯びてしまう相馬の体温さえ移ってしまうのではと焦りが生まれ、その焦りがまた鼓動を速めていく。少し早く脈打つ心臓の音まで聞こえてしまいそうで、相馬はただただ息をひそめ、身を固くしているしかなかった。
 恐る恐る視線を向けると、千鶴は深い眠りについているようだった。山道の行軍も野宿も不慣れだろうに、ただの一言も、冗談でも辛いと口にすることはない。疲れたと口にした野村に同意しつつも、彼を励ましていたのを思い出す。そんなところも好ましく、相馬の敬意は――敬愛は募るばかりだ。
 優しく、気丈で、いつだって親身に接してくれる。相馬の悩みや不安に寄り添い、時に言葉で、時に態度で道を照らしてくれる。千鶴は理想的な先輩だった。相馬と同じく関わりの深い野村も、彼女には特別親しみを持って接している。彼の場合はやや砕けた態度が過ぎるので、相馬とはまた想いの種類が違っているのだろうけれども。
 そんな千鶴は、羅刹に身をやつした相馬のことをずいぶんと心配してくれている。この行軍の道中も、日中出歩かねばならない相馬を案じての心配そうな視線を感じていた。無理はしているが、耐えられないほどではない。眠気も苦痛も、江戸で逗留している間にいくらかは慣れた。正確には、耐えることに慣れた。この苦しみは先輩隊士であり、羅刹としても先人である山南や藤堂も味わってきたものだ。彼らが黙して耐えていることを出来ないなどとは言えないし、思えない。脂汗を拭い、時折感じるめまいを押し隠して足を進め、平静を装っている。
 けれどやはり、いくら気持ちで耐えようが身体は正直なものだ。限界を過ぎれば悲鳴を上げる。この行軍の最中にも、一度、羅刹の発作が起きてしまった。幸い野営が始まった後だったので人目を避けて移動することが出来たのだけれど、そのときも千鶴は姿の見えなくなった相馬を探して追い掛けてきた。蹲って耐えていた相馬に駆け寄り、背を擦り、そうして――。
 千鶴が相馬に血を与えるようになって、それはもう何度目だったのだろう。護身の為に佩いているはずの大切な小太刀で手のひらを斬り、千鶴は相馬にその血を捧げる。彼女の背後に回って手で視界を塞ぎ、乱れ塞ぐ心を押し隠して血を舐める。そんなことを、これから先も続けていくのだろうか。
 血を飲まねば耐えられない悔しさも、守るべき千鶴を傷つけてしまっている矛盾も相馬を深く苛んでいる。隊の力となり働くために……そう千鶴は宥めてくれるが、それがより一層辛いのだ。優しい千鶴は、相馬が血を啜る羅刹となり果てても寄り添ってくれている。だというのに、己には未だ彼女を守るだけの力はない。変若水まで飲んだというのに、大切な人を守ることすら出来ず、それどころかその血をもらい受けて正気を保っている。悔しく、歯がゆく、悩ましい。
 しかしそれ以上に、相馬には気にかかっていることがあった。千鶴が初めて相馬の発作を目にしてしまったあの江戸での夜からずっと、心の中で大きくなるばかりなのに、尋ねることも出来ず持て余している疑問。
 どうして、俺なんかのために。
 千鶴の献身は、もはや優しいなどという言葉で片付けられるものではない。千鶴は既に何度も羅刹による殺戮や狂気を見ているはずだ。だから相馬に怯えたって仕方がない。血に飢えて苦しむ相馬を恐れても、それは人間として正常な反応だと相馬には思える。悲しいが、無理もないことだと。
 けれど千鶴は、まるで己の身を切り裂かれたかのように悲しく、辛そうな顔をするのだ。瞳を揺らし、懸命に相馬を支え、供血が終われば何事もなかったかのように――相馬が気に病まぬよう、優しく微笑んで「良かった」と顔をほころばせる。
 どうしてそこまで出来るのだろう。どうしてこんなにも優しく心を砕いて接してくれるのだろう。
 もし、という言葉が脳裏をよぎってしまったのは一度や二度ではなかった。同時に、有り得ない、という言葉も。過ぎた願いだ。途方もない期待だ。たとえ話でも、己の心の内だけであろうとも、それをはっきりと言葉にしてしまうのは憚られた。考えてはいけないと、心のどこかから制止がかかる。
 それなのに、意識せずにはいられないのだ。こうしてふとしたことで千鶴のぬくもりを感じるとき、格別の優しさを身に受けたとき、そしてこうして寄り添い、彼女からふっと香る甘い匂いにどうしようもなく心惹かれ、意識を奪われてしまうそのときに、何度でも疑問の雫は溢れだす。
 どうして、あなたはこんな俺のために。
 形にならない、救いを求める祈りのような淡い願いが、溢れ、溢れ、相馬の身を満たしていく。この想いの源流が、いつかもっと、抑えようもなく激しく溢れだしてしまったら。
 そのときはもう、こうしてじっと耐えていることさえ出来なくなってしまうのだろうか。それは少し、恐ろしい。彼女の献身に心打たれ、どうしてと戸惑い、恐れ離れても仕方がないと頭では分かっていても――それでも相馬は、千鶴がこうして側近くに寄り添ってくれるこのときが失われるのは恐ろしかった。大坂から江戸へ戻る船上で彼女へ話したように、そんな瞬間が来てしまえば、きっと寂しくてたまらないだろう。
 未だ相馬の抱える悩みや不安は多く、行く先は暗雲に覆われ判然としない。この先、どうすれば戦えるだけの力を得られるのか。それすら答えは出ていない。けれど、だけれども。
 ほう、と鳴く鳥の声に、相馬はゆっくりと瞼を下ろす。目を閉じてしまえば、残る五感はより一層研ぎ澄まされる。羅刹になり、鋭敏になった聴覚は千鶴の穏やかな寝息を、そして嗅覚は、甘く優しく香る彼女の匂いを捉えた。その感覚に酔うように、相馬は心を鎮めていく。
 今はまだ、この夜のように深い闇の中にある迷いがいつか晴れるときが来るのだとしたら、そのときは、こうして息をひそめ身を固くする以外の方法も、何か見出せるのかもしれない。けれど今は、まだそうではないのだから――。
 零れ落ちそうなため息を飲んで、相馬はじっと、千鶴に寄り添い続けるのだった。





(16.06.18.)