曇天





 順陽丸の船旅は、概ね順調と言えた。近藤や土方、怪我人たちを乗せた後続の富士山丸も、無事出航さえできていれば同じ航路を静かに辿っているはずだ。
 静かな理由が良いものでないことは、相馬自身、人一倍実感している。浅い眠りを繰り返しても、あのとき文字通り命がけで死地から逃がしてくれた仲間の――井上と山崎の声が、今も生々しく蘇る。守らなければいけないものが増えたと、西本願寺の屯所で語ったのがもうずいぶん昔のことのように感じる。あれが、まだほんの半年ほど前でしかないと思い返すにつけ、苦い笑いが浮かんだ。
 まるで夢のようだ。悪い夢。幕府のため、そして天皇を守るために戦ったこともある新選組が、今や朝敵である。旗頭であるはずの将軍は、先陣切って逃げ出したという。
 船室を出た相馬は、湿っぽい海風に顔をしかめ板張りの甲板を進んだ。海上であるからか、あるいは空に広がった分厚い雲のせいか、手や足先、顔を冷たくなぶる風は独特のべっとりとした潮の匂いを纏っている。
 順陽丸は帆船ではあるが、熱機関による動力源も搭載しており、航海に必要な海風にはそれほど神経をすり減らさなくても良いらしい。そんな話を教えてくれたのは、視線の先で海風に吹かれている千鶴だった。もっとも、彼女もどこかから聞いた話をそのまま口にしただけだ。そうやって何かと話題を探してくるのは、互いに抱える不安を紛らわせようとしているからに違いなかった。
 情けなくも死の淵に立った仲間に救われ、からがら逃げ出した相馬は千鶴を守って大坂まで戦場を抜けてきたけれど、その実、泣き言一つ言わず気丈に相馬を支えてくれたのは千鶴だ。この身は、心は、彼女に守られていると感じる。空の色のようにどんよりと濁った先行きには不安ばかりが募るけれど、それでも前を向いていかねばと思うのは、己の信念はもちろんのこと、彼女の「在り様」も大きく影響している。
 薄く開いた唇の間から、呼気は白く染まって流れていく。入れ替わりに流れ込む海の空気はやはり慣れず、臓腑へ張り付くような不快感があった。それでも口を開こうとするのは、そこに千鶴がいるからだ。そこにこの人がいるのならと、そう針路を決めるたび、相馬の中で声なき声が囁く。言葉にならない心の声が背を押すまま、相馬の指は果たして千鶴の薄い桃色の袂を捉えていた。
「探しましたよ、雪村先輩」
「あっ、おはよう! よく眠れた?」
「――はい」
 やんわり笑んで頷き、ほう、と息を吐く。
 人でなくなった相馬の身体は、眠り、目覚めるたびに違っていくようだった。疲れて泥のように眠っても、以前とは確実に何かが違っている。曇り空を見て安堵したその瞬間、相馬は改めて打ちのめされたように感じたものだ。唇を噛んでも、その傷はあっという間に塞がってしまうに違いない。強く握りこんだ拳の中で爪が手のひらを抉っても、流れた己の血が相馬自身を狂わせ、傷は跡形もなく消えるのだ。そうなるだろうと強い確信が生まれていることも、それを確かめるのも、未だ恐ろしくて出来てはいない。
 探ろうとしなくとも、じきに分かるだろうことは明らかだった。この船旅が終われば、またいずれ戦いは始まる。幹部が死亡、あるいは負傷し、隊士にも死傷者が大勢出た。相馬は次も前線へ出ることになる。戦えない者の分まで、あるいは千鶴を守るために。
 強く握りしめた袂を見た千鶴の瞳が、心配そうに相馬を見上げた。丸く、大きな目は出会った頃と変わらず澄んだ美しさをたたえている。小さく脆い彼女が、大きな不安の渦の中で必死に相馬たちを支え、抗っているのを知っている。
 相馬がそうであるように、隊士は彼女の側では眉間のしわが緩み、隠し切れぬ不安が少し影を潜める。重傷者は後続の船へ乗船したが、この船には新選組本隊が乗船している。当然無傷であるはずはなく、相馬が眠る前、千鶴は隊士の手当てを終えて、ほんのわずか休んでいたはずだった。
「寝ている間に姿が見えなくなると、驚きます。声を掛けてください」
「ごめんなさい。風に当たったら、すぐ戻るつもりだったから」
 大きいとはいえ行き場のない船上で、千鶴の姿を探すのは容易いことだった。それでも相馬は、そっと千鶴の手を取ると船室へと引き返す。何も言わず付いてくる千鶴の冷え切った指先を強く握りながら、震えて流れていく白い息を横目に見送った。
 べたつく海風を切るように足早に甲板を進む相馬の頭の片隅で、声なき声が呻いて笑う。息苦しさの幾分紛れた身体は、人であった頃と変わらず彼女を求める。不安や惑いを振り切るように震えて縋る手が握り返されるたび、相馬はまだ、自分が自分のままであると思い出すのだ。





薄桜鬼ワンライ01/24分、お題:曇天(16.01.24.)