好いも甘いも花の香の





 竹ぼうきが地をなぞる音が続いている。相馬が新選組で迎える二度目の秋は、静かに過ぎようとしていた。掃いた木の葉をさらうように風が吹くので、集めた葉には大きく古いすだれを掛けている。それでも端の葉は少しずつ動いているものもあって、今しがた集めた葉をすだれの下へ入れた相馬は、ちりとり片手にため息をついた。
 掃除の功徳のありやなしや、というところは相馬にはよく分からないが、少なくとも新選組にはあまり縁のない話だ。掃除自体は当番を決めて行っているが、あまり熱心とは言えない。この時期の終わりの見えない庭掃きをやりたがる者はそうそうなく、庭先には相馬の他にあと一人しかいない。
「相馬君、終わった?」
「あ、はい!」
 庭を掃除しているもう一人、千鶴が巻いたすだれを抱えて歩いてくる。小柄な彼女が軽くのけぞりながらやってくるのを見て、慌ててほうきとちりとりを放り出して助けに走った。大丈夫と遠慮する彼女の腕からすだれを取り上げ、落ち葉の山へ戻る。
 落ち葉は燃やして片付けるつもりだったが、風が強いので他へ燃え移らないよう風がおさまった後で火をつけることにしたらしい。それで、もう一つ古いすだれを持ってきて被せておくことにしたのだった。大きなすだれを二人で広げて落ち葉の山に被せる。二枚も重なればすっかり立派な重しになり、これなら目を離しても大丈夫そうだ。
 二人そろってふーっと息をつく。顔を見合わせて軽く笑いつつ、相馬はうんと伸びをした。
「雪村先輩、少し休みますか?」
 今日は夕飯の支度を手伝わせてもらうことになっている。千鶴の料理の腕は大したもので、相馬には学ぶところが多い。穏やかで優しい千鶴の手伝いが出来るのは純粋に喜ばしいことでもあった。しかし夕食の準備にはまだ少し早い。一服する時間くらいは十分あるだろう。もう一人の当番は誰だったかと思い返す相馬の隣で、不意に千鶴が「あれ?」と声を漏らした。
「どうかしましたか?」
「……何か、匂いが……」
 傍らの千鶴は瞼を下ろし、何か嗅ぎつけた様子で匂いを確かめている。
 色白の頬は先ほどまで動いていたせいかほんのりと赤らみ、閉じた瞼の先で長いまつげが伸びていた。頬をなぞるやわらかな風が黒髪と赤い髪結い紐を揺らす。
 小さな唇が「あっ」と言う声で相馬は我に返った。惑う視線を斜めに落としたところで、にこやかに千鶴が振り返る。
「金木犀かな?」
「えっ?」
「甘い匂いがしてるでしょう? でも、どこに咲いてたかな……」
 ううんと首を傾げた千鶴はすっかりそちらに興味を引かれた様子で、きょろきょろと辺りを見回している。見る限り金木犀の姿はなく、相馬の知る限りでも所在は定かでない。肩に触れ、その白いかんばせを覗き込んだ。
 千鶴の大きな瞳が相馬を映す。その穏やかな色に、揺れていた心が凪いでいく。
「掃除もひと段落しましたし、探してみませんか? どこから香るのか、俺も気になります」
「ありがとう! うん、気になるよね」
 はにかんで笑う千鶴と並び、ほうきとちりとり片手に歩き出した。


 初夏に移転してきたばかりの不動堂村の屯所は広い敷地を有しており、隊士たちは窮屈な思いをすることなく過ごしている。悠々と過ごせる理由は広さだけではなく、半年ほど前に御陵衛士として隊士が一部抜けたのも関係していた。思い出が詰まった西本願寺を離れたことでいくらか薄らいだが、それでもまだ折々に彼らを思い出しては言いようのないやるせなさに襲われ、改めて彼らの存在の大きさを感じる日々が続いている。
 匂いを辿り歩くことしばし、相馬と千鶴は屯所の裏手へ入り込んでいた。先日野村も一緒になって雑草を抜いた辺りを通り過ぎると、もうすっかり見なれない景色だ。千鶴もあまり来たことのない辺りだということで、二人して何となく言葉少なになる。
 裏手へ周りはしたが、羅刹隊が暮らす場所とはまた別の場所だった。そういう意味では良かったのだろうが、何とはなしに疚しい気持ちになる。相馬にとっては、千鶴と二人だというのがより一層後ろ暗い気がした。乾いた土を踏み、少しずつはっきりしてきた甘い匂いを辿りながら、知らず、視線は彼女のほうにばかり吸い寄せられる。
 ひさしの影が伸びる中、昼だというのに薄暗く、翳る中で千鶴の白いうなじが見え隠れしていた。彼女の性根のようにまっすぐ伸びる美しい黒髪は高く結わえられ、歩くたびにそれが右へ左へ揺れる合間、ほっそりとした首筋が覗く。健康的な、けれど女性らしい白くか細い姿がそこにあった。ああ、と漏れそうになる感慨をひっそりと飲み込む。
 新選組へ来た当初、告げられるまでどうして彼女の性に気付かなかったのだろう。一度知ってしまえば、千鶴の男装は相馬の目に意味をなさなくなった。女子のように愛らしく気遣いのある相馬の先輩は、正しく女子だったのだ。けれど今になって思い返せば、相馬は新選組に入る前に「女子のように細い」と千鶴へ話していた。当時を思い出すにつけ顔から火が出るように恥ずかしく、また何という失礼を働いたのかと悔いるばかりではあるが、とにかく今の相馬にとって千鶴はか弱い女子に違いなかった。
 もちろん小姓として頼れる先輩であり、尊敬の念を抱いているのも嘘ではなく、当初から変わらない。それは彼女の性に関わらず正直な気持ちだ。命令も約束もあるが、それがなくたって彼女を守ろうと思っている。そう思わせるだけのものが千鶴にはあった。
 けれど、だからといって。
 辺りを見回しながら少し先を歩く千鶴に気付かれぬよう、相馬はそろりと息を吐く。
 着物の袖から覗く細い手指。足袋に包まれた人一倍小さな足。狭い歩幅。目につくすべてが女子として完成された仕草だと感じてしまう。足運び一つとっても、彼女が親からきちんと躾けられただろうことは窺い知れた。こうして新選組へ身を置かず普通に暮らしていたのなら、所作の美しい、利発で気の利く美しい娘と評判だったことだろう。そんなことを、ふとしたときに考えてしまう。
 それが失礼なことなのかどうか、相馬には分からなかった。千鶴が女性として暮らしていたのなら当然の評価だろうと思う。けれど今は彼女本人も望んでここに暮らし、男装を続けているのだ。そんな千鶴を女性として意識するのは、千鶴が自分の意志で作り上げている像を否定してしまうことになるのではないか。
 草履の下で土がざりざりと鳴り、思案に揺れる相馬を現実から遠ざける。そんな相馬を引き戻すのは、いつも千鶴だった。
「あった! 相馬君、あそこだよ」
「……木犀ですね」
「九里香って本当だね。こんなに離れたところから香っていたなんて」
 喜色の滲む声に釣られ、相馬も相好を崩す。千鶴の指差す先で緑の木々に小さな橙の花が散らばっていた。花が見えないほど遠く先まで強く香るところから、九里香と呼ぶこともあるらしい。さすがに九里は離れていないが、先ほど落ち葉を集めていたところからここまではずいぶん距離がある。秋の訪れとともに咲く花の甘ったるい香りに、驚きと感心を込めて頷いた。
「雪村先輩は花にも詳しいんですね」
「ううん、私もそれほど詳しくはないの。ただ、江戸の家の近くにも咲いていたから」
「そうですか。江戸の……」
 懐かしいなあ、と呟いて千鶴は目を細める。そこに悲しげな色はない。ただ少し、遠い昔を思うように優しい眼差しを向けていた。その郷愁が、花の香りほど甘くないことは相馬も承知している。
 千鶴が新選組へ身を寄せてから、もう三年と半年以上が過ぎていた。当時のことは相馬も詳しく聞いてはいないが、そう楽しいことばかりではなかっただろう。相馬が初めて千鶴に出会った当時、彼女は幼い童に見えようかというほど幼かった。そんな年端もいかぬ少女が唯一の肉親を探し、たった一人で二十日近く旅をして京まで出てきたのだ。その心痛はおいそれと察せられるものではない。脱藩した相馬もあまり大きな顔をして故郷へ戻れぬ身ではあるが、家族が存命であるのは間違いない。どれだけ心を寄せようとも、その深い悲しみに触れることは叶わない。
 千鶴はあまり自分の境遇について口にしなかった。新選組が監察を動かしてまで探している彼女の父が今現在まで見つからない原因を隊士も、恐らく千鶴も薄々気付いている。その不安や悲しみを、千鶴は決して表に出さない。時折瞳が揺れ、そこに寂しげな色が滲むだけ。それも、彼女をこうして見つめていなければ見落としてしまうようなささやかなものだ。千鶴には、笑顔の印象ばかりが残る。
 ざあっと冷たい風が吹いた。耐えるように目を閉じた千鶴の横顔にそっと手を伸ばす。
 触れたい。
 ごく、と生唾を飲む音が鼓膜を揺らして指先が震えた。躊躇い、それから小さな肩へ触れる。
 風で乱れた髪を手で押さえながら振り仰ぐ千鶴へ、相馬は一拍言葉を探してからぎこちなく微笑んだ。
「長く日陰にいると冷えます。戻りましょう、雪村先輩」
「そうだね。付き合わせちゃってごめんなさい」
「いえ、俺も……来て良かったです」
 人知れず寂しそうにするあなたを、一人にしなくて済んだ。
 力の入らない手をそっと肩から離し、視線を金木犀へと移した。
「少し枝をもらいますか? 先輩の部屋に飾ったらどうでしょう」
 この甘い香りが千鶴の気を引いたのは確かだ。少しでも心痛を慰められるならと思って口にした相馬へ、けれど千鶴は首を横に振ってみせた。
「勝手に枝をもらうのはいけないだろうし、こんなことで土方さんにお伺いを立てるのも気が引けるから」
「……そう、ですね」
 残念だなと思うと同時に、ふと、この香りは千鶴を悲しませもするのかもしれないと思った。江戸を思い出すのは、父親と過ごした日々を思い出すのは、悲しいことかもしれない。
 言葉を探す相馬は、不意に何かを聞きつけて後ろを振り返った。誰の姿もないが、どこかで誰かが声を上げている。千鶴も気付いたようで、何か口を開きかけたとき、声の主はひときわ大きな声を上げた。
「雪村! いないのか!?」
「……はい!!」
 相馬も千鶴も、揃ってピッと背が伸びた。呼び声の主は副長の土方だ。顔を見合わせ、急いで走り出す。来た道をぐるりと駆け戻り、前庭まで戻ると廊下の柱に手をかけ辺りを見回していた土方があからさまに大きなため息をついていた。千鶴は気にした風でもなくただ急いで駆け寄るが、少し勢いを落とし後ろをついて追い掛けた相馬はやはり気圧されていた。
 ほうき片手に裏手から走ってきた千鶴を見てどう思ったのか、土方は怪訝そうに眉をひそめている。
「声かけても出てこねぇからどうしたかと思ったぜ。庭掃きか?」
「えっと、それは済んだんですけど、金木犀の匂いがして、どこに咲いているのか気になって……」
「金木犀? ……ああ、本当だな」
 すんと匂いを嗅いだかと思うと、土方は気が抜けた様子で肩をすくめた。どうやら何か用事があった訳ではなく、姿の見えない千鶴を気に掛けただけらしい。珍しく穏やかな様子で話す土方に相馬は驚くが、千鶴が平然と応えていることで、彼女にはさほど驚くべきことでもないらしいと知る。
 鬼の襲撃を退け、千姫の誘いも断った。今となっては千鶴の父・雪村綱道の所在如何に関わらず千鶴は新選組の一員であり、守るべき対象でもある。小姓として日々顔を合わせている千鶴の姿が見えなければ、土方が案じるのも無理はない。
「んで、匂いにつられてふらふらしてたのか」
「お庭では見かけなかったので、不思議に思って……。屯所の裏手に咲いていました。あまり行かない辺りでしたけど、……奥ではなかったです」
「――ああ、そうか」
 羅刹隊のいる辺りではないと暗に告げたのは、千鶴と同じように匂いの出所を興味本位で追い掛ける隊士がいないとも限らないからか。千鶴は単なる興味だけで確かめた訳ではなかったようだ。最初からそのつもりだったというよりは、確認できたので報告しただけなのかもしれないが。
 相馬も羅刹について説明を受けているし、千鶴や野村と共に世話係も任されていた。羅刹隊のいる辺りでなくて良かった、という点については相馬も気付いて報告しなければいけなかった。気を引き締めなければ、と自省して視線の下がる相馬の前で、千鶴と土方の会話は続いている。
 千鶴の報告を受けて少し考える様子を見せた土方だったが、結局こまぬいた腕を解くと片手でちょいと手招いた。
「掃除は済んだんだな? だったら茶ァ入れてくれ。近藤さんのとこに四人分だ」
「分かりました。すぐお持ちします」
「頼んだぜ」
 頷いた土方はまだそこに佇んだまま。代わりに千鶴はパッと身をひるがえしている。相馬は片手を差し出して、彼女を留めた。今出来る千鶴の手伝いは、これ以外にない。
「先輩、ほうきは俺が片付けておきます。先に行っていてください」
「いいの?」
「はい。片付けてから俺も手伝います」
「ありがとう。それじゃ、お願いするね」
 ホッとした様子で微笑むと、千鶴は相馬へほうきを手渡して駆けていった。高く結った髪が、赤い髪結い紐と共に揺れている。
「相馬」
「――は、はいっ!」
 両手にほうきとちりとりを持ったままそれを見送っていると、黙って見ていた土方が口を開いた。低く、鋭い声音。感情を抑えた、ただ一声で気圧される重苦しい気配。一気に気温が下がったような心地で、相馬は土方へと向き直る。
「お前、ずっとあいつに付いてるのか」
「はい。……あんなことがありましたから、以後は」
 どこで誰が聞いているとも知れない。言葉は控えたが、土方にはそれで通じたようだ。そうだな、と小さく呟いた。
 西本願寺の屯所が鬼の襲撃を受け、千鶴が拉致されようとしたのはほんの数か月前の話だ。あの事件をきっかけに相馬と野村は羅刹や鬼について説明を受け、新選組の深部へ触れることとなった。千鶴の事情のすべても、このとき聞かされている。当時は羅刹の事情を知らなかったために知ることはなかったが、春先の御陵衛士たちの離隊騒ぎも、羅刹が千鶴を襲ったことがきっかけの一つだったらしい。
 どちらも千鶴の身に大きな危険が差し迫った事件だった。先の屯所襲撃も、相馬では時間稼ぎにしかならなかった。それでも、千鶴は今無事にここにいる。
「俺は先輩と同じ仕事を仰せつかることも多いですから、出来る限りそばにいようと思っています」
 鬼の問題を除いても、千鶴は男装を隠さねばならない。いつぞやの三木とのいさかいのようなことがまた起きないとも限らないのだから、事情を知る者が誰かそばにいたほうがいい。
 緊張しながらもはっきりと答えた相馬を、土方はその紫炎の瞳でじろりと見つめた。相馬の背を、知らず冷や汗が伝う。
 後ろ暗いことなどない、はずだ。
 考えて、相馬は少し体が震えた気がした。
 相馬の冷や汗を知ってか知らずか、土方は軽く目を伏せてため息をついた。それからまた相馬を見たが、その色はずいぶん和らいでいる。
「付いててやってくれ。あいつは存外、無茶するからな」
「……はい」
 千鶴は誰かのために動ける人間だ。風間と相対し、怯え、震えながらも劣勢の相馬へ避けるよう叫ぶ人だ。相馬が退けば千鶴は連れ去られ、どんな無体を働かされるか分からない。それでも千鶴は相馬の犠牲を良しと出来ない人だった。か弱いのに強い。だから、その足りないところを、まだ及ばずながらも助けたいと思う。
 千鶴が無茶をしなくて済むよう、危険から遠ざけたい。安らかに微笑んでいるほうが、彼女にはずっと似合っている。
「――相馬、お前は……」
「はい、なんでしょうか」
「……いや、いい。それ片付けたら雪村を手伝ってやれ」
「分かりました」
 素直な相馬の応えに満足したのか、土方はそのまま廊下を引き返して行った。恐らく近藤の部屋だろう。ほうきを片付けて、相馬も千鶴の後を追わねばならない。
 短い対話でどっと疲れた気がする。けれど、腹に決めた決意がより重く強固にもなった。
 相馬には約束がある。御陵衛士となった平助と斎藤と交わした、男の約束。隊命もある。そして今また改めて土方からも頼まれた。
 けれど。だけれど、そんなものがなくとも。
 ざわざわと風が木々を揺らし、またあの甘い香りを運んでくる。甘く、けれどわずかに不安と切なさをはらんだ花の香り。瞼を閉じるまでもなく蘇る、千鶴の姿。
 風間が屯所を襲撃してきたあの夜、千鶴は相馬へこう言ったのだ。
 「相馬君が居てくれてよかった」と。
 結局、風間には敵わなかった。それでも千鶴を庇うことは出来た。彼女をここに留まらせることが出来た。悔しい思いと、少しでも力になれた喜び、存在を認められた嬉しさ。
 何より、深く重い事情を抱え、今まさに連れ去られようとしたあの事件の直後でも、戸惑う相馬を千鶴は気遣ってくれた。羅刹と鬼を知ってしまった相馬を、それでもまだ危険へ巻き込みたくないと話すのを躊躇った。彼女が口を閉ざしたのは隊のためでもある。千鶴が申し訳なく思うことなど何一つない。それなのに、相馬へ何度も「ごめんなさい」と謝った。
 それは相馬を気遣い、大切に想ってくれているからこそ出た言葉に違いない。それが分からないほど、相馬は鈍い人間ではなかった。
 彼女の信頼を裏切りたくはない。優しい彼女へ応えるためにも、出来ることはなんだってしたい。
 鼻先を掠める香りのように甘く、切なく、息詰まる感情に突き動かされるように相馬はその場を後にした。知らず急ぎ足になりながら、早く千鶴のそばへ行こうと、ただそれだけを思う。
 この苦しいほど胸を締め付ける甘さも切なさも、千鶴のそばにいれば楽になる。逸る相馬に分かるのは、今はまだそれ一つだった。






(15.10.17.)