恵みの方引きたる





 厨の入り口をくぐった斎藤は、一瞬目を見開いたのち、眉根を寄せた。

「……なんだ、それは」
「あ、斎藤さん。お疲れ様です」

 たすき掛けをした千鶴はまな板から顔を上げるとにこりと微笑んだ。その表情が明るいのはいい。笑みが愛らしいのも心を和ませる。が、少なくとも今はそれよりも所狭しと並べられた食材の様相について尋ねなければならなかった。
 何しろ、生まれてこの方、斎藤が見たことのある形状ではない。元の具材が何であったかは推測できるものの、菜っ葉から根菜、戻した乾物らしきものまで全て細長く切り刻まれている。火元を見ても何かを焼こうとしている様子はなく、澄まし汁でも作るのか、大きな鍋に湯がふつふつと煮えるのみだ。
 たすき掛けをする手が半端に止まったままだった斎藤は、何とか支度を整えつつ千鶴の手元を覗き込む。まな板の上では、平べったく焼かれた出し巻きがやはり細長く切られた状態で鎮座していた。まだ寒い冬の折である。まさか冷麦や素麺の具ということはないだろう。
 困惑を深めたまま、知らず小首を傾げて千鶴の顔を覗き込んでいた。

「これは……何を作ろうとしている?」
「巻き寿司です。大坂や京では、節分のときに恵方巻きと言って巻き寿司を食べる習慣があるのだと、近藤さんが」
「……それで、作れと?」
「そういう訳ではないんですけど、縁起物らしいので、せっかくだから作ってみようかと思って」

 話しながら大量の具を作り、刻んでいく千鶴に巻き寿司を任せ、斎藤は澄まし汁の準備に取り掛かる。作業の分担は明らかに千鶴のほうが多くなってしまっているが、巻き寿司を作るところに出くわすのはこれが初めてだから手伝いようがない。先日平助と町へ出た折に聞いたという手順通りに手際よく作る千鶴の姿に感心しつつ、その話に耳を傾ける。
 いわく、陰陽道により年毎に定められた「恵方」なる方角に向かって巻き寿司を食べる行事らしい。「縁を切らない」ために寿司は包丁を入れずに丸々一本食べねばならず、「福を巻き込む」ために巻き寿司の形状を取るのだそうだ。さらには「運が逃げる」からと食べきるまで口を利いてはならないという。
 願い事を思い浮かべつつ、恵方に向かって巻き寿司を黙々と食べきる。そういうものらしい。

「本当は鰯がご用意できたらよかったんですけど、鰯も柊も全員分ご用意出来そうになかったので」
「焼いた頭を飾って厄除けにする、あれか」
「はい。平助君が掛け合ってはくれたんですけど、勘定方の方に難しいだろうって言われてしまって。この太巻きも本当は具が七つ決まっているそうなんですけど、全部は用意できなくて、ただの巻き寿司になってしまいました」

 残念そうに笑うが、それでも千鶴の横顔は楽しそうに綻んでいる。大方、近藤が話したときや平助と方々を歩き回ったときのことを思い返しているのだろう。
 近藤は験担ぎや縁起物が好きなほうであるから、試衛館にいたころは厄払い、鬼やらいとして豆まきもしていた。斎藤が新選組へ合流した折にはすでにその風習はしていなかったが、忌み嫌ってやめてしまった訳ではなかったのだろう。近藤が喜びそうなことで、隊に悪影響が出る訳でもないのなら土方も文句は言うまい。あれで彼もなかなか風流を好む人であるから、季節を感じるような行事となれば喜ぶのではないだろうか。
 三つ葉を刻み終えた斎藤は、調理台の前を小さく右往左往しながら手を動かす千鶴に目を向ける。
 伊達巻がわりの出し巻きを何度も何度も作っては切り、作っては切り。またきゅうりを洗っては切り、洗っては切り。切ったものは皿へ積み上げているがずいぶんな量だ。一本丸かじりともなると支度は楽そうにも思えるが、それは食い気の盛んな新選組隊士のこと。一人一本どころで済むはずがない。それを延々と準備しつつ、斎藤がくるまでは添え物のおかずを用意していたようで、大きな鉢にハヤの甘露煮が山と積まれていた。
 ハヤはオイカワ目当てに原田や平助、果ては斎藤までも引っ張って釣りに行った新八が釣ってきたもので、残念ながら大半はウグイだ。小骨ばかりで骨きりにはずいぶん苦労しただろうに、千鶴のおかげでなかなかの逸品に仕上がっている。それを新八が「俺が言い出したおかげだ」などと胸を張るものだから、原田と二人で懇々と千鶴の労を説明したのが一昨昨日の話だ。半分は日持ちするよう塩漬けにしたり干したりしていたから、それを使って作ったのだろう。
 この甘露煮からも分かるように、とかく、千鶴は料理が上手だ。材料があれば何でもそつなく作るし、なければないでそれなりに見栄えするものを用意してくれる。千鶴が手伝ってくれるとなると食事当番も苦ではないともらす隊士もいるほどだ。当番自体は苦ではないものの、斎藤としても旨いものが食えるに越したことはないので、千鶴が手伝ってくれるのは喜ばしいことだった。
 何より、どうしてか千鶴と二人で食事を作るこの時間はとても心が休まる。いつにも増して楽しげな千鶴の姿を見ると、それまで抱えていた懸念もひと時なりを潜めてしまうのだ。交わす言葉はそう多くないが、無言であっても互いに息が詰まることはなく、むしろ少ない言葉でも相手の望むことが分かるさまが嬉しくもあった。あれ、それ、と指示語で言われても、このときばかりは千鶴の望むものがすぐに分かる。
 千鶴にとっても料理は楽しいらしく、近藤も千鶴も喜んで隊に悪影響もなく、珍しい旨いものが食えるとなれば斎藤が止めることなどありはしない。物珍しさも手伝って、今夜の夕飯も死線となるだろうなと目を細めた。

「お正月の残りも合わせたらまた福茶がご用意できそうなので、食後にお出ししますね」
「福豆もあるのか」
「はい。沖田さんが下さったので」

 近藤が何らかの話題を出したなら、それに添えるものを沖田が買ってくるのはよくあることだ。節分の食卓に出すなら、茶はもちろん福茶が望ましい。用意のいいことだと素直に感心しつつ澄ましの味をみる。
 炊き上がった米にかける酢を用意し始めた千鶴の揺れる黒髪を目の端にとめながら、ふと、斎藤は思案をめぐらせた。





「へーえ、恵方まきってのはこんなふうなのか」
「全部の具は用意できなかったけど、俺が千鶴と店で教えてもらったのもだいたいこんな感じだったぜ」
「そもそも太巻き自体久しぶりに食うな。うまそうじゃねぇか」

 いくつかの大皿へ積み上げられた太巻きの山を見て騒ぐ原田らを見張りつつ廊下と広間の境に立っていた斎藤は、土方を呼びにいった千鶴が最後の一皿を抱えて戻ってくるのを見て自分の席へと腰を下ろした。
 恵方巻きを食べることになった下りは平助や近藤からそれぞれ聞きかじっているらしく、みな興味深げに中の具や巻き具合を観察している。正確にいうなら、少しでも自分の好きな具が入っていそうなものを食べようと目をつけているのだろう。作り手にまわった斎藤はどの巻き物も同じ具だと知っているが、自分で作ったものより千鶴が巻いたもののほうが必要以上にきつく握りこめられて米が硬くなることもなく旨いだろうと分かっているので、さりげなく千鶴が巻いたほうの皿を自分や土方の座るほうへ配置していた。食べることへの欲求に関しては、斎藤も新八らのそれに引けを取るものではないのである。あとは千鶴が運んできた最後の皿を並べてしまえば、配分に関しては均等なのだから文句は出ないだろう。
 広間へ踏み入った土方に頭を下げ、後に続いた千鶴をさりげなく自分の隣へと導く。千鶴を挟んで反対側には、先ほどからどこか落ち着かない様子できょろきょろしていた沖田が腰を下ろした。普段千鶴は平助に呼ばれてそばへ行くことが多いから、少し珍しい並びかもしれない。

「待たせて悪かったな。じゃあ、近藤さん」
「おお。もうみんな聞いているようだが、今日は節分ということで、恵方巻きというものを用意してもらった。恵方なる方角へ向いて太巻きを食べきる、という縁起ものらしい。願い事を思い浮かべ、黙って一本食べきらねばならんらしいから、ひとまず最初の一本はみなそうして食べるといいだろう」
「今年の恵方は庚(かのえ)だそうですよ。ここからだと……ちょうど井戸のあるほうかな」

 近藤の話を補うように沖田が指し示す先はふすまの向こうだ。近藤が来るまで落ち着きない様子で歩いていたのは、これを近藤へ先んじて教えておこうと思ったせいかもしれない。
 二本目以降は各々好きなように食べればいいだろうというところに話は落ち着き、それぞれが目前の皿へ手を伸ばす。

「待て、皿を換える」
「え? なんでだよ、なんか違うのか?」

 皿を挟んで向かい側にいる平助が手を伸ばした先をふと目に留めた斎藤は、慌てて待ったをかけた。いつの間に入れ替えたのか、最後に千鶴に運ばせた皿が平助の前へと行ってしまっている。これではわざわざ千鶴を隣に座らせた意味がない。
 隣の千鶴も不思議そうに見上げていたが、お構いなしに千鶴の目の前にあった皿を取り上げて交換した。乗せている量自体は変わらないのを見た平助や新八を始め、珍しい斎藤の行動に周りの視線が集まってしまっている。別に疚しいことはないが、察しのいい沖田がにやにやと笑みを深めるのが見えて、言葉に詰まった。平助から取り上げた皿を千鶴へ渡して腰を下ろしたが、近藤までもが斎藤に眼をやっているので、仕方なしに口を開く。

「俺たちと同じ大きさの太巻きでは、千鶴には丸かじりが出来ない。この皿の上のほうに乗っているのは、いずれも細めに巻いたものだ。これは、千鶴にやる」
「わざわざ用意して下さったんですか? ありがとうございます、斎藤さん」

 実は、口に入りそうもなくてどうしようかと思っていたんです、と恥ずかしそうに笑った千鶴が頬を染めて見上げてくる。その視線を避けると、笑いをかみ殺したような曖昧な表情を浮かべた土方と目が合い、居た堪れなくなって板敷きに目を落とした。
 厨で千鶴から恵方巻きの話を聞いたとき、真っ先に千鶴が巻き寿司を頬張っている姿を思い描いてしまったが、それだって別段疚しい気持ちなどありはしない。たまたま、そばにいて話をしたのが千鶴だったから。それだけだ。
 思い描けば、千鶴の小さな口で食べられるのだろうかと疑問が浮かび、食べられないなら細いものを作ってやればいいという結論に落ち着くのも当然の成り行きだろう。何もおかしくはないはずだ。妙に気恥ずかしいのは気のせいに違いない。

「そういう細かいところ、斎藤はよく見てるよなあ」
「千鶴、それなら丸かじり出来そうか?」
「うん、大丈夫。私は少しで十分だから、私の分を頂いたらみなさんの手の届くところにお皿を持っていくね」

 正面に座る平助と原田へにこにこと笑う千鶴が巻き寿司を一つ手にしたところで、みな改めて手をつける。健康と更なる邁進を祈願する近藤の簡単な挨拶を挟み、いつもよりは少し静かな夕飯が始まった。
 形ばかりの恵方巻きとなってしまったが、特に口を挟まないところを見ると土方もこういうことは概ね嫌いではないのだろう。徳があるならそれもよし、なければないで、珍しいものが食べられただけでも十分だ。
 一本食べきった斎藤は、澄ましに口をつけながら何気なく千鶴を見る。小ぶりに作ったはずの巻き寿司も千鶴の小さな手には太く見え、それを両手で持ちながら懸命にもぐもぐと口を動かすさまは無性に愛らしい。やはりまだ少し大きすぎたようで、一口飲み込むたびに深呼吸するような勢いで大きく口を広げていた。次があればもっと細く作ってやらなければ、と思いつつ澄ましを飲み込む。
 ごくりと飲み下したとき、ふと、千鶴の向こうで湯飲みに口をつけていた沖田がにたりと悪い笑みを浮かべているのに気がついてしまった。嫌な予感に澄ましを置いて身構えるが、沖田は笑顔のまま既に千鶴の肩へと手をかけている。運の悪いことに千鶴は巻き寿司へかぶりついたところで、慌てて口を離そうとするその手を沖田の手が捕まえていた。

「せっかく一君が用意してくれたんだから、どんどん食べなよ。ほらほら」
「ん、んぐっ!?」
「総司!」

 沖田の手が巻き寿司を押し込もうと動いているのを見た斎藤は、急いでその手を打ち払った。途端に巻き寿司から口を放した千鶴が盛大にむせる。相当奥に押し込まれたのか、体を丸めてせきこむ姿に顔をしかめて沖田を睨むが、にやにやと笑ったまま千鶴の背にのしかかろうとしていた。

「いいもの見せてあげようか、一君」
「は? 何でもいいが、そこをどけ。千鶴がつぶれる」

 沖田を引き剥がそうと近づいた斎藤へ、沖田は抑えきれないとばかりに笑みを深める。そうして、いまだケホケホとむせている千鶴の顔を後ろからぐいと包み込むと、斎藤の目に入るよう上向けさせた。
 近さにぎくりと動きを止めた斎藤と、咳き込んだ呼気が斎藤にかからぬよう咄嗟にくちびるを噛んだ千鶴の視線が交わる。
 息苦しさからか、潤んだ瞳にはうっすらと涙の膜が張り、目尻と頬は淡く紅を引いたように朱を帯びている。小さく震えるくちびるは仄かに濡れて、こらえ切れない嘔気からか、薄く開いたくちびるの合間から吐息が漏れた。まっすぐに斎藤を見つめる目はわずかに戸惑いを孕み、揺らいでいる。
 眉をひそめた千鶴が、やはりこらえきれずにケホ、とむせる。開かれた口の中にぬらりと色づいて光る舌が見え隠れして、斎藤は目を瞠った。ぞわりと腹の下辺りからこみ上げる気配が、己の記憶の底から、似た何かを思い起こさせる。自分の経験ではない、何かで見たか、あるいは伝聞から想像しただけか、縁遠いがためにはっきりとは思い出せない。しかし、今の千鶴の痴態を見て思い出しそうになっている何かは、間違いなく――――

「……っ、許せ、千鶴」
「けほっ……けほ、けほっ……え?」

 目に涙を浮かべたまま首を傾げようとする千鶴へ目を向けぬまま、斎藤は自分の首巻を勢いよく取り払うと、白布を広げて千鶴の頭からばさりと被せた。

「斎藤?」
「……口をゆすがせてきます」

 斎藤の背に隠れて千鶴の様子は見えなかったのか、怪訝そうな土方の声にとつとつと応え沖田の腕から千鶴を奪い取る。ぞわぞわと斎藤を内から脅かす気配は納まらず、千鶴の膝裏に手を差し入れて抱き上げると広間を飛び出した。
 可能な限りの早足で廊下を進む。足音を荒げて歩いてしまえたら少しは気が晴れたのかもしれないが、それが出来る斎藤ではない。色々な思いが渦巻き、言葉にならず、苦渋に顔がゆがんだ。

「あ、あの……斎藤さん?」
「あのまま食事を続けるのは無理だろう。おまえの分は部屋へ運んでおく。そこで食うといい」
「はぁ……」

 難しい顔をしたまま有無を言わせぬ剣幕で言い募る斎藤に呆気に取られた千鶴は、斎藤の首巻に埋もれ、腕に抱かれたまま何がなんだか分からぬ様子で自身の手元に目を落とす。急に運び出されたせいで手に持ったままになっていた巻き寿司がかじりかけなのを見て、しまったと眉根を下げた。
 きょとんとしていた千鶴の表情が翳るのを見とめた斎藤は、足を止めぬままちらりと視線をやる。

「どうかしたのか」
「恵方巻き、一本食べきる前に口を利いてしまいました……」

 そう言って、まるで大事な預かりものを抱くように食べかけの巻き寿司を握り締める千鶴に毒気を抜かれ、ふと肩の力を抜いた斎藤は息をついて足を止めた。
 斎藤自身も取り乱したが、千鶴は千鶴でまだどこかぼんやりと現実味のない様子だ。しょんぼりと巻き寿司を眺めているが、斎藤に抱き上げられていることには未だ何の反応もない。身の内の猛りがすうっと引いていく感覚に胸を撫で下ろしつつ、そっと千鶴を下ろした。

「あ……す、すみません!」
「俺が勝手にしたことだ。それより、一度水でも飲んでくるといい。その間に部屋へ……」

 下ろされて初めて気がついたらしい千鶴の慌てた様子に、心が緩やかにほどけていく。調理中もこんな風に和んだのだったなと思い返しつつ口を開いた斎藤は、自らの算段にふと目をしばたかせた。
 部屋に持っていって食わせるのはいいが、それで千鶴のそばを離れたら、先に食べ終わっている者が千鶴の元を訪ねるのではないだろうか。事態を見ていたはずの平助や原田、永倉はもちろんのこと、沖田に至ってはさらに同じことを繰り返しかねない。そうでなくても、部屋で一人巻き寿司を頬張る千鶴の姿は誰かの目に触れてしまうかもしれない。
 大きく開けた口、覗く赤い舌、濡れた唇、少し苦しげにひそめられた眉――――

「斎藤さん?」
「なっ……なんだ」
「いえ、あの……早く戻らないと、斎藤さんの分、なくなってしまいませんか?」

 私はこれがありますけど、と握ったままの巻き寿司を持ち上げてみせる千鶴の、邪気のない表情をまじまじと見つめる。
 駄目だ。よくない。
 あんな表情、誰ぞに見られてはまずい。
 あんな――と、また先ほどの光景をよみがえらせようとする脳裏を必死に打ち消した斎藤は、かぶりを振って呼吸を整えた。目を開けば、少し困ったような表情で斎藤を見つめる千鶴がいる。
 こんなにまっすぐな目をした千鶴を相手に、己は一体何を考え、感じてしまったのか。自分自身への呆れと戒めをこめてもう一度深く深呼吸をしてから、なおざりに引っかかったままの白い首巻をきちんと巻きなおしてやると、一歩身を引いた。

「おまえさえ良ければ、俺もおまえの部屋で食べていいだろうか」
「はい、それは構いませんけど……」
「では俺の分も持っていく。……そういえば、食べ終えたら福茶を出すのだったな。食べ終えたら用意するとしよう」
「はい! それとは別に、斎藤さんのお茶、こちらで淹れ直しておきますね」
「ああ」

 たまには二人で食べるのも、静かでいいだろう。
 打てば響く会話に安堵して、斎藤はやんわりと目を細めた。





「分かった。なら、食い終わってもしばらくここにいりゃいいんだな?」
「はい。お部屋に戻られるのであれば、そちらへお運びしますが」
「いや、いい。ちっと食いすぎた」

 広間へ戻った斎藤は土方に千鶴の部屋で食事を取る許可を得ていた。戻った時点で既に巻き寿司はあらかた食べられてしまっていたが、斎藤が出て行くと同時に土方が二人分確保しており、大皿に盛られたそれを受け取って頭を下げている。
 出て行く間際、壁にもたれてのんびりと巻き寿司にかぶりついている沖田の皿から手付かずのものを選んで奪い取ると、見上げる沖田には目もくれず斎藤はさっさと出て行ってしまった。取り付く島もなかったなあ、などと思いながら見送るその背に呼びかける。

「福茶は僕らで用意しておくからさ、一君はゆっくりしてきなよ」
「食い終わったら戻る。あんたは余計なことをするな」

 声を荒げることこそないが、冷ややかな声音は怒りがにじみ出ていた。そのまま振り返ることなく去っていく黒衣の後姿から視線を外し、ふすまを閉める。斎藤が戻るなりかけた言葉が「眼福だったでしょ?」だったのもまずかったのかもしれないが、それに対する返答が吐き捨てるような「あんたも見たんだろう」というそれだったのだから、斎藤の怒りは沖田だけに向けられたものではないのだろう。
 あの真面目一辺倒な斎藤が自己嫌悪で八つ当たりしてくるなんて珍しいことだ。さすが千鶴ちゃん、とほくそ笑みながらお茶で寿司を飲み下す。そもそも、あんなにあからさまなのに自覚のない斎藤がいけないのだ。あれではからかって遊んでくれと言われてるようにしか思えない。普段は隊のことしか考えていない男が、千鶴のこととなると途端に鉄面皮が剥がれ、あれこれと迷いだすのがおかしくて仕方がない。
 千鶴の顔を見せたときの、息を飲んだ斎藤の様子を思い出してくつくつと喉を鳴らしていた沖田に、やれやれと近藤は肩をすくめた。並んでなにやら話していた土方も、呆れた様子で沖田を睨みつけている。

「総司、あまり斎藤君や雪村君を困らせるもんじゃないぞ」
「さっきのはやりすぎだ。千鶴をダシにして斎藤をからかうのもいい加減にしろ」
「やだなぁ、二人とも。僕はすっごく二人の幸せを願ってるんですよ?」
「どこがだよ」

 いつの間にか千鶴に絆されつつある土方が――こちらは自覚があるのだろうけれども、そこいらの平隊士なら竦み上がりそうな恐ろしい目つきで沖田を睨んでいる。近藤はそんな土方を宥めようとしていて、いつも通りの光景に沖田は目元を緩めた。
 千鶴が来て以来だろうか。まるで、試衛館にいた頃のような心持になることがある。こんなときはこっそり感謝もしているのだ。近藤にとって望ましい展開、沖田にとって居心地のいい場所。それを得るのは、何物にも代えがたい僥倖だ。斎藤の力も、近藤が望む新選組にはなくてはならないものだろう。手合わせをするたびに感じる高揚感も捨てがたい。
 湯飲みを空けた沖田は、二人にも分かるようふすまを少し開けると、その先を指し示した。

「果報は寝て待て、なんていうけど僕らにはそんな悠長なことしている時間はないじゃないですか。だから、ほら」

 まだ寒い冬の空気が流れ込んでくる先に井戸を見つけ、何かを言いかけた土方が言葉を失ったように口を噤む。何とも言いがたい表情でため息をついた土方とにこにこ笑う沖田の間で視線を往復させる近藤のために、沖田はもう一言つけくわえてふすまを閉ざした。

「二人には自ら福を迎えに行ってもらったんです。恵方には、神様がいるんでしょう?」

 次にここが開くとき、戻ってきた二人はどんな顔をしているだろう。期待を高めつつ、沖田はまた食べかけの巻き寿司へとかぶりつくのだった。





方引き(かたひき)=えこひいき
(10.02.03.)