嫋やかな睦び





 千鶴の朝は早い。
 居候の身だからと雑務を手伝わせてもらうようになってしばらく経った頃から、炊事当番の割り振りが増えてきた。さして得意だと思ったことはなかったが、江戸にいた頃から父に代わって家事は一手に引き受けていたので戸惑いは少ない。それでも幹部だけとはいえ、大人数の食事を作るのはなかなか骨が折れた。四苦八苦を重ねながら要領を掴んできた頃には、幹部隊士たちともそれなりに打ち解けていた。
 千鶴の飯は美味い、と永倉や原田、平助は太鼓判を押してくれている。自分たちが作る億劫さもいくらかあるのかもしれないが、江戸風の味付けを好んでくれているのは確かだった。
 どうも今までは調理の簡単なものばかりだったようで、単純におかずの種類が増えたことも彼らには喜ばしいことらしい。いつも戯れに脅したりからかったりする沖田でさえも、その点においては素直に褒めてくれたことがあった。
 自分が新選組のお荷物であり、仲間でもない厄介者だという自覚があるからこそ、そうやって喜んでもらえると少しは役に立てたようで嬉しくなる。朝食作りのための早起きも苦ではなくなったし、何を作ろうかと献立を考えるのは楽しくて仕方がなかった。

「これでよし、っと」

 汁物に焼き物一つ、煮浸しに和え物を少し。お上が奨励する一汁一菜からは足が出るものの、この朝食は近藤や山南にも「良し」とお墨付きを頂いている。庶民には難しい毎日の一汁一菜も、新選組だから何とかやりくりすれば朝夕くらいはどうにかこうにか用意できていた。池田屋事件や禁門の変での活躍もあってか藩からもらう禄がいくらか上がったようで、台所事情もほんのり潤っているというのが理由だ。それを嬉しそうに伝えてくれたときの井上の顔を思い出すにつけ、千鶴は面映い気持ちになる。

 『これでもう一種類は小鉢を付けられるだろうよ。雪村君、何が良いかな。君の作る食事はみんなを元気にさせるからね。一品でも増えたら、きっとみんな大喜びだ』

 そんな風に手放しに喜ばれて、もちろん嬉しくないはずがない。料理をすることも、それを喜ばれることも、千鶴の心を軽くさせる。最近はそこへ、もう一つ楽しみなことが加わっているからなおさらだ。
 調理を一通り終えると、盛り付ける前に着物の袂から一枚の紙を取り出す。昨日の晩に書いた手紙を丁寧に広げ、あらかじめ空けておいた場所に書き加えた。
 記した小筆と墨は厨の棚の隅にこっそりと置いておいたもので、この手紙ももう何度目かになる。相手の顔を思い浮かべながら盛り付けに取り掛かり、墨が乾いたのを見計らって丁寧に折りたたむと、また袂へとしまいこんだ。
 後ろ暗いことはないとはいえ、こっそり文をしたためるというのはほんのり鼓動を早めることだ。とくとくと高鳴る胸を押さえて意味もなく辺りへ視線をさまよわせる。ここで文字を添えるのは千鶴一人で食事を用意するときだけで、つまり今はそばに誰もいるはずがない。
 他人の不在を確認して一息つくと、あとは普段どおりに膳の用意を進めた。





「ごちそうさん。今日も美味かったぜ、千鶴」
「今日も一日やってやるぜ! って気になるよなあ。いやぁ、満足満足!」
「ありがとうございます」

 毎度こうして声を掛けてくれる原田と永倉に礼を言いながら、食べ終わった膳を片付けていく。隊士たちにはそれぞれ隊務があるので、片付けは千鶴が率先して行っていた。暇があれば自分の分くらいはと片付けてくれたりもするから、それほど苦労はない。
 二膳分の皿を重ねてよいしょと持ち上げたとき、不意に袂を下に引かれた。見れば、座り込んだまま茶をちびちびと飲んでいた沖田が袂を摘んでいる。

「あの、沖田さん?」
「これ、何?」
「え?」

 ぱちりと瞬きをして、千鶴は沖田の目を見つめる。いつもは見下ろされているのにな、と思いながら視線を追うと自分の袂へ行き着いた。
 ――何って、着物、だよね。
 そんなことを聞きたいのではないだろうとは思うものの、質問の意図がわからず首をかしげる。すると沖田は摘んだ指先を左右に振って微笑んだ。

「何か入ってるでしょ。たとえば、手紙とか」
「――――!」

 ぱあっと無邪気な笑みを浮かべた沖田の目は「さあ、どう遊んでやろうかな」という嗜虐的な輝きに満ちている。一瞬で青ざめた千鶴は、ぎくりと固まってしまった姿勢から、ぎこちない動きで視線を膳の上へ逃がした。

「え、っと……あの」
「とぼけないでよ。僕、知ってるんだから」
「ど、どうして……!?」
「あ、なんだやっぱり本当なんだ。あはは」
「なっ……」

 ぱくぱくと開閉すること三度、千鶴の心に「沖田から逃れるのは無理だ」と諦めの影が差す。どう足掻いたところで沖田から逃げられる訳がないのだ。これまでだって、誰かの助け舟なくしては助かったためしがない。
 一番助けてくれそうな人は先日から隊務に出たまま未だ戻らず、近藤と土方は早々に席を立っていた。あとは――
 縋るように上げた視線の先で、興味本位の無邪気な――こちらは本当に悪気のない笑顔が映る。

「え、なになに? 手紙?」
「まさか、恋文じゃねぇだろうなあ、千鶴」
「こっ、恋文ぃ!? ほ、ほんとか、千鶴ちゃんっ!?」

 自分の膳を手に身を乗り出してきた平助にも助けてもらえそうにない、と判別するより早く、やわらかくからかうような原田の言葉に顔が熱くなった。

「そ、そんなじゃありません!」
「あれ、違うんだ? じゃあ、それは誰に、どんな用なわけ?」
「それは……」

 にたにたと底意地悪く笑う沖田の手は未だに千鶴の袂を捕まえたままで、有耶無耶に終わらせる気がないと示している。千鶴が周りに内緒で手紙を、という話題に平助も原田も永倉もばっちり食いついてしまっていた。走って逃げ出すにも沖田の手があるし、そもそも追い掛け回されるだけだろう。屯所の隅っこまでしっかり追いかけてきて、わき腹をくすぐられて悶え苦しんだ先日の光景を思い出して血の気が引く。
 逃げられない、助けもない。それでも、手紙の内容を言ってしまうわけにはいかない。千鶴が何か言われるのはともかく、相手に迷惑がかかってしまう。
 どうしよう、どうしよう――――!
 青ざめたまま知らず沖田から距離をとろうと後ずさる千鶴に、湯飲みを置いた沖田が同じだけ近づいていく。逃げるには無用、と千鶴も後退しながらすばやく膳を畳に下ろした。そうする間にも沖田の捕食者の目はぎらぎらと輝いて、

「それっ!」
「きゃあっ!?」

伸び上がるように飛びつかれてそのまましたたかに尻を打ってしまう。驚きと痛みに固まった隙に、手首にするりと人肌を感じて、ぞわりと駆け上る悪寒に身を震わせたときには袂の中へ手を突っ込まれていた。
 器用に目的のものだけを引き当てた沖田が、満面の笑みで立ち上がる。その手には、折りたたまれた白い紙が握られていた。

「あああっ! か、返してください!」
「うん、いいよ。誰宛か確かめてからね」
「だ、だだだ、だめです! だめ! 見ないでください!」

 止めようか止めまいか迷う平助らに頼ることを断念し、千鶴は手紙をひらひらと泳がせる沖田の手元へ飛び上がった。が、当然そんなことで取り返せるはずもなく、その場でくるくると身を翻して笑う沖田のいいように遊ばれてしまう。

「あっははは! 千鶴ちゃん、猫みたい!」
「ね、猫でも何でもいいですから、それ! 返してください!」
「そこまで必死に言われると、余計に返したくなくなっちゃうなあ。それに僕、返すって最初から言ってるじゃない。ただちょっと宛名の確認をするだけだよ。ほら、僕はこれでも新選組幹部だし。御用あ・ら・た・め」
「そ、そんな……!」

 沖田が動き回らなくたって千鶴には到底届かない高さで手紙がゆらゆらと揺れる。透けて文字が読めてしまうようなことはないだろうけれど、今にもはらりと広げられてしまいそうで気が気でない。

「ほーら千鶴ちゃん、こっちこっち!」
「沖田さんっ! お願いです、返してください!」
「うーん、どうしよっかなあ。なんだか楽しくなってきちゃった」
「沖田さん!」

 届かなくとも諦めるわけにもいかず、高く一つに結った髪を揺らしながら千鶴は沖田へ手を伸ばす。わざと掠めるように手紙を揺らす沖田は、声を上げて笑いながらするすると下がっていった。
 右へ、左へ、白紙が揺れる――

「――何を騒いでいる」

 不意に、沖田の手から白が消える。その場にいた全員がはっと視線を向けた先、沖田の背の後ろに呆れ顔の斎藤が立っていた。居合いのように閃かせた左手の指に、白い紙が挟まっている。
 途端つまらなそうに顔をゆがめ、けれど思い直した沖田はにこりと笑んで手を差し出した。

「おかえり一君。それ、返してくれるかな」
「……おまえのものではないだろう」
「一君のでもないよね?」

 いいからよこせ、とは言わず沖田は笑みを深める。千鶴や遠巻きに様子を見ていた平助たちが口を開くより先に、斎藤はかぶりを振った。
 ちらと横へ投げた視線は食べ終わったまま片付いていない広間を指している。

「総司、千鶴をからかうな。片付けも済んでいない。仕事の邪魔をしてやるな」
「別に少しくらい良いじゃない。それに、それ。千鶴ちゃんが書いた手紙なんだ。中を検める必要があるでしょ」
「――そのために奪ったのか?」
「万が一僕らの秘密をばらすような内容だったら困るしね」

 そんなことは有り得ないけど、と沖田の顔には書いてある。真剣に疑っている訳ではないのだ。ただ単純に宛名が気になるだけ。ひた隠しにする内容も気にかかるし、何よりからかうと面白そうだったから。
 それでもこう言えば斎藤は中を見ずにはいられなくなるはずだ。これも新選組のため、といえば動かないはずがない。
 すべて計算の上での沖田の台詞に、視線を手元へ落とした斎藤は、わずかな逡巡の後に顔を上げた。

「千鶴、おまえの嫌疑を晴らすため、今ここで内容を検める。いいな」
「え、あ、の……でも、それは」
「宛て先が新選組の幹部宛であれば問題ない。私用に口を挟むほど野暮ではない」

 立て板に水をかけたようにスラスラと言い放つと、唖然とする沖田の前でするりと折りたたまれた手紙を開いた。向き合っている沖田には、その内容は見えない。覗き込もうと足を踏み出したところで、斎藤の手が再び動いた。折り目正しくたたまれた手紙を手に、沖田の隣を通り過ぎて千鶴の手を取る。
 押し付けるように持たせた手紙を、手のひらごと小さな体に押し付けるとそのまま千鶴の背中を押した。

「内容に問題はなかった。むしろ、今すぐ届けたほうが良いだろう。早く行け」
「――はっ、はい!」
「あ、ちょっと!」

 沖田の制止に振り返りはすれど、千鶴は困ったように視線を揺らして、けれど頭を下げて廊下を足早に進んでいってしまう。恨みがましい視線が背に刺さるのも気にせず、斎藤は千鶴の背に呼びかけた。

「他人の目に触れぬよう、今後は部屋の中へ届けろ。隙間から差し入れておけばいい」
「わ、分かりました!」

 律儀に振り返って頭を下げる千鶴を見送り、斎藤はゆるく首を振った。夜通しの任務を終えて屯所に戻って早々に見たのがこれだから、ため息の一つや二つ出るのは致し方ない。
 が、斎藤の嘆息は呆れではなく、少し矛先が違っていた。

「総司も総司だが、平助、左之、新八も。何故黙って見ていた?」
「あー……それは、その」
「はたから見れば幹部四人がかりでいびっているようにしか見えなかった。恥ずかしいとは思わんのか」
「わ、悪かったよ! 左之のやつが恋文だー、なんて言うからついつい気になっちまって……!」
「お、俺だけのせいにすんな! 俺ぁ、そうかもしれないって話をしただけで――」
「御託はどうでもいい」

 原田たちの言葉をみなまで言わせずばっさりと切り捨てる。剣呑な目にははっきりと苛立ちがにじんでいた。やりすぎたとうな垂れる三人を尻目に、「それで?」と口を開いたのは沖田だ。
 向き直った斎藤の冷たい視線を全く気にもせず、反省の色もない。

「結局中身は何だったのさ。宛名は? あれは誰に向けたものなの?」
「新選組幹部宛てだ。俺たちの機密に触れたものではない」
「だから、誰なの? 具体的な内容は?」
「俺は新選組のため、幹部として検めた。内容が害のないものだった以上、口外する必要はない」
「なにそれ。一君だけ知っちゃうなんて、ズルくない? 元々中を確かめようとしたのは僕なのにさ」

 口を割らない斎藤を苛々と睨みつけるが、それでどうにかなるはずもない。不機嫌もあらわに大きなため息をつくと、沖田は背を向けて立ち去ってしまった。千鶴が行ったのとは逆方向だから問題ないと判じたのか、斎藤はふいと視線を戻すと取り残された三人の脇を通り過ぎていった。隊務から戻った折なのだから、土方の下へ報告に出向くのだろう。
 肌を切るような緊迫した空気が霧散して、誰ともなく安堵の息をつく。

「千鶴に悪いことしちゃったな。あとで謝らねーと」
「だな。それにしても斎藤のやつ、おっかねえったらねえや」
「けどまぁ、言ってることは正論だからなあ。ちっとばかしうらやましい気もするが……」

 結局あれは何の用事だったのかね、と原田は呟いた。先ほどのやり取りで何となく宛て先は分かってしまったが、平助と新八は気付いた様子がない。千鶴のためにも、わざわざ助けに入った斎藤のためにも、黙っていたほうがいいのだろう。

「幹部宛てで俺らじゃないなら、土方さんとか?」
「んなことしなくても、千鶴ちゃんは土方さんの小姓なんだから正面切って言いに行きゃあいいじゃねえか」
「会議中に! とか……」
「それなら手紙見るのは会議終わった後だろ。だったら終わったところで言いに行っても変わんねえよ」
「ああ、そっか。じゃあ近藤さんか、山南さんか、あとは――」

 これ以上の無粋な詮索はやめておけと二人を窘めつつ、原田はううんと首をひねった。
 相手の推測は立ったものの、さて、内容はなんだったのだろうか。





 報告を済ませると、文机に向かったまま聞いていた土方が振り返って軽く目を伏せた。

「ご苦労だったな。今日はゆっくり休んでくれ。明日からまた、頼む」
「はい。お気遣い感謝します。では、これにて」

 畳に突いたこぶしを支えに殊更ゆっくりと頭を下げて、斎藤は静かに部屋を辞した。息をつめたまましばらく歩き、気配を気取られぬほど離れたところで深い息を吐き出す。
 一睡もしないまま、もう丸二日ほど動き回っていた。食事も携帯食であったり、あるいは時間を取れず抜いていたりしたのでいい加減に疲れが押し寄せてきている。昼前の静かでのどかな雰囲気は元より、包み込むようなぬるい風もまた、疲れと眠気の底からめまいを引き出そうとしていた。
 何か腹に入れて、それから。
 食べるものを、と意識がわずかに覚醒したとき、厨へ向けていた足をぴたりと止める。不自然な動きになったな、と思いながら自室へと取って返した。一度戻ってまた厨へ行くのは多少手間がかかる。だが、それ以上に利があることもまた、斎藤は理解していた。
 気を抜かぬよう、知らず息を殺し、気配を殺して進む。自室の戸に手を掛けてようやく、ふ、と息を吐いた。沖田にでも見られていたら事だ。慎重に、けれど普段と変わりない様子で襖を滑らせる。
 視線を下げると、案の定、白い紙が落ちていた。すぐには拾わず、部屋に入り戸を閉めてからそっと手に取る。沖田との取り合いでややくたびれた感のあるそれに改めて目を通すと、連なる言の葉の一字一字に目を細めた。筆遣いの丁寧な部分と、少し乱れた部分がある。墨の色も違っていて、どうやらその部分を厨で付け足したのだろうと分かる。おそらくはそういったときに沖田に見つかっていたのだろう。現場を押さえず後で他の者もいるときに声をかける辺り、意地が悪い。
 沖田が近藤や土方以外にこだわるのは珍しいことだから、彼女には難儀なことだが、気に入られているのは確かだ。歳や実力が近いこともあって斎藤も度々無理難題を吹っかけられるが、それでも近頃の千鶴の比ではないだろう。ひときわ大きな背を持つというのに、沖田の中身はずっと子どものままだ。気に入っているからこそからかって遊んでしまうのは誰の目にも明らかで、それでいて、千鶴が本気で怯えて逃げ出すと不満げにするのだから手に負えない。
 隊の中でもずば抜けて変わり者の沖田でさえこうなのだから、他の者は言うまでもない。
 屯所に軟禁状態であることに加え、周囲の者とも壁があるままでは気が参ってしまうだろうという懸念はなくなっていた。千鶴を監視するようにとの命令は既になくなっているにも関わらず、幹部の誰もが以前より千鶴との距離を近づけているのが何よりの証拠だ。あの土方でさえ、口では小姓なんざと言いながら千鶴の細やかな気配りに感心している。庭先へ出るにも渋い顔をしていたのも今は昔、出掛けの見送りをする千鶴に一言二言声をかけて出るようにまでなっていた。
 そこまで考えて、不思議なものだと目を閉じる。知らず、口元には笑みが浮かんでいた。

 文机へ向かい、硯に墨を磨っていく。
 襖の外も、内も、静かだった。
 斎藤の部屋は屯所でもそれなりに奥まったほうにある。隊内で立場が上の者ほど奥へ部屋が用意されることに加えて、暗殺だ密偵だと他の隊士に口外出来ない仕事を任されることの多い斎藤には人気のない静かな部屋が与えられている。日中の屯所でもゆっくり休めるように、あるいは闇に乗じて戻った際に何も知らぬ平隊士と出くわさぬように考えられてのことだ。
 静かな部屋に墨をする音だけが落ちる。人の気配も、音も、遠く隔てた向こうのように感じられる。
 千鶴の部屋もまた、奥まった場所にあった。平隊士と出会わぬように、しかし幹部の部屋にも迂闊に入り込まぬように。与えられた部屋は決して大きくはないが、小柄な彼女には十分な広さがあった。何度か足を運んだ部屋はいつも整然と片付いていて、時折小さな皿に花が浮かべられているくらいしか目を留めるものもない。
 小さく静かな部屋で、千鶴も墨を磨り、筆を運んだのだ。余計な詮索が行かぬよう、斎藤に迷惑が掛からぬよう、こっそりと人目を避けて文字を綴った。その様がまぶたの裏にぼんやりと浮かんで、斎藤は墨を磨る手を止めた。
 結局、自分も同じだと自嘲する。
 絆されている自覚はあった。監視対象ではなく保護対象として扱えるようになり安堵したときから、あるいはもっと以前から、好ましい感情は芽生えていた。
 まっすぐ、誠実な少女はいつも澄んだ眼で物事を見据えている。同じ年頃の娘が同じ立場にあれば、泣き暮らしていてもおかしくはないはずだ。ただ一人の肉親を探して遠く京都まで足を運んだその心は不安で満たされているだろうに、千鶴はことあるごとに笑顔を向けてくれる。声を掛ければ微笑み、言葉を重ねればありがとうございますと頭を下げる。素直で裏表がない千鶴の懸命さは、いっそ痛ましいほどだ。
 いつかの酒の席で、原田と平助が話していたのを思い出す。

『いっそ泣いてくれりゃあ、って思っちまうぜ。慰めても、逆にこっちへ気ぃ使われてちゃ意味がねえ』
『うーん……。でも、千鶴は千鶴で、覚悟決めてここまで来たんだろ? だったら、泣かないで頑張ろうとしてる気持ちも汲んでやったほうがいいんじゃねえ?』
『そりゃそうだけどよ。……いつか潰れちまわないか、ってな』

 千鶴を屯所へ押し留めている自分たちが何を、と思わなくもない。それでも、千鶴の存在は新選組にとって――少なくとも幹部にとっては、なくてはならないものになっている。隊士ではなく、思想を同じくする仲間でもないが、出来ることなら日々健やかに過ごせるようしてやりたいと思う。見送られ、出迎えられ、そうして顔を合わせるたびに血なまぐさい日々の中で救われたように感じるのだ。守ってやらねばと思うのは、ごく当たり前の感覚だった。

 いつの間にか押さえ込んでいた息を吐いて、筆を取る。
 千鶴もこうして筆を手にし、己のことを考えて文字を綴ったのだと思うにつけ、言いえぬ想いが胸の内を占めた。もやがかったそれは、文字通り筆舌に尽くしがたい。不快ではない、けれど快くもない。焦燥にも似たその想いは、果たして千鶴にも去来しただろうかと不意に考える。
 同じように筆を取り、同じように戸惑いを感じていればどんなにか――――
 その先は分からない。
 不快ではない。それだけは、はっきりと分かる。
 じりじりと焼け付くような痛みは、胸の内でくすぶりながら斎藤の身を焦がしていく。最初は小さな火種だったはずだ。消そうと思えば消すことも出来たはず。けれど消さず、あるいは消せずに。
 返礼の言葉を綴りながら、小さくかぶりを振った。
 こうも思考が酩酊するのは、きっと疲労のせいだ。早く休んでしまうに限る。そのためにも、この手紙を書いてしまわなければ。
 千鶴の手紙は女人らしいゆるやかな筆遣いで書かれていた。作法にも学にも過不足なく、大人しい娘の選んだ言葉は朗らかな優しさがにじんでいる。
 労わりの言葉と屯所を離れていた間の出来事を簡単に記した後は、用意した食事の内容と隠し場所が続く。末尾には日ごろの感謝と礼を綴り、一時も早い帰りを待つとの言葉で締めくくられる。言いようは変えても、千鶴の手紙はいつもこんな様子だ。
 隊務で屯所を離れるたびに送られるそれを、どうしてか他の手紙とは別に保管していた。帛紗に包んで文箱へ入れ、行李の底へ仕舞う理由は意識して考えないようにしている。他の者へも同様に送っているのか尋ねないのも、他の者へ千鶴と文を交わしていることを伏せているのも、同じところに起因するのだろう。
 突き詰めて考えれば答えは出るのかもしれない。おぼろげな形は既に分かっていて、おそらく、と斎藤自身も否定はしていない。はっきりと自覚してしまえばお互いに気まずくなるだけだ。心優しい千鶴には、重荷にすらなるかもしれない。
 そうした懸念を抱くこと自体、手遅れなのだろうとも分かっていた。結局、どうにもならない想いを持て余しているに過ぎない。隊務を理由に関わっていれば己にも他者にも体面が守れる。命令を逃げ道にしている己を恥じても、これ以外に身の振り方が分からない。
 それでいて、千鶴との接触が最低限とは到底言い難い範囲へ及んでいる矛盾には、笑うほかなかった。わざわざ隠れて食事まで用意させているのが何よりおかしいではないか。

 重苦しくため息をついたところで、板敷きの廊下が鳴る。気配を消しているわけでもないのにやたらと軽い足音の持ち主は一人しかいない。足音を立てぬよう慎重に歩みを進める気配へ視線をやりながら、じっと息を潜めていた。
 果たして斎藤の部屋の前で足を止めたその者は、そうっと腰を下ろして静かな部屋の中へと呼びかける。

「雪村です。斎藤さん、……まだ、起きていらっしゃいますか?」

 既に休んでいると思っているのか、ささやくように小さな声が落ちる。
 所作も気遣いも、どうしたって女としか思えないものだ。意識する、しないに関わらず、斎藤にとって千鶴は女だ。当初はともかく、今では子どもと払うことすら出来ない。
 結局書き終わっていない手紙に目を落とし、筆を置いた。殊更のろのろと筆を運んでいたのはまるでこうなることを待ち望んでいたようで、近頃幾度となく味わっている苦い想いが胸の内に広がる。
 他者に聡い少女が案ずることのないよう、考えていた全てを思考の奥底へ追いやってから口を開いた。

「ああ。入れ」
「――失礼します」

 ほっとした様子で返事をした千鶴は、するりと襖を開けてこうべを垂れる。細く開かれた襖の向こうには穏やかな日差しが降り、千鶴の濡れ羽色の髪を照らしていた。面を上げて脇に置いていた膳を運び入れると、襖を閉めた千鶴は改めて深々と頭を下げる。

「斎藤さん、おかえりなさい。お勤めご苦労様でした」
「……ああ。おまえも、変わりないようで何よりだ」
「はい、斎藤さんもお怪我がなくてよかったです。それに……あの、さきほども。ありがとうございました」
「礼には及ばん。ただ、先ほども言ったが、あまり文を持ったままうろつかない方がいいだろう」

 はいと答えて首肯する千鶴から視線を反らし、持ち込まれた膳に目を落とす。斎藤の視線を追った千鶴ははにかんで目を伏せた。

「台所に用があったのですけど、まだ取りにいらしてないようだったので勝手にお持ちしてしまいました」
「すまない。手紙を返してからと思ったら、遅くなった」
「いえ、そんな! 私が勝手にしていることですから、気にしないでください。……それで、あの、汁物を温めなおしたので、よければ温かいうちに召し上がってください。すぐにお茶もお持ちしますから」
「――待て」

 赤くなった顔の前でわたわたと手を振った千鶴があわただしく立ち上がろうとするのを、不意に押し留める。咄嗟に掴んでしまった手首は折れそうなほど細く、白く、その肌のすべらかさに言葉を失った。己の鼓動が脈打つ音が鼓膜に響き、何気なく飲み込んだ唾がやけに生々しく感じる。分かりづらい表情の下に動揺を押し隠し、斎藤は小さく息を呑んだ。
 この一時を惜しんでいる。それ以外に引き止める理由などありはしない。
 ああ、と諦めとも感嘆とも取れぬ呟きがひそやかに広がっていく。手の冷たさも、震える鼓動も、どうか千鶴にだけは伝わってくれるなと祈りながら、それでも口にしたのは。

「暇があるなら、おまえの分も持て」
「――はい!」

 ぱっと喜色を浮かべた千鶴は、斎藤の手からするりと抜け出ていく。小さな足音が廊下の向こうへ遠ざかっていくのを聞きながら、改めて「ああ」と口に出してみた。
 一つきりの膳から香る匂いはどれも美味そうで、菜っ葉の浮かんだ味噌汁はほのかに湯気を立てている。米も冷え固まったものではない。台所に用があったというからそのときに湯通しでもしたか、あるいは出かける誰かへ持たせるために炊きなおしたのか。
 どちらにしても、食事時を逃したにもかかわらず、斎藤の目の前には千鶴の作った料理が並んでいた。普通ならありえない話だ。食事時間の壮絶な争いで食事はあらかた平らげられているはずで、次の食事は今日の昼食まで待つしかない。それを、こっそりと隠し置いてもらうようになったのは一体何がきっかけだったのか。
 再びつらつらと考えに浸りそうな思考を振り切ると、文机へ向かい筆を取った。
 食事の礼は既に告げ、不在の折の話は千鶴が戻れば話題に上るだろう。手紙の返礼は記し終えているが、斎藤の手紙はまだ続きの言葉を探していた。
 気の利いた言葉も、千鶴を楽しませるような話題も持ち得ない。それでも何か、と思案に沈む。
 いっそこの胸の内に巣くう、斎藤自身でさえ得も知れぬ想いをすべて伝えてしまおうか。この焼け付くような熱を、やしおりの酒にも勝る芳香を。
 出来もしない空想に、苦い笑みが広がった。

 温かな食事の香る部屋の中、ただ静かに目を伏せて小さな足音が戻るのを待つ。めまいがするほどの眠気はなりを潜めていたが、それすら滑稽に思えた。
 弧を描く己の唇に触れ、先ほど掴んだ細い腕を思い出す。
 あの柔らかな肌に今一度触れたいと、鈍くまどろむ脳裏にはそれだけが所在無く漂っていた。





嫋やかな睦び(たおやかなむつび/タイトル提供:「艶花落」主催さま)
(09.12.21.)