いとしいとしと言う心





「そうか、ご苦労だったな」
「いえ」

 ゆるりと首を振り、斎藤は、ふ、と一息吐いた。
 伊東派の内情を知るため御陵衛士として潜り込んでから幾ばくか過ぎ、この報告も回を重ねている。心根を隠して御陵衛士を務めるのも、こうして闇に隠れて新選組の屯所まで報告に戻るのも、失敗は許されない。ゆえに、いつも緊張の糸は張り詰めていた。
 ため息とも取れない短い嘆息を聞き流しながら、報告を受けていた土方が腕組みのまま眉間にしわを寄せる。

「近藤さん、どう思う。俺はまだ、今しばらくこいつをあちらさんに潜らせていいと思うんだが」
「そうだな、俺もそう思う。すまないが斎藤君、もうしばらく頼みたい」
「仰せのままに」

 疲労の影もなく静かに頭を下げて礼をとると、一拍おいて土方のため息が落ちた。

「悪いな、斎藤。すっかりお前に憎まれ役を押し付けちまった」
「お気遣いに感謝します。ですが、新選組のためとあらば俺に迷いはありません」
「……ああ。たく、お前の爪の垢を総司たちに飲ませやりてぇもんだぜ」
「ははは。まあ、そう言うなトシ」

 ぼやく土方に近藤が軽いいらえを返し、室内に満ちていた空気の密度が緩む。久しく会っていない同僚の名前が出たことで、斎藤は不意に有り体なことを問うた。

「こちらは変わりなく?」
「ああ、……いや」

 大よそいつも通りだ、という返答が毎度のことだった。
 沖田が巡察の帰りにふらふら土産物屋に行ってしまっただとか、永倉と原田が屯所で酒盛りをして騒ぎすぎただとか。あまり良いことではないが、ある程度は許容し得る範囲だ。
 ところが土方は歯切れの悪い相槌を返して、一寸の間に逡巡を重ねた。斎藤に話すべきか否か、という迷いだ。無駄な心配を掛けるべきではないかと脳裏の振り子がゆらゆらと迷ううちに、しかし、近藤が言葉尻を拾い上げていた。

「実は今、雪村君が熱を出して寝込んでいてな。昼になって休んだばかりで、今は様子を見てるんだが」
「……雪村が、ですか?」
「このところ塞ぎ込んでいたらしい。心労からくるものじゃないかと聞いたが。なあ、トシ」

 同意を求められて浅く頷きながら、土方は先ほどまでの思案を放り投げた。伝えたところで、斎藤なら任務に支障をきたすような真似はしないだろう。ここで隠し立てするほうが余程気がかりになるはずだ。

「総司と原田、山崎が同意見だったから間違いねぇだろう。綱道さんの手がかりが見つからねぇ上に、割合親しかったお前と平助が急に抜けたからな」
「疲れも溜まっていたのかもしれんし、しばらくはゆっくり休ませることにしようと思う」
「そう、ですか。雪村が……」

 斎藤の目線が畳へ落ちる。雪村の名を聞いたとき唾を飲んで以来、口の中がやけに乾いていた。
 雪村。雪村千鶴。
 新選組を離れるまでは、何かと共にあることの多かった少女である。
 不運と不遇に見舞われながらも明るく前向きで、なかなか肝の据わった女子だった。物騒なこの時勢に、男装をしているとはいえ、一人で京まで上った胆力は相当なものだ。もっともそれは、唯一の身内が消息を絶ったから、ということに起因するのだから、単純に考えれば、彼女の決意には悲壮なものも含まれていたのだろう。不憫なことだ。
 彼女本人から、そういった重苦しい事情を聞くことはあまりなかった。彼女自身思いつめないよう努めていたのだろうし、周囲への配慮に長けた性格であったから、心配を掛けまいとしていた部分もあったのかもしれない。
 わずかに顔をしかめた斎藤は、今度こそため息を吐いた。意図したものだったかどうかは、分からない。

「……では、俺はこれで」
「ああ。ご苦労だったな」

 頭を下げ、部屋を辞してからも少女のことが頭から離れなかった。足は自然、彼女の部屋へと向いていた。




 濡らした布を軽く絞り、額に乗せる。二、三度繰り返して斎藤は苦みばしった表情をさらにしかめた。
 ほんの一時のぞくつもりで千鶴の容態を見てみれば、熱はずいぶんと高かった。軽いものではない。たちの悪い風邪にかかってしまったのだろう。
 小さな部屋で一人眠る少女の傍らには、汗を拭く布も、薬も、水もない。誰かが看病した形跡が一切なかった。
 苛立ちは募る。
 彼女に関わることが出来るものは幹部連中ばかりで、尊攘派の離隊で人手の減った新選組に手隙の幹部などいないのだろう。それにしたって、薬や水の一つも持ってこられないのだろうか。
 いや、違う、と猛る怒りを静めるように自分へ言い聞かせる。おそらく、寝込み始めた昼は差ほどでもなかったのだろう。だから看病はいらないと判断された。それが、夜半になって悪化したのだ。故に誰も見ていなかった。それだけだ。
 土方と近藤が事態を把握しているのだから、彼女の存在が軽視されている訳ではあるまい。たまたま、不運が重なっただけのこと。彼女自身の境遇と、まったく相違ない。

「……千鶴」

 常より早い呼吸と上気して疲れきった寝顔を目に映すと、息苦しくてたまらなかった。
 平助と己の離脱で心を痛めていたという。実際、そうなのだろう。
 出て行くと決まったその日、彼女は行かないで欲しいと引き止めに来た。任務のことは口外できず、けれど適当に嘘をついてしまうのも憚られ、ただ己の信じるものを話した。誤魔化せなかったのではなく、誤魔化したくなかったのだと、薄々自分でも理解している。
 ぬるくなった布を取り、桶でゆすいで絞り、また額に乗せた。別の布でこめかみや首もとの汗をぬぐい、ため息を飲み込む。
 いつだって笑っていた。素直に感謝や謝罪を口にし、決して泣き言は漏らさなかった。父の行方が知れないことも、一人京へ来たことも、あの晩見たものも、軟禁され、いつ何時殺されるか分からないこの生活も、彼女にとって辛くないはずがない。不安でないはずがない。それでも懸命に、世話になっているのだからと自ら雑事を手伝い、不平不満を表に出さずに耐えていた。監視役としてそばにいた斎藤へも、控えめながらその心配りは届いている。

『斎藤さん』
『お疲れ様です』
『ありがとうございます』
『私なら、大丈夫です!』

 思い出すのは気丈な言葉ばかりだ。その裏で、一体どれだけ心労がたたっていたのだろう。
 己が新選組に残っていたとして、不調を見逃さなかったとは言い切れない。それでも、もし傍にいたなら、こうまでひどくなる前に、何か出来たのではないかと考える。
 仮定の話は無意味だ。分かっているが、迷いは晴れない。

「千鶴」

 浅い呼吸が続く。苦しげにひそめられた眉が、まぶたが、震える。
 障子越しの月明かりが、彼女の細く白い首を浮かび上がらせていた。汗ばんだ弱々しい姿が目に焼きついてしまう。
 意識の戻る様子はない。
 月の傾きから、まだ夜半過ぎからそう経っていないと分かる。どうするか、という問いは浮かんでこず、結局、千鶴が朦朧としたまま目覚めるまでずっと傍にいた。




 「幸せな夢だ」と口にした千鶴の手を握る。眠りに落ちてなお、その手は熱に浮かされていた。
 眠りから覚めれば霧散する、短い逢瀬だ。夢で構わない。そう思いながら、重ねた手に力がこもる。
 会いたかったと言われ、動揺しなかったといえば嘘になる。戸惑いはなかったが、心の水面は激しく揺らめいた。
 それは日々明朗な彼女の弱った姿に心を痛めたせいなのかもしれず、守るという命を果たせていないことなのかもしれず、けれどどちらでもない感情が湧いているのも確かだった。
 会いたかった。
 その言葉が、いつまでも芳しく薫る。面映い心地に落ち着かなくなる。
 波立つ想いがあふれる。こぼれる――。

「……早く、良くなれ」

 祈るように口にする。千鶴には聞こえていないだろう。
 重ねた手が熱い。重ねただけの手が、いつのまにかしっかりと千鶴の手を握り締めていた。
 きつく力を込めては痛むだろう。けれど、重ねるだけではいられない。喉が、胸が、焼け付くように苦しい。この手はともすれば、縋っているのかもしれなかった。

「無理をするな」

 思い返す記憶の中で、彼女が笑う。

「千鶴」

 額を冷やす布を替えてやらなければと思いながらも、空が白むまで、身じろぎさえ出来なかった。







(09.09.06.)
戀(こい)という字を分析すれば いとしいとしと言う心