包摂の徒人





 戦場として選んだのが町の入り口、郊外であったのはまったく幸運なことだった。町中で争えば一般の町人に被害が出るから、というのがこの地を選んだ主な理由だったのだが、こうなっては何が幸いするか分からない。
 そこまで考えて、永倉はゆるくかぶりを振った。
 これは幸運などではない。惨憺たる有様だ。
 辺り一面にはおびただしい量の血だまりが広がっていた。それも時間経過とともに地面へぬるりとしみ込んでいきはしたものの、この場に満ちる血の匂いは町に掛かる朝もやが晴れた今になっても完全に振り払うことは出来ずにいる。殺戮の残滓は永倉の中の羅刹の血を揺り起こそうと何度となく揺さぶりをかけてくるが、幸い、今のところは永倉が血に狂うことはなかった。
 この場に落ちるのは、大ぶりの枝で土を掘り返す音ばかりだ。黙々と、会話もなく永倉と千鶴は街道から少し外れた場所に穴を掘り続けていた。
 羅刹は、皆が皆、死ねば灰になるというものではない。灰になるのは寿命が尽きたときだけだ。新選組で羅刹を生み出す側だった頃には羅刹が灰になって失せることなど知らなかった永倉は、当然それは分かっていたはずだった。しかし、こうして文字通り死屍累々と伏せる羅刹たちの死体を見ていると、何とも言い得ぬ奇妙な気持ちになる。
 彼らは既に死んだ身の上だ。羅刹となったそのとき、もう、人間としての彼らは死んだのだ。それはもちろん、永倉にとって大切な仲間であった藤堂や山南も同じこと。羅刹の力をもう二度と使わないと決めた永倉自身も含めて、既に、人間としての生は終えた身だ。
 死体が動き回っていたようなものだ。血を啜りながら生き永らえた羅刹なら尚のこと。人間の生き血を原動力に墓場から出て蠢いていたに等しい。
 それならば、今己がしているのは何なのだろうと奇妙な違和感が付きまとっていた。墓は、生者のために存在するものだ。生きていたものが死んだから、生者から死者へと転じたから葬られる。
 さて、ではこの穴は墓なのだろうか。埋めるのは人間としてはもうとっくに死んでいたはずの羅刹たちだ。生きているから死ぬ、死ぬから埋める。その間に羅刹という存在が割り込んでいる。生きているから死ぬ、死んだが羅刹になる、羅刹も死ぬ、だから埋める……。
「墓、か……」
 いずれは永倉も死ぬ。永倉がこの世に生きている以上、人間であれ、羅刹であれ、いずれ死ぬ。千鶴をこの世に残して死ぬのは忍びなく、出来得る限り長く生きようとは思うけれど――それでも永倉は、やはり死ぬ。死ねばおそらく誰かが埋めてくれるだろう。そこが墓石の下なのか、こうしてどこかの路傍なのかは分からないが、見苦しく放置はされないだろう。それこそ、この先で新政府軍に囚われでもしない限りは。
 気になるのは、幾年か後の墓の下だ。生きている羅刹は、その半死半生の命を使い切ると灰になる。使い切る前に死ねばこうして死体が残る。では、年月を経た羅刹の死体は、いつまでも土の下にあるのだろうか?
 ――いつか、千鶴ちゃんと同じ墓に入りてえんだけどな。
 千鶴と同じ墓に入っても、果たして土の下でいつまでも彼女とともにいられるのだろうか。永倉だけ、土の下でいつか灰になってしまうのではないだろうか。死んでしまえば遺体も灰も変わらないだろうか? それでも、出来ることなら人間と近しく死にたい。この身が既に人間ではなくとも、人として死を迎えたい。しかしその一方で、今になって死後の心配をしている己が滑稽でもあった。
 墓穴を掘りながら思うのは、この疑問ばかりだ。他にもっと色々と思うことはあるはずなのだが、まだ、物事を考える部分が鈍く麻痺している。この場での戦いは永倉が勝利し、千鶴も無事だ。けれど、心が晴れるような終わりではなかった。
 千鶴が穴を掘っている背後に、すでに一つ、ひときわ丁寧に大きく掘った墓穴に綱道を埋葬していた。父親の死を目の当たりにさせてしまった。それどころか、父親の死体をこんな何の縁もない山中に埋めるしか出来ず、墓穴を掘る手伝いまでさせてしまった。土の穴に寝かされた父親へ自らの手で土をかけた千鶴の胸中など、永倉が想像したところで察せられようはずもない。むごいことをしたと、悔やむ気持ちは永久に拭われることはないだろう。埋葬を手伝うのが、千鶴自身の望みだったとしてもだ。
 綱道は単身で葬ったものの、羅刹たちはその数も多く、全員に一つ一つ穴を掘ってやる余裕も、その場所もなかった。大きく深く穴を掘り、幾人かの羅刹たちを引きずり落とし、埋めていく。灰になって崩れた者の灰と残された衣服も埋める。羅刹の死体に触れるのは永倉だけと決めた。千鶴が何と言おうと、彼女を死者へ触れさせるつもりは毛頭なかった。千鶴はただ穴を掘るだけだ。父親である綱道には土をかけさせたが、それも彼女が望んだから許しただけのこと。
 羅刹たちの死に顔を見つめながら、永倉は黙々と土を被せた。

 朝方に戦い、埋葬はその何倍もの時間がかかった。すべての死体の埋葬を終えたときには、もう太陽が燦々と中天へ昇っている時刻だった。熾烈な戦いを終え、休まずそのまま穴掘りを続けた永倉は、さすがにもう疲れ切って千鶴と共に木陰へと逃げ込んでいた。
 途中、川を見つけ手を洗いはしたものの、すすいだ手の爪には土が入り、綺麗にするにはずいぶん手間が掛かった。これまでの永倉であればそこまで神経質に爪が綺麗になるまで洗おうとはしなかったかもしれない。しかし、爪の土は羅刹たちの山のような死体を思い起こさせる。綺麗になるまで洗わなければ、いくら洗ったとて、この手で水を掬って口に運ぶのはためらわれた。
 そうしてどうにか薄暗く翳った場所を見つけて腰を下ろすと、木の幹に背を預ける。完全には防ぎ切れていないわずかな日の光がちりちりと肌を焼き、全身は泥沼に浸かったように重く気だるい。肉体的にも精神的にも、疲労は頂点に達しようとしている。
 何も考えず眠ってしまいたい、そう思う心もあるにはある。だが、それでも永倉は重い口を開いた。そうしなければ、寝付くことは出来ないだろうという予感があった。
「綱道さん、助けてやれなくて悪かった。謝って済むことじゃねえが……すまなかった」
 隣で既にウトウトしかかっていた千鶴は、永倉の言葉への反応が少し遅れた。永倉の謝罪の意味が、うまく飲み込めなかったのだろう。戸惑った様子で首を横へ振ると、永倉がおおよそ予想していた通りの答えが返る。
「そんな……永倉さんは悪くありません。ああなったのは、きっと……父の業だと、そう思います」
「……そうだとしても、俺は、おまえさんの目の前であんなことにはしたくなかった。綱道さんは、君の家族なんだから」
 今は永倉自身が彼女の唯一の家族だ。綱道を助けられれば、千鶴の家族はもう一人多かった。長く、もう何年も再会を望んでいた父親がこんなことになって――綱道の企みも含めて、千鶴はずいぶん辛い思いをし続けている。
 木々の合間を見上げていると、目の奥が焼けるようにじわりと痛む。瞼を下ろし、その痛みを享受する。そんなことをしても罰にはならないと思いながら、永倉は隣に腰を下ろす千鶴の手を握った。
 あたたかく、小さく、柔らかい手だ。この手に何度も救われた。足を止めた永倉の背を、何度も押してくれた。
「あの人は、やっちゃいけねえことをした。到底許されねえことだ。散々人を斬ってきた俺が言うのもなんだが――人の道に悖るってやつだ。けど、それでも君の父親なんだ。俺の義父になる人だった。……死なせたくはなかった」
 それは、ただの言い訳のようなものだった。独白は後悔で、懺悔だった。
 千鶴は何も言わずに耳を傾け、そっと手を握り返してくれた。それだけで十分だった。それだけで、永倉はずいぶん救われた気がしたし、同じだけ、自分の心を罰することが出来た。この罪を忘れずに、この先を生きて行かなければならないと、強くそう思う。この先の人生を千鶴とともに歩むと決めたからこそ、その父親をみすみす死なせてしまったのは自分の落ち度であると、それだけは忘れてはならないことだった。
 しばし、無言の時が過ぎた。静かな時間も悪くはない。千鶴と共にであれば、尚更。そう気付いたのは永倉が半ば本気で剣を置こうとしたあの山小屋での生活が最初だった。けれど、思い返せば京やここへ至るまでの道中でも、彼女がいるから踏み止まれたり、安らげた場面はいくつもあったのだろう。当たり前のように側にいてくれたから気が付かなかった。これからは、それではだめだ。
「もう寝ましょう。せめて夜まで休まないと」
「……ああ、そうだな」
 触れ合っている千鶴の半身はあたたかく、心地良く軽い重みを与えてくれる。拳一つの隙間もなく寄り添われるのは、抱き寄せて口づけたあのとき以来だろうか。女を抱いて心が落ち着くこともあるのだと、千鶴には初めての感覚を知らされてばかりだ。
 永倉自身が彼女へ身を預ける訳にはいかない。それでは千鶴を潰してしまう。だから首を傾けるだけにとどめた。こちらへ寄りかかる役目は、既に千鶴が為してくれている。永倉に出来ないことは、いつだって千鶴が支えてくれていた。
 小さな頭が永倉の肩に置かれている。高く結った黒髪が、さらりと揺れて腕に掛かっている。思えば、見慣れた彼女の姿といえばこの若衆姿ばかりだ。これまでの道中で大鳥にも見抜かれていたが、もう男装をしたところで性を隠すには無理のある年齢になってしまった。もしくは、彼女の内面が年相応の女性らしさを隠し切れなくなったからか。
 早く女の姿へ戻してやらなければと、漠然とそう考えた。まだこの先どうするのか明確に決めた訳ではないが、永倉はもうこの国を揺り動かす今回の戦へ参加することはない。戦線を退き、彼女を守ってどこかへ落ち着くつもりだ。数日前までのように不透明で不安定な山小屋暮らしをさせようとは思えなかった。どこか、どうにか安心して暮らせる場所を確保しなければ。
 そうして永倉は社会に属するただの「人」になるのだ。この世で最後の羅刹であるが、永倉はその力を抑えて人として生きると決めた。肉体が人間ではなくとも、心がそうあるように。戦場を離れれば、もう刀を振るうこともなくなるかもしれない。それでもいいと、今はそう思う。
 刀を捨てるわけではない。何のために刀を取ったのか、千鶴が思い出させてくれた。だからこそ、今は刀を抜かない道を選んでもいいと、そう思える。
 今、永倉の肩に寄り添うぬくもりと重さが、この先永倉が守り抜くものだ。何にも負けない、鍛え上げたこの剣の腕は、大切な人たちを助けるためにある。彼女の命、彼女の心を守る為には刀を抜こう。自身と彼女を脅かす影を斬り払い、この先を生きるために。
 彼女の父は助けられなかった。だからこそ、彼女だけは何としても守り抜かなければいけない。そうでなければ、再び刀を握った意味がない。
 川で濡らしてきた手拭いを瞼の上から乗せ、その下で目を開ければうっすらと陽の光を感じる。疲れ切った身体はまどろみを誘い、永倉は大きくあくびをした。瞳にうっすらと濡れた感触があって、どうしてか、それを自覚した途端さらに目頭が熱くなった。
 体温が上がるのを感じる。熱く火照る身体は、それでもまだ寄り添う千鶴のぬくもりをしっかりと受け止めていた。今になってようやく、ここへきてやっと、水泡のように浮かび上がってくる幸福とその不確かさに身震いする。
 今ここに生きているのも、剣を捨てることなく、己を見失うことなくいられるのも、千鶴の支えあってこそのものだ。ただ一人、心から愛した女性が永倉を信じ続けてくれたから立ち直れた。
 その彼女を、どうしたって守らなければ。永倉は心から彼女を恋いている。過去の己には考えられなかったことだろう。京にいた頃の自分は、たった一人の女性のために刀を収めてもいいなどと考えることは出来なかった。そういう男もいるらしいと聞いたことはあったが、そんなものは武人ではないと思っていた。
 人でありたいと願う永倉は、もう、とっくに世俗のただの男になっていた。自分を信じてついてきてくれる千鶴と、これから先いつまでも生きていきたい。その想いが永倉をただの人にした。世に数多いるであろう、妻を大切に思うただの男に変えた。
 手拭いの下で固く瞼を閉じると、頬を一筋の涙が伝った。緩やかな眠気に身を委ね、目覚めたらまずは千鶴をもう一度抱き締めようと、そう思った。

 永倉はただの人だ。
 それは、何にも代えがたい幸福に違いない。





(16.07.18.)