おはようおやすみ眠り姫

※docomoのCM「ひとりと、ひとつ。walk with you」っぽい携帯擬人化パロディ。
 沖田さんは千鶴の携帯です。










 ドライヤーで乾かした髪へ丁寧に櫛を入れ、すっかりさらさらにした千鶴ちゃんがちょんと僕の隣に座った。濃い茶色の合皮張りのソファは、夏はベタつくし冬は冷たいしでどうにも勝手が悪い。でも、寒がりの僕はソファにひざを抱えて座って毛布をかけているから、あんまり寒くなると千鶴ちゃんに毛布のおすそ分けが出来るのが実はこっそり気に入っているのだった。
 ちょこんと並んで座った千鶴ちゃんのパジャマは淡い桜色に小さい白の水玉。水玉はよくよく見ると小さいクマで、千鶴ちゃんのお気に入りだ。尤も、本人は恥ずかしがって他の人には言えずにいるらしい。子供っぽいからって理由だけど、別にいいんじゃないかと僕は思う。だって千鶴ちゃん童顔だし。可愛いし。似合ってるし。そういう訳で、このパジャマは僕も気に入っている。

「沖田さん、明日の目覚ましのことなんですけど……」
「平助と出掛けるんでしょう? ちゃんと覚えてるよ」
「はい、それで、お弁当を作っていこうと思って。6時に起こしてください」
「……え?」

 6時? と呟いて僕はちろっと視線を上に投げる。体内時計は今日もきっちり正確に時を刻んでる。デジタルだからカチカチ鳴るような針はないけど、正確に進んでいる。僕の中の時計は、きっちり日付変更線を越えていた。
 すう、はあ。大きく深呼吸して千鶴ちゃんを見つめる。じっと見つめてみる。大きな瞳はお風呂に入って疲れたのか眠たげで、とろりとまぶたが重そうに下がっていた。

「……ただいまの時刻、午前0時40分です」
「す、すみません……」
「別に僕へ謝る必要はないけど」

 むっとして突き放したような言い方になってしまったけど、これも千鶴ちゃんが悪いんだから仕方がない。お風呂に入るまで、散々明日何を着ていくかで悩んでいたんだ。僕からのお勧めだって言ったのにああでもないこうでもないと悩んで、全く、たかだか平助と出かけるのに何でそんなに気合入れちゃうのか分からない。これで千鶴ちゃんが平助に恋してるとか、そういうことなら理屈としては納得がいくけど、そうじゃないのは誰よりも僕が一番知ってることだ。
 つまり、女の子として、出掛けるなら可愛くしていきたいということらしい。だったら学校へ行くときだってもっと色々したらいいのに、それは校則で出来ないって言う。僕も学校じゃマナーモードにされちゃうし、授業中はいけ好かない教師に放り出されるし、全く本当に学校っていうのはいけない。
 ともかく、そんなこんなでお風呂に入るのが遅くなって、寝る準備が出来たのが今だ。いつもより軽く一時間は遅い。寝汚い訳じゃないから起こせば起きるんだろうけど、明日は遠出するみたいだし、ちょっと無謀だ。
 あからさまに顔をしかめた僕を見て、千鶴ちゃんは眉をハの字にして見上げてくる。わざとじゃないから嫌なんだよね、この子。嫌じゃないんだけど、嫌だ。

「みんなで出かけるなんて、久しぶりじゃないですか。だから、外でゆっくりお弁当食べたりしたいんです。お願いします、ちゃんと起きますから!」
「……ちょっと待って。みんなってどういうこと? 明日は君と平助で出かけるんでしょう?」

 人数が多ければそれだけお弁当の量も増える。荷物は平助に持たせるとしても、この家の冷蔵庫にそれほど大量の食料があっただろうか。あったとして、どのみち作るのは千鶴一人だ。大人数ならそれだけで大問題である。
 更に渋い顔になった僕へ、千鶴ちゃんは不思議そうに頷いた。

「はい。私と沖田さんと平助君です」
「…………え?」

 眉根にしわがよる。ああ、あのいけ好かない教師みたいになっちゃう。
 ちょっと待って、ちょっと待って。
 むずむずと込み上げる感覚につい口が笑いそうになってしまう。変な顔になりそうなのを必死に我慢している僕の様子には気がつかないのか、千鶴ちゃんは両手をぎゅっとにぎりこぶしにして訴えかけてきた。

「昔は三人でよく出掛けたじゃないですか! 今は部活も違うから、一緒に一日遊ぶなんてなかなか出来ませんけど……でも、たまにはいいなって、平助君言ってくれたんです!」

 昔、と言っても僕が千鶴ちゃんと出会ったのはそう幼い頃でもない。人間の平助は千鶴ちゃんと正真正銘幼馴染というやつだけど、僕は別だ。家族のようにそばにいるけど、そもそも人じゃない。携帯だ。携帯は幼馴染なんかじゃないし、家族じゃない。「みんな」に含むのはおかしい。それは、人間の輪だ。
 卵焼きは甘くしますし、ブロッコリーには今晩作ったたらこマヨをつけますから!
 そりゃあ僕はご飯が食べられるけど。それをエネルギーに出来るけど。散歩だってするし、話も出来るし、ジャンプだって、スキップだって出来る。卵焼きはダシより砂糖がいいし、たらこマヨはどっちかと言えばパスタかポテトサラダに和えて欲しい。苦いものは食べたくないし、好きなものを食べたい。
 そう、僕には好き嫌いがある。携帯なのに、と薫は言う。薫の携帯は意思疎通の取れない旧型だ。携帯らしくない携帯である僕が気に食わないんだろう。そんなことは、もちろん僕にはどうだっていい。
 千鶴ちゃんがいいなら、それでいいんだ。だって僕は彼女の携帯だから。
 千鶴ちゃんの必死の訴えは弁当の中身から明日のピクニックの行き先へと移行していた。少し離れた市営公園の紅葉が広報に載るくらいきれいだから、そこでのんびりしようと言う。沖田さんの好きなお茶を用意しますから、と続いたところで、僕はぎゅうと彼女を抱きしめた。ピンクのパジャマは秋冬物だから生地がふわふわしていて、すべすべの頬との感触の違いが僕の心を一層ふわふわさせた。

「おっ、沖田さん!?」
「分かった、分かったよ。こんな時間に食べ物の話なんかして、お腹空いちゃっても知らないからね」
「た、食べません! ……秋ですし」
「今日我慢した分は明日で挽回するし?」
「しません!!」

 顔を赤くした千鶴ちゃんが僕の腕からすり抜けて、ぱたぱたと胸を叩いた。こんな子供っぽいこと、他の人には言えないのにね。パジャマも、僕の前で見せる仕草も、ぜんぶぜんぶ僕だけのものだ。
 軽く目を閉じて、アラームを6時にセットする。まぶたを開ければ、これからしばらくこの子は僕だけのもの。
 先に立って手を引くと、千鶴ちゃんはまだ少し頬を膨らませたままついてきた。これもきっと僕が携帯だからなんだろうって、そんなことは百も承知だ。僕は別に携帯に生まれたことを悔やんでる訳じゃないし、結構楽しくやっている。
 階段を上りながら明日の天気を検索して教えてあげたら、それだけで千鶴ちゃんはパッと笑顔を咲かせた。お気に入りのレインブーツもいいけど、ピクニックなら天気じゃなきゃいけない。僕は調べただけなのに、本当に嬉しそうに「ありがとうございます」だなんて言ってくる。
 ざっとクロールした様子だと、携帯が天気を変えられる日は当分こないみたいだ。嬉しいときは晴れ、悲しいときは雨。千鶴ちゃんの上だけでもどうにか出来たらいいのになって思う。だって、そうしたらきっと、この子はすごく喜ぶんだ。それで、僕に笑ってくれる。

「それじゃあ、沖田さん、おやすみなさい」
「はい、おやすみなさい」

 よしよし、なんて言いながら頭を撫でたら、恥ずかしそうに布団を引き上げてしまった。被ると顔がむくむから、あとで首元まで下げてあげなきゃいけない。床に座った僕はベッドに背を預けて毛布に包まり、明日に備えてじっと目を閉じた。やがて穏やかになっていく呼吸に、ずっと、ずっと耳を傾けていた。





 カーテン越しの夜が薄っすらと明けてくる。まだ暗い窓の外からじわりと光が入り込んでくるのを感じながら、僕はゆっくりとまぶたを開けた。五感に関わる感覚を閉じておくのは省エネのためであり、ずっと起きていると千鶴ちゃんが気にするからでもあった。
 僕は24時間アクティブに使えるように、というコンセプトで作られているから睡眠充電じゃないし、接触充電でもない。一応どちらも搭載されているけど、メインじゃない分、効率が悪い。僕は人と同じように食べて飲んで、そうして動力源を得られる。うまく転換できないものを残そうとすると好き嫌いしているように見えるらしく、千鶴ちゃんは僕の偏食を気にしていた。そのたびにこれは僕の栄養にはならないから、と説明しているけど、実はあれ、半分くらい嘘だ。個人的に好みじゃないものも省いてたりする。苦いのは嫌なんだよね。ねぎとか、ピーマンとか、あとピクルスも嫌だ。奈良漬も匂いが好きじゃない。
 食べ物のことを考えたところで、僕は充電量に応じてしか空腹を感じないから問題ない。問題は、そろそろ千鶴ちゃんを起こさなければいけないということだった。時計にズレがないかどうか電波を受信して調整して、うん、今日も大丈夫。
 毛布に包まったまま後ろを振り返る。部屋の中にひやりと流れている冷気に触れないよう、慎重に後ろへと向き直った。
 ピンクのボアシーツに淡いパステルグリーンの薄手の毛布、その上に白いレースつきカバーの合ふとん。こんなに女の子らしい色取りもないだろうに、千鶴ちゃんにはまだ物足りないくらいだ。たぶん、大きな芍薬の花をばらまいたって平気だと思う。匂いはすごいだろうけど。
 穏やかな眠りは静かに続いていた。よく見なきゃ分からないくらい小さく、小さく、布団が上下している。眠る時間がいつもより短いせいか、まだ深い眠りについているらしかった。少し寝乱れた黒髪が枕や布団に散らばって、白い肌に頬や鼻先だけが赤く色付いている。呼吸に乱れもかすれもないし、顔色も悪くない。きっと、今日も千鶴ちゃんは元気だ。
 そっと腰を浮かせた僕は、膝立ちのまま枕元へとにじり寄る。腕を組んで顎を乗せて、そのままもう一度目を閉じた。穏やかな寝息が聴覚器官をくすぐり、睡眠時特有の高い体温を感知する。すうっと胸いっぱい息を吸えば、寝具の温暖な気配に混じって千鶴ちゃんの甘い匂いも届いた。
 組んだ腕に頬を当てて、僕はぼんやりとその寝顔を眺めていた。静かで、安らかで、暖かい寝姿。僕にはそれがとてつもなく素晴らしいものに思える。
 人間の俗説に、ペットは飼い主に似る、というのがある。それに近いんじゃないかと考えていた。僕と千鶴ちゃんのことだ。僕の今のこの暮らしはとても静かで、安らかで、暖かい。
 人と同じように食事を取って動いて話す僕らだけど、だからといって携帯を人間と全く同じように扱うのは別だ。千鶴ちゃんは、時々僕が携帯だってことを忘れているんじゃないかと思うことさえあった。何しろあの子は、僕をあまり使いたがらないのだ。目覚ましのアラームを持ち主が携帯に「頼む」なんておかしな話だ。僕らは道具なんだから、そう命じればいい。僕らは人間には逆らえない。傷つけられない。そういう風に出来ている。
 だけど、一度だって千鶴ちゃんは僕に命令したことはなかった。いつも大事にしてくれた。沖田さん、沖田さん、なんて。ちょっと他人行儀じゃない? 最近はそんな風にも思う。「沖田総司」は最初から決まってた僕の名前。沖田さん、というのはきっとショップの店員も呼んでいたんだろう。だったら、僕は違う名前で呼んで欲しかった。僕にとって千鶴ちゃんはただ一人の持ち主だ。千鶴ちゃんにとっても、僕は唯一の携帯だ。だったら、もう少し特別にして欲しい。
 僕らは人間のために力を尽くすことは出来るけど、頼むことは出来ない。頼んで欲しいと言われたら頼めるけど、自発的には動けない。自分自身の願いのためには力を発揮できないのだ。
 そっと手を伸ばして、白い頬に触れる。
 暖かい。
 僕は、それを感じることが出来る。そういう機体で良かった。僕が僕だから、千鶴ちゃんと一緒にいられるんだ。だったら、携帯でよかった。心からそう思う。だけど、もしも叶うなら。

「おはよう。……おやすみ、千鶴ちゃん」

 ずる賢く発達してしまった僕を、許して欲しい。





 一時間が過ぎて、自力で飛び起きた千鶴ちゃんは半泣きになってシャワーに飛び込んでいた。ブローも含めて一時間見ていた予定を三十分にして、こちらも一時間見ていた調理時間を三十分で仕上げている。

「どうして起こしてくれなかったんですか!?」
「僕は起こしました。千鶴ちゃんが起きなかったんですー」
「ええっ!? ほ、本当ですか!?」

 何とか完成したお弁当をナプキンで包んでバッグへ詰め込むのは僕に任せて、千鶴ちゃんは鏡と睨めっこしている。約束どおりならもうそろそろ平助が迎えに来てもいい頃だ。休みの日はなかなか起き出さない薫はやっぱり見送りにも出てこないようで、二階からは少しも物音が聞こえない。嫌味を言われないのは好都合だ。
 ピンクのグロスを乗せて簡単なお化粧を終えた千鶴ちゃんは、髪束を少し取って細いみつあみの真っ最中。あとで耳の下でまとめてピンで散らすんだったっけ。それは、昨日の夜ご飯を食べ終わってから散々練習していたから僕まで覚えてしまった。手伝って上げたほうがいいんだろうなあと思いつつ、僕はまだ暖かいお弁当の入ったカバンを抱えてソファに座る。
 小さな抵抗は千鶴ちゃんの睡眠時間を確保した代わりに、余裕を奪ってしまった。たった一時間だけの僕の眠り姫は、まだセットに余念がない。めかし込んだ彼女の姿を一番に見るために、僕はまた、束の間目を閉じたのだった。







(10.10.24.)