夢見るままに待ちいたり





 焼け付くようなのどの痛みは、やはり消えることなく沖田の中にあった。死に抗う変若水でさえ、死人を生かしても死病には劣る。
 しかし、「生きたい」という意志は思いのほか逞しいものだった。千鶴から血を貰ったからか、薬をきちんと三食毎に飲むようになったからか、あるいはその両方か。千鶴の必死の看病の甲斐もあって、日に何度かはこうして一人で起き上がることも出来るようになっていた。
 寄り添う千鶴に甘えて寄りかかる意味を、もうずいぶんと考えてしまった。なにせ時間だけはたっぷりあったのだ。目を閉じたまま夢とうつつを漂う中で、近藤と共にあること、己の存在意義、刀の在り方、それから彼女のことを考えていた。

 瞼を持ち上げるのも億劫でまどろみを繰り返す沖田の枕元で、千鶴は馬鹿みたいに明るい声音でその日の出来事を話して聞かせる。

 沖田さん、今日はとってもいい天気ですね。よく晴れて、洗濯物もよく乾きそうですよ。そうそう、山崎さんは夕方には戻られるそうです。お夕飯をどうしようか、ちょっと迷っているんですけど、お魚とご飯を炊いて炊き込みご飯にしたらどうかなって思うんです。お吸い物もつけて、それから、庭の金柑を――。そう、沖田さん、庭の生け垣の木が金柑だったんですよ! 山崎さんを見送りに出たときに、ちょうど実が生ってるのを見つけたんです。木の種類なんて、全然、知りませんでした。だって、……だって、沖田さん。わたし、庭なんて、……見ていたって、仕方がないじゃないですか。金柑、だって。おき、たさん、……お願いします。起きてください、おきた、さん。

 始まりは嘘くさいほど明るいのに、やはり嘘だから、終わりはいつも泣き声だった。瞼の向こうに透ける、鈍い光の中で千鶴はいつも泣いていた。早く目を覚まして、早くよくなってと願い、ときには口にもした。
 そう急かされてもね、なんて沖田は思ったりもしたのだけれど、己が千鶴の立場にあれば、やはり早く早くとねだったのだろう。
 ここ数日、千鶴の涙は見ていない。目を覚まし、食事を共にし、おやすみと挨拶をしてから眠る。ただそれだけのことを何よりも喜び、見違えるような――山崎に言わせれば「生き返ったようだ」というほどの笑顔を見せている千鶴は、今まさに生き甲斐とも言えるであろう食事作りに勤しんでいるはずだった。
 屯所にいた頃と違い、この借家は三人が隠れ住めばそれで仕舞の小さな作りをしている。日中土方や他の隊士連中に呼び出されることもなければ、巡察について出ることもなく、家事を一通り済ませてしまえばあとは特に何をすることもない。沖田が目を覚ましたら飲めるようにと薬を用意してみたり、少しでも食が進むように食事へ創意工夫を加えてみたり。そうして日々過ごす内に、病人食をいかにおいしく作るかに目覚めてしまったらしい。もっとも、おいしくなければ食べないと駄々をこね続けた沖田にも一因はあるのだろうけれども。
 布団の上に上体を起こし、手を突いて体を支える。起き上がれても決して楽なわけではなく、これだけの動作にも息が乱れた。それでも、以前ほどの焦りや苛立ちを覚えないのは、やはり千鶴のおかげなのだろう。
 気づいてしまえば、これまで散々打ち払っていた手を掴むのに躊躇いはなかった。あるとすればわずかな後悔くらいのものだったけれど、沖田自身が千鶴を望み、千鶴もまた沖田の傍らにあることを望んでいるのだから、最早何を悔やむことがあろうかとも思える。大体、しおらしく遠慮するなんて沖田の柄ではない。
 開け放たれた襖の向こうに、柔らかな陽が差している。もうじき日は暮れて、辺りの民家と同じようにこの小さな家も夜に溶けていく。陽が沈み、夜が更け、再び陽が昇る。夜になれば千鶴ともしばしの別れだ。朝がくれば再び出会えるのだけれども、それにしたって以前のように沖田から会いに行くことは出来ない。

「山崎君」

 ぽつりと呟くが、誰の返事もない。気配すらない。いないと分かっていて呼んだのだが、やはり不在らしい。使えないなあ、などと彼本人が聞けば半眼で呆れられそうな勝手なことを嘯きつつ、ゆっくりと呼吸を整えた。布団から出て起き上がろうか、それとも、と迷っているうちに、軽い足音が近づいてくる。途端沖田は表情を緩め、笑みでもって彼女を迎えた。
 起き上がっている沖田に気づいた千鶴は少し驚いたように目を丸くして、それからほんのりと頬を染める。「沖田さん」と口にした彼女の声音の明るさに、沖田も知らず胸が熱くなった。面映いその暖かさにはとりあえず目を瞑って、口を開く。

「おはよう、って時間でもないね」
「ふふ、そうですね。気分はどうですか?」
「ご覧の通り、すこぶる快調です」

 どこか芝居じみた言い回しでおどけると、千鶴は手にしていた盆を畳の上に下ろしながらころころと笑った。沖田が苦しめば悲しみ、元気であれば嬉しい。千鶴の感情の波は、このところそんな様子だ。
 それなら、千鶴の笑顔を引き出すのは容易い。苦みばしる口の中も、ひりついて痛む喉も、何もかも隠し通せばいい。ずきずきと痛む手足も、重くだるい体も、何もかも目を瞑ってしまえばいい。そうすれば望むものが手に入るのだから、大した苦労ではなかった。
 千鶴が運んできたのは重湯と粥の合いの子のようなもので、小さな土鍋には黄色や緑が浮かんでいる。じっと見つめて緑の正体を見定めようとする沖田の視線を誤魔化すように、千鶴はくるくるとれんげでかき混ぜていた。

「ねえ、それ葱じゃないよね?」
「緑の野菜は栄養があるんですよ。卵も新鮮なものを頂けたので、溶いて落としたんです。沖田さん、玉子とじお好きでしたよね」
「うん、卵は好きだけど。ねえ、千鶴ちゃん?」
「今日は山崎さん戻られないかもって言ってたので、まるまる一個使っちゃいました。食べられるだけで構いませんから、玉子のあるところから食べてくださいね」
「……僕の話、聞いてる?」
「聞いてますよ」

 饒舌な沖田の様子に気を良くしたのか、鼻歌でも歌いそうなほど千鶴の機嫌はいいようだ。屯所に連れて来られて以来ずっと沖田のからかいを受け続けてきたせいか、あるいは今の沖田は以前ほど悪質なからかいをしなくなったからか、時折こんな風に千鶴は強気に出る。もちろんこの形勢は簡単にひっくり返せるけれど、わざわざ彼女の機嫌を損ねるのも気が引けた。起きていられる時間はまだそれほど長くないし、その間ずっとそばにいてくれるというわけでもない。出来れば楽しく過ごしていたい。ご機嫌取りに時間を取られるのは面倒だ。
 けれど、だからといってやられっぱなしなのも癪である。千鶴を笑わせるのも、怒らせるのも、もちろんその他色々な感情も自分から起因するものでありたいと思う。千鶴が勝手に楽しんでいるよりは、こちらから仕掛けたい。ちょっとした男の意地のようなものだ。
 玉子と緑のもの――沖田の見立てでは間違いなく一部は葱で、おそらく残りは青菜の葉だと思うが、それらをれんげに掬って吹き冷ましている千鶴へ向けて、口を尖らせてみる。

「君、仮にも病人である僕に対してずいぶん冷たいんじゃない?」
「栄養を取ってもらおうとしてるだけです。意地悪でしてるわけじゃ……」
「栄養なら、葱じゃなくたっていいじゃない」
「ちゃんと細かくしてありますから。味なんて分かりませんよ」
「分からないものを混ぜることないでしょう?」
「味は分からなくても栄養は取れます」

 ああ言えばこう言う。沖田は大げさにため息をついてうなだれた。
 どうしてこうもふてぶてしくなってしまったんだろう。いや、たぶん僕のせいだけど。
 閉口した沖田を観念したものと見なしたのか、千鶴は小さな盆を近づけてくる。以前ならここらで一つきついことを言って鼻っ柱をへし折ってやるところなのに、あんまり千鶴が嬉しそうにしているのでつい攻撃の手が緩んでしまう。
 甘える心地よさに気づくと、甘やかす喜びにも気がついてしまった。一喜一憂させるのはもちろん今でも楽しいけれど、最後はやっぱり笑っていて欲しい。目が覚めたとき、いつだってそばにいてくれた千鶴が心配そうに己を見下ろす目をはっきりと覚えている。悲しみと不安でいっぱいで、沖田以上に苦しそうで。出来ることなら、もうあんな顔はさせたくない。この先どれだけ一緒にいられるか分からないけれど、それでもそばにいてくれる間は笑顔を見ていたいと思う。
 どうしてそう思うのかは分からないけれど――今はまだ、その理由を探したくない。無理に見つけ出した答えは間違ってしまいそうだから。だからまだ、今は湧き上がる想いのままに、千鶴のそばに寄り添っていたい。

「じゃあ、前みたいに君が食べさせてよ。そうじゃなきゃ絶対に食べないから」
「ええっ!? ……わ、分かりました」

 先ほどまでの強気はあっという間に恥じらいにかき消され、千鶴は真っ赤になったまま視線を粥に投げている。きゅっと結ばれた唇や困った様子で潤んだ目がおかしくて、沖田は肩を揺らして笑った。
 再度吹き冷ましながら、小さな手を受け皿にして千鶴がそっとれんげを差し出してくる。少し身をかがめるように口を開けば、そろりと汁っぽい米の味が流れてきた。米粒がほとんどない歯ごたえのなさは、胃には優しいのだろうけど食べたという気はあまりしない。食欲はないからそれがちょうどよく、きっと千鶴はそんなところにも気を配っているのだろう。
 どろっとしたかたまりが喉を通る。玉子のやわらかさに包まれるようにして、唯一の歯ごたえともいえる異物が胃に落ちていった。青臭さはないものの、ほんのすこし噛んでしまった感触でやはり葱だと気づいてしまう。顔をしかめてしまう前に、口の中に残った分を一気に飲み込んだ。

「お味はどうですか?」
「……おいしいよ」

 れんげを引いた千鶴の問いかけに、にこりと笑って答える。嘘ではない。葱が入っているのは気に食わないけれど、確かにおいしかった。何度食べても味気ないのに、暖かくて優しい味は変わらない。屯所で彼女にお茶を入れてもらっていたときも、そういえば他とは格段に違う気がしていた。
 思い出と共に微笑めば、千鶴も嬉しそうに笑う。もう一口、と差し出されたれんげを躊躇わず口に運ぶ。ただ飲み込むだけでもずきりと体は軋むけれど、少しも気にならなかった。

「今日の、前の玉子のとちょっと違うね」
「分かりましたか? 今日は金柑の汁にしょうゆをちょっと垂らして、それを少し混ぜたんです。風味付けですけど、いつも同じものになるよりはと思って」
「へえ……。金柑って、生垣の?」
「はい! そのままはまだ無理ですけど、絞ったら沖田さんも食べられますから」
「そっか」

 あれもこれも、と手を尽くしてくれているのがよく分かる。生垣に生える橙色を見に行くことも出来ない沖田の元にも、こうして確かに届けてくれる。そんな千鶴のためなら、少しは我慢してもいいかもしれない。そう自分に言い聞かせて、沖田は葱を極力噛まないように気をつけつつ粥を平らげていった。





「今日は、全部食べられるかも」
「良かった……。でも、無理はしないでくださいね。食べたくなったら、いつでも用意しますから」
「うん、ありがとう。大丈夫だよ」

 あと三口ほどになった器を覗き込みつつそう言えば、千鶴は心底安堵した様子で頷いてくれた。そうしてまた少しれんげに粥を掬ってくれる、その小さな白い手に視線をずらす。
 恥ずかしがりながらも嫌な顔一つせずに身の回りの世話をしてくれる彼女の、思っていた以上に小さな手に驚いたのはついこの間のことだ。屯所にいた頃からずっとそばにいてくれたのに、どうして気がつかなかったのか不思議で仕方がない。
 見せる表情、仕草。そのどれも眩しくて、微笑ましくて、沖田の心を軽くする。安らいでいる自分にほんの少しだけ驚いて、けれど思い返してみれば、いつだって彼女がそばにいるのはそれほど嫌じゃなかったと思い至る。
 労咳で床に臥せっていたときも、怒りや羅刹の毒で自分を見失いかけたときも、千鶴は必ずそばにいてくれた。ずいぶんひどい言葉で傷つけたこともあったはずなのに、それでも千鶴は沖田の心に寄り添おうとしてくれる。それがとても、とても、貴重なことに思えた。もしかしたらこの子は、ずっと一緒にいてくれるんじゃないか。――いられるんじゃないか。そう願ってしまう。

「はい、どうぞ」

 差し出されるままに顔を寄せて口を開いた沖田は、ぱくんと口を閉じたところでふと間近にあった真白い指に目を留めた。
 元々色白のようだけれど、屯所に篭っていた時期が長かったせいだろうか。目を凝らせば血筋も透けて見えるのではと思う白さだ。決して不健康なわけではない、女性らしいなめらかな肌に釘付けになる。
 ――女の子、なんだよね。
 そんなことを今さらのように考えた。もちろんずっと分かっていた。非力でか弱くて、よく気がつく働き者の女の子。ちょっと生意気なところもなくはないけど、控えめでお人よしの女の子。からかうと面白い女の子。分かっていたはずなのに、近頃どうも引っかかったような気分になるのは、きっと言葉にかかる重さが変わったせいだ。
 「女」の子か、女の「子」か。幼い顔立ちのおかげで何とか誤魔化せていた男装も、もう今では形ばかりになってしまっている。よほどの間抜けでなければすぐに分かるだろう。
 女性へと変わっていくその姿をずっと見ていたせいだろうか。その性差が少しこわいようで、おそろしいようで。無論のこと、恐れているのは彼女自身ではない。相対する自分のほうだ。
 口に含んだ少ない粥はどろどろで碌に噛めやしないのに、いつまでも口を動かしていた。飲み込むのが、ちょっとこわい。けれど口に入れた以上、飲み込むしかないわけで。
 ――ごくん。
 室内が静かなせいか、鼓膜の揺れる音がはっきりと聞こえた。嫌だなあと思ったけれど、目の前にいる千鶴にばれてはまずいと、そ知らぬ顔で再び口を開く。
 起き上がるのを手伝ってもらうとき、体を拭いてもらうとき、近づいた彼女の匂いにもう何度同じ音を聞く羽目になっただろう。そんな気分ではないし、そんな場合でもないのに、ごくんと喉が鳴るのは止められない。
 屯所にいた頃、一人で勝手に落ち込んでいる彼女を見つけてからかってやろうと近づくときも、似たような高揚感はあった。けれどそれと混同するほど子どもではないし、自分の感情に疎いわけでもない。
 触れたい。もっと近くで触れ合いたい。
 そう思っている自分に気づくたび、馬鹿らしくて笑ってしまった。まったく馬鹿げた話だ。隔離しなければいけない病を抱えた病人の癖に、近づきたいだなんて。

「沖田さん?」
「……なに?」
「いえ、あの……本当に無理してません?」

 少しの沈黙を、目ざとく千鶴は見つけてしまったらしい。「そんなに信用ないのかなあ、僕の言葉って」なんて悲しそうに言って、千鶴が苦笑いを浮かべたところで、そうっと手を伸ばした。れんげを持つのとは反対の手に、自分の手を重ねる。彼女の手はやはりずっと小さくて、少し痩せて骨ばった手でも簡単に捕まえてしまうことが出来た。

「ちょうだい」
「……はい」

 重ねた手に一度目をやった千鶴が、気恥ずかしそうに頷く。そうして再び差し出されたれんげに口をつけて、白い手にまた目を吸い寄せられる。
 ごくんと喉が鳴ったとき、ふと気づけばその手首を空いた手で掴んでいた。向かいで千鶴が息を飲む気配がしていたけれど、それよりもその感触に驚いていた。
 人の肌はこんなにも頼りなく、すべらかだっただろうか。指先から伝わる皮膚のやわらかさに、鼓動が跳ねる。恐る恐る手を滑らせればほんのりとした温もりが感じられて、吐息が震えた。
 握った手の先でれんげが小さく揺れている。
 たかぶる感情を抑えられないまま、握った手首を引き寄せていた。
 押し付けた舌がぺちゃりと音を立てる。こね回すように舌先を押し付けながら舐めて、濡れた肌に吸い付いた。唇で食むたび、ちゅ、ぷちゅ、と水音が続く。唇で挟むように薄い肌を味わえば搗き立ての餅のようなやわらかさで、夢中になって舐め続けた。

「お、沖田さん!?」

 悲鳴と同時にれんげが落ちる音がする。落ちる際に沖田の肩をかすめていったけれど、そんなことはどうだって良かった。
 噛みつくように手首をくわえ、軽く吸いながら舐り続ける。殊更丹念に唾液を塗りこめて吸い付けば、ちゅっと高い音がした。鳥がさえずるような場違いな軽さが妙におかしい。乱れて震える呼吸も一緒に押し付けて、飲み込んだ。
 ひとしきり舐めたところで、ふと口を離す。仄かに色づいた肌は鬱血した痕が赤く浮かび上がり、唾液に濡れて、てらてらと光っていた。
 綺麗だ。とても。
 ほう、とため息をつくと、掴んだ手がびくりと跳ねた。視線を上げれば、顔を真っ赤にして涙を浮かべた千鶴と目が合う。しばし呆然と――本当に何も考えられないまま見詰め合って、それから、わなわなと震える唇を見つめていた。

「な、なっ、な……!」
「――葱の、仕返し」
「……え?」
「苦かったから。口直しだよ」

 手首を離し、落ちたれんげを拾って、固まってしまった千鶴の手から小さな鍋も奪って。
 最後の一口を自力で平らげた沖田は、千鶴に鍋を押しつけて布団にもぐりこんだ。

「ごちそうさま。たくさん食べたから、ちょっと疲れちゃった。少し、寝るね」
「あ……は、はい……」
「おいしかった。ありがとう、千鶴ちゃん」

 口先だけでない感謝の言葉をやんわりとした笑みに乗せて贈れば、千鶴は茹で上がった顔に山盛りの疑問を浮かべたまま曖昧に頷く。それを見届けてまぶたを下ろすと、千鶴は困惑したまま、それでもいつもどおり首元まで布団を引き上げて部屋を出て行った。
 耳を澄ませば、よろよろと覚束ない足取りであろう足音が遠ざかっていくのが聞こえる。詰めていた息を吐き出して、ぼんやりと天井の板張りを見上げた。

「何やってるんだ、僕は……」

 せっかく少し良くなっていた体調も不意にしてしまった。だって、顔も首も、指先までかっかと熱くて仕方がない。心臓はばくばくと脈打って、息もうまく吸えない。急に力の入らなくなった手を握り合わせて、額に押し付ける。
 やわらかかった。
 あったかくて、すべすべで。
 いい匂いがした。
 味はどうだっただろう。もう、頭の中は真っ白で、よくよく考えることが出来ない。
 白くて、ふにふにしてて。
 それから、それから――――

「……だめだ」

 あんなことするつもりではなかったのに、気がつけば夢中になっていた。咄嗟に言い訳をして千鶴を誤魔化せたのはいいとして、それ以外はもう何もかも思い通りにならない。体も、心も、沖田の手を離れてしまっている。
 潤んだ目と、赤く染まった頬がいじらしいほど可愛かった。可愛くて、可愛くて。もっと見ていたいと思ってしまった。

「諦めるつもりなんて、なかったけど」

 すぐにも近藤の後を追いかけるつもりだった。だから体は治す気でいたけれど、それ以上に。
 恐る恐る舌を出して、ゆっくりと下唇を舐めていく。
 もしかしたら、いつかまた、あんな風に触れられるだろうか。今度は手首ではなくて――そこだけではなくて、もっと、いろんなところに。もっともっと、やわらかいところに。
 額に押し付けた手が作る影の中で、沖田はため息と共にまぶたを下ろす。

「願っても、いいのかな」

 この命にもう少し未来があって、そこにまだ千鶴が寄り添っている。そんな光景が訪れることを、夢見ても許されるだろうか。
 閉じたまぶたの下で思い描いてもそれはなかなか像を結ばない。刀を持ち、血にまみれて敵を斬り倒す姿は簡単に見えるというのに、千鶴の笑顔の隣に自分がいる風景だけは、どうしてもうまく想像出来ない。
 夢見ることさえ出来なくて、それでもその光景を瞳に映したいなら方法は一つしかないだろう。

「早く、来ないかなあ……」

 苦い薬と一緒でもいい。早く会いたい。早くその姿をこの目で見たい。
 追い出したのは自分なのに、そんなことを言ったら千鶴は困るだろうか。むくれたあとで、笑ってくれるだろうか。

 瞼の向こうに透ける鈍い光の中で、早く、早くと願い続けていた。







(10.04.09.)