いとめでたき花のこと





 酒を飲む機会が増えた、と言う。然もあらん、斎藤は単独行動の理由を作らねばならない。斎藤が酒に強いのは全くありがたいことだった。酒で口が滑るようでは、間諜は務まらない。
 信用を得るまでは怪しい動きを見せるわけにはいかない。非行五ヶ条を理由に衛士へ組するというのが斎藤の表向きの離隊の筋であるが、元々斎藤が熱心に土方を崇敬していたのは誰も彼も知るところだ。実際、最初の報告がこうも早く来るとは土方にも思いもよらぬことだった。
 出した白湯に口を付けることもなく、そして冷めるより先に斎藤の報告は済んでいた。衛士はようやく組織としてのていを成し、かねてよりの説明通り、「御陵衛士」として活動している。この間、新選組を抜け出し衛士に参加したいという者も数名出たが、分離時の約定通り、伊東はこれを受け入れなかった。新選組と御陵衛士は相互に交流を持たず、また隊士の受け入れも禁止すると定めているためだ。伊東は今のところ、これを含め新選組と交わした約束を反故にした様子はない。そうしてこの月の末には高台寺の月真院へ屯所を移し、そこに落ち着くという話だった。
「近頃は篠原より英国の言葉を教わっていますが……どうにも、馴染みません」
「そう言って、おまえが帰る頃には通訳を任せることになるかもしれねえがな」
「……御冗談を」
 軽口を挟み、そこで会話が途切れた。湯呑に口を付けた土方は、舐めるように飲んだ白湯でふと、そこまで避けていた話題を思い起こした。斎藤を伊東に近づけたのはもうずいぶん前からのことだ。それこそ、土方と伊東、藤堂と斎藤で江戸へ隊士募集へ出た頃まで遡る。分隊を想定していた訳ではないが、今となっては他の誰でもなく斎藤を潜り込ませられたのは都合のよいことだった。「彼女」とひときわ親しかった幹部は離隊した藤堂平助、そしてこの斎藤である。
「あいつらはどうしてる」
 問うと、斎藤は少しばかり迷うようなそぶりを覗かせてからしばし瞑目した。それからようやく話し出す。
「平助は、至って真面目に勉学へ励んでいます。議論の席ではじっと耳を傾けていることが多く、……体調は悪くないようですが、以前に比べればいささか覇気に欠けるようにも見えます。表向きは、隠しているつもりのようですが」
「そうか」
「……雪村は……」
 一度深呼吸を挟み、斎藤は続けた。
「雪村は、穏やかに過ごしています。衛士の家事のほとんどは彼女が受け持っているようなものです。各自の部屋は自分で片付けていますし、雪村が衛士の面倒を見る必要はないと三木が何度も話しているようですが、本人が礼だからと」
「綱道さん探しはどうなってる」
「進展はないようです。我々の世話をする他は、時間を見つけては三木か平助と共に足を延ばしているようですが、今のところ何の手掛かりも得ていないと。三木が方々へ人相書きを送ってもいるようですが、そちらも成果は上がっていないそうです」
「おまえは同行していないのか」
 そう尋ねたのは自然なことだった。事前の話で、彼女――この新選組の屯所を離れ今は衛士と共に暮らしている少女、雪村千鶴は、その身の安全のためにもやはり単独での外出は極力控えるよう言われているとのことだった。現在彼女の保護者扱いである三木が同行することがほとんどで、手の空いたときなどは平助も彼女の外出に付き合ってやっているのだと聞いていた。そのときは話題にならなかったが、千鶴にとって斎藤は数少ない親しい人間の一人だ。新選組に来た当初から斎藤に面倒を任せていたので、千鶴は何かあれば斎藤に尋ねることがよくあったし、斎藤も彼なりに親身に応じてやっていた。千鶴が巡察に同行できるよう取り計らったのも斎藤だ。だから当然、斎藤も平助と同じように同行しているものだと考えていた。
 しかしどうやら違うらしい。斎藤は首を振ると、難しい顔で視線を下げる。
「伊東さんは俺を信用してくれていますが、三木はまだ警戒しています。何か確証があるわけではなく、勘のようですが」
「勘、ねえ……」
「……俺の素性もそうですが、雪村との関係を疑われているように思いましたので、あまり彼女には近づかないようにしています」
「……関係?」
「彼女が俺を信頼しているのが気に障るようです。平助のことは彼女の友人だと捉えているようですが」
「なんだ、そりゃあ」
 思わず笑ってしまったが、斎藤の素性を疑っているというのは面倒な話だった。警戒する理由がなんであれ、斎藤が少しでも尻尾を出してしまえばすぐさま気付かれてしまう。元々、三木は伊東と同じく頭の回転は良いほうだ。三木が何か確信できるだけのものを得てしまえば、実兄の伊東は必ず耳を貸すだろう。いくら斎藤自身が伊東の信用を得ていても、伊東と三木の兄弟仲が良い以上、すげなく意見を聞かないなどということはない。
 元々大人しく信じてくれるとは思っていない相手ではあったが、妙なところから警戒されたものだ。平助が千鶴にとって歳の近い友人だというが、平助と斎藤は同じ歳である。まあ、千鶴が斎藤を友人と思っているとは到底思えないが。尊敬し、信頼しているといったところだろう。それは彼女が新選組に来てからの年月と斎藤が忙しい中でも彼女を気に掛けてきた積み重ねに基づくものだ。三木にはどうしようもない。
 だからこそ余計に腹立たしいのだろうな、と土方は湯呑を傾けた。
 三木は今、千鶴の「友人」を語り、彼女の兄のように振る舞っている。伊東が三木の志を導くように、三木は千鶴を導き、彼女の望みを叶える手助けをしている。千鶴の信頼は今、三木へと一心に注がれていることだろう。であれば、同じく彼女から信頼されている斎藤が彼女へ近づくのは面白くないのかもしれない。
 年の頃は土方とそう変わらない三木だが、存外子どもっぽい執着をしてみせたものだ。斎藤の存在が気に食わないから、何となく気に食わない。だから警戒を解かない、というのはまったく分かりやすい理屈だった。潜伏している斎藤にしてみれば、面倒なことこの上ないが。
「今夜も三木は雪村に付きっきりで、だからこそ俺からは目が逸れて助かりましたが」
「ずいぶんなご執心だな。まあ、元気にしてるなら構わねえが」
「……雪村は寝込んでいます。三木が付いているのは、看病の為です」
 思わず瞠目した土方に、斎藤は「軽い風邪のようですが」と付け加えた。つまり斎藤が今夜早々に報告へ出向けたのは、一番斎藤を警戒している三木の目も関心も、寝込んだ千鶴へすっかり向けられているからということらしい。あまり素直に喜べることでもない。先ほどからの、斎藤の何とも言えぬ歯切れの悪い態度はこれが原因か。
 千鶴の様子は気にかかるが、ただの風邪ならそう案じることでもないのだろう。それだけ三木が熱心に千鶴を構っているのなら、ひどくなる前に医者へ診せるなり何なり適切な判断をするのは間違いない。
 斎藤はそのまま、今日の様子を話してみせた。
 いつまでも起きてこない千鶴を不思議に思った三木が起こしに行き、彼が大きな声を出すので慌てて平助が様子を見に行き、それで彼女が熱を出して寝込んだと分かったらしい。三木はすぐに医者へ診せようと言ったそうなのだが、様子を見た伊東と千鶴本人が「ただの風邪だ」と安静を選んだという。熱さましの薬を飲んで養生している千鶴の側に、三木は今日一日付きっきりなのだということだった。
 千鶴の性格を考えれば、病人である自身の側には誰も近付けたがらないはずだ。迷惑をかけて済まないとしょげている姿が目に浮かぶ。家事が滞ることも気にしているのではないだろうか。
 そう考えて、土方は少しだけ、寂しさのようなものを感じた。
 千鶴は屯所を出る日も、最後まで申し訳なさそうにしていた。けれどはっきりと土方の目を見て、必ず綱道を見つけ出してこの屯所へ連れて戻ると言った。千鶴は本気なのだろう。血縁を除けば彼女自身には何一つ関わりないことだというのに、父親のしたことにずいぶん心を痛めていた。変若水によって新選組が背負った業を思えば当然――そう思う者もいるかもしれないが、共に暮らした数年が彼女へそうした業を背負わせたくはないと思わせる。
 本来なら、新選組も衛士もなく、江戸で暮らしていれば良かったのだ。千鶴がいたところで結局綱道は見つからなかった。ならば京へなど来なければ良かった。そうすればあの晩、羅刹を見ることもなく、土方らと縁を結ぶこともなかった。無論、衛士とも。
 どうあれ、今さら手放すことは出来ない。千鶴は羅刹のことを知る存在であり、その根幹にかかわる綱道の娘だ。新選組が見逃したところで別の者が彼女の利用価値を見つけるだろう。彼女は新選組の中枢を知りすぎてしまった。利用方法など、いくらでもある。
 深くため息を吐くと、文机に置いていた三徳へ手を伸ばした。小銭をいくつか掴み、斎藤へ渡す。斎藤は少しだけ目を見開き、けれどすぐに眼差しを緩めて微笑んだ。
「明日にでも、何か精の付くものを食わせます」
「おう」
 衛士たちも、そして千鶴本人も知る由のないことだが、土方は最初から千鶴を手放す気などなかった。離隊の際は羅刹の件を盾にされて強く言い出せなかった――というのが表向きの理由ではあるが、千鶴が中にいることで隙が生まれる可能性もなくはなかったからだ。三木が千鶴に執心していたのは誰もが知るところであるし、だからこそあの場で千鶴を衛士に同行させねば三木はどんな手段に出たか分からない。兄の伊東のためなら何でもするであろう三木が、千鶴をも自分の身内だと認識しているのは、彼女が羅刹に斬られた一件で嫌と言うほど分かっている。あの夜土方を罵り、睨んだ目。そこに浮かんでいたのは激しい憎悪だった。
 だからこそ、その執心は付けこめる。実際、三木は衛士としての活動はもちろん熱心で仲間内でも議論や献策に忙しくしているが、その隊務を離れれば千鶴へ構い通しだ。おかげで斎藤は花街通いの振りをしてこうして抜け出すことが出来ている。千鶴がいなければ、もう少し苦労させられただろう。
 千鶴が衛士を変えることはない。関わる必要もない。けれど彼女がいるだけで、なにがしかの余地は生まれる。いつまでもピリピリとした男所帯では生まれそうにない隙が。
「面倒を掛けるが、頼むぞ。斎藤」
「御意」
 斎藤は湯呑に少しだけ口を付けると、一度深く頭を下げて音もなく部屋を辞した。そうして一人残った土方は少しだけ雑然とした自室を見回す。
 棚の上に敷かれた薄紫の布地は、千鶴が縫ったものだ。見栄えも良く、掃除するにも便利らしい。そうした気遣いは千鶴でなければ、同じ小姓でも相馬や野村には無理な話だろう。彼女が育てた二人の後輩は彼女が残した教えを忠実に守り、ずいぶん頑張っている。雑務のあれこれをまとめた書き付けを読みながら、二人で話し合っている姿は土方も何度か見かけていた。
 土方さん、と呼ぶ声を思い出す。朝方まで仕事をしていると、早朝、熱い茶と握り飯、漬け物を持ってくるのだ。三木と親しくなってからも、千鶴の献身は変わらなかった。裏表のない素直な娘なのだ。血なまぐさいやり取りにも、病にも、むざむざ殺されては困る。
 千鶴はいつか連れ戻す。斎藤が隊へ戻るとき、千鶴も共に新選組へ戻るのだ。千鶴が向こうで苦労しているなら「それまでの辛抱だ」と言うところだが、その心配はないらしい。
「しばらく預けるんだ。精々大事に面倒見てくれよ」
 誰へともなく呟いて、土方は空の湯呑を文机へ置いた。喉が渇いたと思うときにはすっと出される、千鶴の淹れるあの茶が飲めないことは素直に惜しいと思える。それは羨ましいと――今頃、土方の小姓を世話しているはずの男が、少しだけ憎らしく思えた。





 千鶴の頬には赤みが差していた。熱に浮かされたそれでなく、ほんのりと色付くさまは花芽のふくらみのようにやわらかい。羽織を肩にかけ、ふうふうと白湯を吹き冷ます面差しも平時のものへと戻っている。刀を抱いて座り込んでいた三木は静かに息を吐いた。
 熱を出して倒れていた千鶴の容体は、日付も変わろうかという今時分になってようやく落ち着いたようだった。比喩ではなく言葉通りに千鶴は室内で倒れていたのだが、それでも夕方になると少し気分がよくなったと起き上がろうとするものだから、三木は結局一日中千鶴の側についていた。千鶴は再三「同じ室内にいては移してしまう」と言ったのだが、三木は見張りと看病を理由にずっと千鶴の部屋の入口に座り込んでいた。しかし看病といっても何が出来る訳でもなく、刀を抱えたまま座っていただけだ。実質、千鶴が起き上がらないよう見張っていただけに等しい。
 元々、今朝倒れていた千鶴を見つけたのは三木だった。いつも誰よりも早く起きていることが多い千鶴がなかなか起きてこないので様子を見に行ったのだ。たまにはゆっくり寝坊させてやってもいいだろうと言う仲間たちを無視して千鶴の部屋へ向かい、返事がないので戸を開け、そうして布団から出たところでばったりと倒れて気絶している千鶴を発見した。
 雪村、と叫んだ三木の声は全員の耳に届いており、千鶴の代わりに朝食の支度をしていた平助もそれを聞いて反射的に彼女の部屋へと走っていた。蘇るのはまだ生々しい、千鶴が羅刹に斬られた日の記憶。千鶴を狙う外敵は新選組か、それとも二条城で出たという三人の男か、はたまた物取りか。鞘を抑え、柄に手をかけて飛び込んだ先では、ぐったりとした千鶴を抱きかかえて名前を呼び続けている三木の姿だった。
 室内と千鶴へさっと視線を走らせ、平助は用心深く気配を探りつつも刀から手を離す。三木の悲鳴が千鶴の「怪我」によるものではなさそうだということは、千鶴の顔色を見れば一目瞭然だったからだ。続いてやってきた伊東や他の衛士たちを振り返り、平助は「具合が悪いようだ」と説明して――その間、三木は抱き起こした千鶴の名を呼んで揺り起こそうとするばかりだった。
 要するに、千鶴は寝ている間に熱を出し、それに気付かず起き上がった直後に昏倒していたのだ。一時気絶していただけだった千鶴は三木の呼びかけで意識を取り戻し、朦朧としたまま自分の不調に「風邪だと思います」と結論を出した。狼狽えて口を閉ざす三木を下がらせて伊東が彼女の熱や症状を聞き、平助はその間に手ぬぐいや水桶を用意した。薬箱を持って来れば千鶴は自分でどの薬をどれだけ飲めばいいのか、緩慢な動きながらもきちんと判断して自力で用意が出来た。
 それだけ意識がはっきりしているなら薬を飲んで半日様子を見ようということになり――三木はすぐに医者を呼ぶか診せに行くほうがいいと主張したが、当の千鶴に「大騒ぎするほどひどいものではない」とすげなく却下され――それで、千鶴は一日安静に休むことになったのだ。
 本人なりに隠していたつもりのようだが三木の動揺や不安は誰の目にも明らかで、三木が千鶴の面倒を見ると言い出したときも、誰も何も言わなかった。千鶴の身柄は三木が個人的に預かっていることになっているので、実際、保護者として面倒を見るというのは話の筋も通っている。看病などろくにしたことのない三木が出来ることといえば千鶴が飲みたがったときに白湯を用意するくらいで、後は万が一容体が急変したときのために側についているだけだ。千鶴の分の粥は平助が用意して、どこに頼んだのか、夕食のときには伊東がもらってきた玉子を使って玉子粥が出された。
 千鶴が新選組でも用意していた風邪薬はよく効いて、夕方にはずいぶん熱も下がってきたようだった。とはいえ、まだのぼせたような顔をしているものだから当然三木は起き上がろうとする千鶴を止めた。脱走を防ぐためということで朝からずっと片膝を立てて刀を抱えて座りこんでいる三木は、とうとう今日一日のほとんどをその場所で過ごしたのだった。


「飲んだら寝ろよ」
「……三木さん、お部屋に戻らないんですか? 私なら、もう平気ですから」
「治りかけが危ないんだろ。……もう少し様子を見る」
 三木の声はいつもより少し不機嫌で、けれどそれが千鶴の身を案じてのものだと千鶴にももう分かっている。新選組の屯所にいた頃から、三木の気遣いは厳しい表情や鋭い言葉の中に巧妙に隠されていた。近すぎず遠すぎず、千鶴のことをよく見て気に掛けてくれていると気付いたのはいつだろう。出会った頃は無遠慮に品定めするようだった視線はいつしか親身に案じるものへと変わり、日ごと優しくなって今に至っている。
 一日千鶴の部屋にいた三木だったが、千鶴に近づくことはほとんどなかった。額に載せている濡らした手拭いを時折取り替える以外は、刀を抱えたまま部屋の入り口に座り込んでじっと目を伏せていた。眠っているようにも見えるが、千鶴が身じろげばすぐさま瞼を開く。野生の獣が子どもを守るように、三木は息をひそめてじっと千鶴の護衛を務めていた。
 千鶴は三木の声音で彼が風邪を引いた様子がないかどうか探っていたが、どうやら移した様子がないと分かると、ほっとため息をついた。健康で体力もある三木に風邪が移る可能性はそれほど高くないとはいえ、万が一ということもある。
 うつらうつらと熱に浮かされて眠る合間にも、目を向ければいつも三木と視線が合った。そのたびに「どうした」「何か飲むか」と話し掛ける三木の低く静かな声を聞いていると、不思議とそのままうとうとと再び眠りに誘われる。父に似ているとは思わない。それでも、どうしてか幼い頃に優しく看病をしてくれた父の姿を思い出していた。
 適度な距離感を保ちつつも親身に案じて見守ってくれる三木は千鶴との関係を「友人」と称しているが、実際には年の離れた兄のようなものだ。自分に兄弟がいればこんな風だったのだろうかと、夢うつつに考える。父のようで父でない不思議な感覚は、「家族」に対して感じているのだろうか。知らない人ではないとはいえ、一番信頼出来る人だとはいえ、寝室に男の人がいるというのに、快い安らぎを感じていた。それは彼を家族のように思っているからなのだろうか。
 千鶴の思案は下がった熱と一緒にどこかへ溶けて消えてしまった。残ったのはただ、ほんのりと温かい安らいだ心地だけだ。三木が側にいてくれれば安心だと、安堵と共にまた一つ彼を慕う気持ちが募る。元気になったら何かお返しをしたい。好きな料理を作って、好きな酒を用意して――。
 白湯を飲み、ぽかぽかと身体は温まっていた。元より熱っぽかった身体は、すぐにまた頭までぼんやりとしてくる。ゆっくりと深呼吸して、千鶴は湯呑を置いて羽織を脱いだ。三木の視線を感じつつ、すぐに布団の中へ潜り込む。すっぽり収まると、小さくため息が聞こえた。
 短くふっと吐き出されるため息を、三木と関わり始めた当初はずいぶん怖く思ったものだ。どうしても苛立っているように思えて怖かった。それが今は、つい微笑んでしまいそうになる。三木のため息は、おおよそ「やれやれ」に相違なかった。
「三木さん」
「……ん?」
「今日は、いいお天気でしたか?」
「……雲が多かったみたいだけどな」
 叱られるかと思ったが、小さな声で話しかけると三木も声を抑えて返してくれた。一日寝てばかりで、熱も下がった今はまだ眠気は少し遠い。それに、こうして三木が一日側にいてくれるのは近頃はあまりないことだった。
 三木は千鶴の保護者ということになっていて、千鶴は三木を含めた衛士たちと共に暮らしている。しかし御陵衛士としての彼らの活動には関わらず、彼らが政などについて議論する場にも同席しないよう言われている。それは新選組を離れるときの約定でもあったし、千鶴の立場がこれ以上ややこしいものにならないようにという気遣いでもあった。
 新選組で千鶴が軟禁されていたのは羅刹の秘密を知ったからであり、加えて彼女が新選組の内情を知りすぎてしまったが故に、新選組に仇なす存在にその身を狙われる危険が生まれてしまったからだ。衛士に深く関われば、同じように衛士を快く思わない者に狙われかねない。そんな事情さえなければ三木は自分の家を持って千鶴をそこに住まわせるなり、知己の者に千鶴を預けるなりするつもりだった。しかし千鶴はもう新選組に関わってしまったときから、京で一人で過ごすことは出来なくなってしまっていたのだ。彼女の身を守る為の後ろ盾として今は三木がおり、千鶴はその庇護下にあるのだと示すためにも側で暮らす必要があった。
 では四六時中一緒にいるかといえばそうではない。結局、三木の本来の目的は伊東に付き従い御陵衛士として今の政について議論し、いくつもの建白書を奏上し、あるいはこの先の改革で必要になりそうな知識や学問、最新の技術について日夜学んでみたり――。「御陵衛士」は朝廷によって設けられた山陵奉行の戸田の預かりのもとに組織され、正式に与えられた名称であり、彼らは浪人ではない。彼らの議論は日々白熱していたし、伊東に付いて外出し、方々で会談を重ねたりと忙しく活動している。
 その合間に綱道探しのための外出に付き合ったり、遠方の知人に人相書きを送って捜索を頼んだり、三木の関わりはそんなものだった。西本願寺に比べれば小さな屯所で部屋も近くなり、朝夕顔を合わせはするけれど、丸一日いつでも三木が側にいることは意外と少ないのだ。
 三木は眠いだろうか。黙っていたほうがいいだろうか。しかしこのまま千鶴の護衛を続けるつもりなのだから、元よりゆっくり眠るつもりもないのだろう。それなら、少しだけでも話がしたい。そう思って話題を探すけれど、いざとなるとこれといって言葉が出てこない。まだ頭がぼんやりしているのか、考えもまとまらない。
 そうしてぼんやりと三木を見つめていた千鶴へ、不意に三木が視線を向けた。探るようにじっと見つめてくる鋭い眼差しも、今は少しも怖くない。
 しばらく視線は交わり、見つめ合い……三木はわずかに眉根を寄せた。
「おまえを、鈴木の家へやろうかって話もあったんだが」
「……鈴木?」
 ぽつりと呟かれた言葉は唐突なものだった。出てきた姓にも、覚えがない。
 千鶴の疑問は想定の内だったのか、三木は軽く目を伏せて続けた。
「オレと兄貴の実家だ。兄貴は伊東の家へ婿養子に出たし、オレも寺内の養子になったんだが……まあ、とにかくオレたちの実家は鈴木ってんだ」
 躊躇うように言葉を止めた三木は、考え、言葉を選びながらゆっくりと話を続ける。
「分かってると思うが、オレたちの立場もそうそう安泰じゃねえ。京で志士として活動してりゃどこも同じだ。万一大きな争いが起きてオレが死にでもしたら、おまえの後ろ盾がなくなる。……だから、そうなったときのために、おまえを養子縁組しておこうって話だ」
 三木が千鶴の身を心底案じてくれているのは分かっていた。千鶴が父親を探していると知ると、途方もなさを笑うこともなく、真剣に考えてくれた。だからきっと、千鶴ですら薄々気付いている結末についても三木はとっくに考えてくれていたのだろう。
 千鶴が綱道を探して京へ来て、もう三年半が過ぎている。その間、綱道の行方に繋がるような情報は少しも手に入れられていない。綱道の行方が分からなくなってからでいえば、もう四年だ。四年音信不通の人間を、何の手掛かりもなく、この広い日ノ本から見つけることが出来るのか。諦めるつもりも絶望して足を止めるつもりもないが、現実問題として、このままあと何年探しても見つからないのではないかという可能性は認識していた。あまり考えたくない話だが、このまま京だけを拠点に探していてはそうなる見込みは高いのだろう。
「どこか出張するたびに兄貴にもその知り合いにも頼んで探してもらっちゃあいるが……。長引く可能性を考えりゃ、一度どこかで区切りをつけて、おまえのこの先の身の振り方を考えなきゃならねえ。……オレは、途中でおまえを放り出すつもりはないけどな。それでも、備えは必要だ」
「……はい……」
 気の重い話だった。けれど避けられない話でもある。
 三木は千鶴から視線を外していた。どこか遠く先を見るようなまなざしで、月明かりに透ける障子紙の向こうを見つめている。抑えたままの声音も、その静かな眼差しも、千鶴は無性に寂しく感じた。これだけ大事に考えてくれているのだと、それはとても嬉しいはずなのに。
 三木は養子として実家を出ていながら、その養子先の寺内から離縁を言い渡されている。三木の縁者だと称しても、結局預け先は元の実家である鈴木の家か、兄の継いだ伊東の家のどちらかということになる。
 しかし三木が落命すれば伊東の無事も保証できない。伊東が重要な場へ出るときは護衛として三木が同行しているのだから、三木を襲う凶刃は本来伊東へ向けられたものである可能性が高いのだ。伊東の出張の際は隊を預かり京に残るが、だとしても衛士の頭である伊東のほうがずっと狙われる可能性は高い。
「兄貴とも少しその辺りの話をして、まあ、預けるなら鈴木の家だろうって話になった。オレも兄貴も家を出たが、母親や妹とは今でも交流があるし、仕送りだってしてる。おまえ一人預けるくらい訳もねえ。縁もなく預けりゃ肩身も狭かろうが、オレたちの誰かと縁組しちまえば面倒もないだろ」
 事もなげに言うが、赤の他人を一人引き取るのはそう簡単な話ではないことぐらい千鶴にだって分かる。しかし三木の言いざまは、少々値の張る菓子を買う算段でも立てるような口ぶりだった。千鶴が気負わず済むよう、何でもないことのように話してくれているのだろうか。
 自分の身の振り方の話だというのに、どこか遠い世界の話のような心地だった。親身に考えてくれている三木への感謝の念は当然あるものの、どうにもその未来は想像がつかない。三木の実家である鈴木家は常陸国に暮らしているという話なので、三木に何かあればそちらへ行くということらしい。もう四年近く京に留まったままの千鶴には、東へ戻るということ自体がどうにも現実味のない話だった。
 ぼんやりしたまま黙している千鶴へ視線を向けた三木は、また少し顔をしかめた。何か、言葉にしづらいことがあるのだろうか。言いたいことがあるのに飲み込むとき、三木はこういう顔をする。本当に言いたくなれば相手が誰であれ、どんな内容であれ、臆さず言う人だ。それがこんな顔をするのだから、きっとそれは千鶴に話すべきか迷うような話なのだろう。
「こういう用意がある、ってだけの話だ。無理強いするつもりはねえし、松本っつったか、あの医者を通じて他のあてを探しても構わねえ。すぐに決める必要もない。だから……」
 言いにくそうにしながらも、けれど三木は告げると決めたのだろう。布団に潜り込んだままの千鶴と目を合わせ、目を細めて少し怒ったような顔で言った。
「だから、先のことは心配しなくていい。おまえは父親探しのことだけ考えてりゃいいんだ。それだけは、おまえにしか出来ねえことなんだからな」
 胸が詰まった。それはすぐに喉元までせり上がり、視界をにじませる。思わず、震える唇を噛んでいた。
 父、雪村綱道を探す。千鶴は元々、そのために京までやってきた。到着したその日のうちに新選組に軟禁され、巡察に同行する他には自分では何も出来なくなってしまったが、それでも不満はなかった。納得していたし、実際、自由に外に出られたところで千鶴に出来ることは当てもなく人々に尋ね歩くことくらいしかない。
 それでも、歯がゆかった。出来ることをすべてやって、手を尽くして。それすら出来ないのがもどかしかった。考えないようにしていても、不意に「父は今頃どこでどうしているのか」と思うと、どれだけ隊士と親しくなっても途方もない孤独感を感じた。たった一人の肉親なのだ。他に親戚もない千鶴にとっては、父だけがこの世でただ一人の家族だった。
 三木は気まぐれで千鶴を手伝ってくれているだけだと言う。それでも、三木は出来る限りの手を尽くして手伝ってくれている。千鶴が自由に外へ出る時間も、新選組にいた頃とは比べ物にならないほど多い。誰の監視もなく、衛士たちは皆、三木との関わりしかない千鶴を受け入れてくれている。素性を隠す息苦しさもなければ、邪魔になれば殺されるかもしれないという懸念もない。
 加えて今度は、先の心配もいらないと言う。三木は千鶴に、父親探しに打ち込める環境を用意し続けてくれている。それが千鶴の、何よりの願いだと知っているからだ。
 このまま父が見つからなかったら?
 それはずっと、考えないよう心の奥底にしまいこんでいる不安だ。見ないように、考えないようにしながらも、決して消えることのない大きく深い恐れ。
 京に来てから、それ以外の不安や心配もたくさん増えた。三木はそれらを、出来る限り取り払ってくれている。
「そのためにも、きちんと治せよ」
「……三木さん……」
 お礼が言いたい。
 いつも心を砕いてくれてありがとうございます。気に掛けてくれて、こんなにも親切にしてくれて、ありがとうございます。
 そう思うのに、涙があふれて言葉にならなかった。布団に埋もれるように、嗚咽を抑えて泣いた。
 優しさが嬉しいはずなのに、父を想うときのように胸が痛む。
 いつも何でもないことのように話すものの、三木や衛士の立場を考えれば、綱道を探すための手紙を方々に出すのもそう簡単な話ではないのだろう。綱道は衛士とは無関係だ。会ったこともなければ、羅刹についても関わりがない。今後縁を繋ぎたい相手でもない。手紙を出す相手も、どこまで事情を話すのかも塩梅が難しい。私的な手紙だと称しても、三木が衛士である限り妙な勘繰りは避けることが出来ない。下手を打てば伊東や衛士全体へ悪影響が出てしまう。そうならない相手や状況、文言、三木はそれらすべてをよくよく考えた上で協力している。千鶴を手伝いさえしなければ、居場所を提供するだけにしておけば、そんな面倒に頭を悩ませることもないのに。
 それでも三木は、思い出したように時折「手紙を出した」と千鶴に話す。それが千鶴を励ますためだというのは分かっていた。方便でなく、実際に衛士の議論や勉学の合間に三木は手紙をしたためてはあちこちへ送り、あるいは伊東らについて会合に向かった先で知り合った相手にもそれとなく尋ねてくれているらしい。そうした苦労を、三木は千鶴に一切見せようとしない。
 苦労をかけている。けれど三木は好きでやっていることだ、気まぐれだと言う。だから千鶴がそれを気に病むことはないし、何か見返りを求めてもいないと言う。
 嬉しくて、苦しい。ありがたくて、申し訳ない。
 相反する感情が大きな波のように寄せては返し、千鶴の心はその波に大きく揺さぶられる。何と言えばいいのか分からなかった。
 ありがとうございます。ごめんなさい。
 どちらが正しいのだろう。どちらが本心なのだろう。千鶴は、自分の心が分からなかった。
 静かにすすり泣く千鶴の頭に、静かに近づいてきた大きな手が触れる。ためらうようにそろりと触れた手が、やがてゆっくりと千鶴の頭を撫でた。髪を押さえるようにゆっくりと、何度も手を滑らせる。幼い子供を宥めるようなその手つきは、おおよそ日頃の三木の姿からは想像がつかない。
「おまえは何も心配しなくていい。……今日はもう、そのまま眠れ」
 すすり泣き、震える口を開いたけれど、何も言えないまま千鶴はこくりと頷いた。頬を伝う涙はいつまでも止まらず、何も考えることが出来ないまま、千鶴は深い眠りに落ちていった。


 どれだけ眠っていたのだろう。外は明るく、静かだった。冷えた空気の感覚から、早朝だろうかとぼんやり考えながら身を起こす。
 たくさん泣いて疲れて眠ったからか、寝起きの気だるさは多少あるものの気分はすっきりしていた。熱も下がったようで、身体もずいぶん軽く感じる。枕元にはまだ水桶が置かれたままで、ぬるくなっていた手拭いをその縁へと掛けた。
 日々の疲れと、離隊にまつわるごたごた。そして数々の不安や懸念。それらが積もり積もって、風邪という形で表れてしまったのかもしれない。溜め込まないように、考え込まないようにしていたけれど、うまくやり過ごせなかったのだろう。それももう、昨日の三木の言葉で溶けて消えてしまった。同じように溜め込むことは、きっともうないのだと思う。
 うんと伸びをしてもやはり心身ともにすっかり回復したようで、千鶴はほっと安堵の息をついた。昨日一日迷惑をかけた分、今日からまた頑張らねば。
 身支度を整えようと布団をめくり、立ち上がろうとしたところでスラリと襖が開き、そこに立つ主と目が合った。驚いたように目を丸くした三木は、一瞬の間の後、すぐさま苛立った様子で千鶴を睨む。あ、と千鶴が弁解の言葉を告げるより、三木が千鶴へ近づいて片膝をつき、両手で頬を包むほうが早かった。経験則から身を固くした千鶴の頬を、三木の指が左右に思い切り引っ張る。
「どこに行こうってんだ、ああ?」
「み、みきひゃん! ひやいまひゅ!」
 チッと舌打ちすると三木は手を離してこれ見よがしにため息をついた。千鶴は慌てて自分の頬を押さえ、小さく肩を竦めて恐る恐る彼を見つめる。三木がこうして頬をむにっと引っ張るのは怒っている証だ。加減されているので痛くはないが、変な顔になるのも、子どものような扱いなのも気恥ずかしくて気まずくなる。
「厠以外で部屋から出るんじゃねえよ。身体起こすなら何か羽織れ」
「い、今起きたところだったんです。それに、あの、もう熱も下がりましたし、身体も軽くって、元気で……」
「却下だ却下。おまえはもう一日寝るんだよ。飯の支度なら他の奴がやってる」
 取りつく島もない。顎でしゃくって促され、千鶴はすごすごと布団の中へと戻った。まだ温かさの残っている布団に包まれると、三木が掛け布団をしっかりと首元まで引き上げる。そのまま枕元にあぐらをかいて座り込むと、千鶴の額に手を当てて押し黙った。そうしてしばらく熱を測ると、腕組みをしてまた息をつく。今度はいつもの、「やれやれ」のため息だ。
「これは兄貴も同意見だ。この機会に休んで、しっかり治せってな」
「私、もう治ってます……」
「あ?」
「……休みます……」
 一応言ってみたものの、じろりと半眼で睨む三木に通じるはずもない。こうなると、目を盗んで起き出したりすれば激怒するのは間違いない。諦めて大人しくしていようと決めた千鶴は、そこでふと三木の顔をじっと見つめた。千鶴が大人しく諦めるまで様子を見ていた三木は、まだ不機嫌そうな顔のまま眉を顰める。
「なんだよ」
「私、きちんと部屋にいますから、三木さんも休んでください。昨日、寝ていませんよね?」
「少しは寝たぜ。大体、おまえは人の心配してる場合かよ」
「私の心配は三木さんがしてくれますから、私は三木さんを心配します」
 千鶴の言いように目を丸くした三木は、一拍置いて吹きだした。咳き込みながらくつくつと喉を鳴らし、それが治まると面映ゆい様子で千鶴の目をそっと手のひらで覆う。
「おまえは何も心配しなくていい、っつったろうが」
 優しく、どこか甘いような声音に、返す言葉が溶けて消える。大きく温かい手が隠すその向こうで笑っている三木の顔を瞼の裏に思い描きながら、千鶴もそっと微笑んだ。





(16.12.03.)