野火が育てた花芽の色は





 目を開けた三木はわずかな違和感にいぶかしんだ。うたた寝から目覚めたばかりの脳はぼんやりとその原因を探り、そして鼻先を掠めた芳しい香りに弾かれたように立ち上がる。目の前の布団はもぬけの殻だ。
 戸を乱暴に引き開けると、厨に立つ千鶴が振り返る。白い寝間着に淡い藍色の羽織を引っかけて、鍋をかき混ぜていた。
「おまえ、何してんだ! 寝てろって言っただろうが!」
「少しだけですから平気です。もう傷も塞がってますし、熱も下がったし……」
「そういう問題じゃねえんだよ!」
 肩を怒らせ無理やり部屋へ連れ戻そうと近づく三木に、千鶴はお椀を片手にふんわりと微笑む。鍋の中身は味噌汁だ。具はねぎと揚げらしい。
「三木さん、具はいつも通り多めでいいですか? おかずは昨日の残りしかないんですけど」
「はぁ……」
 千鶴は昨日もこの調子で、三木の目を盗んでは食事の支度をしたり、三木の身のまわりの世話を焼こうとする。ほとほと呆れ、困り果てながら三木は千鶴の手からお椀とお玉を奪い取った。
 ようやく意識が戻り、起き上がれるようになったと思ったらこれだ。三木がどんな想いで看病していたのかなど千鶴は知る由もないのだろう。あんなに気を揉んだのが嘘のようにすっかり千鶴は回復している。松本が言うには、傷跡ももうすっかり消えようとしているらしい。女性なのだから痕が残らずに済んで良かったと安堵していた松本は、千鶴にまだしばらくの安静を言い渡している。医者の娘であり新選組にいた頃は山崎を手伝って医療面でも隊士を支えていたはずの千鶴は、しかし医者の指示に従わず、大人しく寝ずに三木の周りをうろちょろしていた。それはまるで、御陵衛士として兄たちと暮らしていた頃のようだ。あの頃も、千鶴は何くれとなく三木の世話を焼きたがった。これが彼女なりのお礼の仕方なのだろうというのは分かるが、認められるはずもない。
 しっしっと手を払って千鶴を追いやると、三木は食事の支度を続けることにした。窯には米が炊かれており、もう一つの鍋には昨晩用意した煮物の残りが温められている。火の始末をしてご飯と味噌汁、煮物を皿に取ると、まだそこで所在なさげに立っている千鶴に気付き、不機嫌も露わに顎で部屋へ戻るよう指し示した。
「よそって持っていくくらいオレにだって出来る。布団へ戻ってろ」
「それなら、自分の分は自分で運びますから……」
「……いいか、二度言わせるんじゃねえぞ。簀巻きにして転がされたくなかったら、今すぐ、布団に、戻れ!」
「ひっ!」
 声を低く抑えて睨みつけると、ようやく千鶴は部屋へ逃げ戻っていく。それでも後から来る三木の為を思ってか、部屋の戸はしっかり開け放ってから室内に入るので、三木はまた深々とため息を吐いた。

 千鶴は一応寝たきりの病人のはずである。しばらくはきちんと栄養を取り静養して、大量に失った血を戻さねばならないと松本から厳命されている。しかし、足が折れているわけでもなく、病でどこか痛むわけでもない。起き上がれるのだから少しくらいはと、そう言って千鶴が起きてしまうので三木はほとんどの時間を彼女の布団の傍らで過ごす羽目になっていた。別の部屋にいると気付かないこともあるからだ。
 ある日など、部屋を覗いたら姿がないので血相を変えて外へ飛び出したら、庭先で洗濯していたのである。あの日は思わず大きな声で怒鳴りつけてしまって、驚いた近所の者が訪ねてきたほどだ。そのせいで三木は千鶴と同棲している者だと知られることになり、近所で買い物をするたび好奇の視線に晒されている。千鶴の父親探しの協力者で、縁あって面倒を見ているとだけ説明したが、どれほど理解されたのかは定かでない。やたらと良い笑顔でおまけをつけてもらえることを除けば、うんざりするような居心地の悪さだ。
 ともあれ、そうして食事の用意のために買い物に出ることを除けば、三木はずっと千鶴の側についていた。起き上がれるようになったとはいえ、千鶴の体調はまだ万全とは言えない。平気だとは言うものの、食事を取ったり少し起き上がった後にはずいぶん疲れるようで、布団へ横になるとすぐに眠りにつく。その寝顔は一時期とは比べ物にならないほど血色が良く、寝顔を見るたび三木は人知れず安堵の息を重ねていたのだった。
 それにしても、と食器を洗いながら三木は空になった鍋に視線を向ける。まだ新選組の屯所で出会った頃から知っていたことだが、千鶴の料理の腕は大したものだ。今ある食材だけで作り、それなりに食べ応えがあるような工夫をして、掛けられる時間に応じて手の込みようも変わる。もちろん料亭の料理人などとは比べようもないが、町屋の煮売屋の惣菜よりは千鶴の作るもののほうが良いんじゃないかと思うくらいだ。
 食事の用意が出来ない三木はそういった外の店や屋台に頼るしかないが、千鶴がこうして作ってくれるならもちろんそちらを食べたい。が、何しろ病人である。料理など作らせている場合ではない。千鶴は三木が料理出来ないのを知っていて用意しようとしてくれているのだろう。実際、千鶴が大人しく寝ている日は外で済ませたり買ったものを持ち帰っていた。
 千鶴に食べさせるものは栄養のある物をと言われているが、具体的に何が良いのかも分からない。鶏肉やら魚やらを煮売屋で見繕って与えていた。そうして出来合いのものを毎日食べるのは、住まいが新選組の屯所であろうと御陵衛士の屯所であろうと自炊を続けてきた千鶴には落ち着かないのかもしれない。
 粥に何か添えるとか、うどんを茹でるくらいなら三木にも出来る。粥は松本に重湯の作り方と一緒に書き付けを預かったからだ。しかし普通に白米を炊くのは柔らかすぎたり固すぎたり、まだ水加減が難しかった。固かったら粥にして誤魔化しているが、千鶴は三木がそうして苦戦しているのも分かっているに違いない。
 こんなことでは千鶴が抜け出して三木の世話を焼くのを止めることは出来ないだろう。寝ていても大丈夫なのだと思わせなければ、いくら叱っても説得力がない。
「……やってみるか」
 洗い終えた皿を不慣れな手つきで布巾の上に伏せながら、三木は舌打ちをして鍋を睨み据えた。

 さて、それから一刻の後である。
 三木は厨から逃れて自分の布団の上に寝転がっていた。天井を睨む目は半眼に伏せ、何度となく深い嘆息が続く。
 結果からいえば、料理への挑戦は惨敗だった。具を同じ大きさに小さく切り分けることが出来ず、生煮えのものと形が崩れるほど煮えたものが入り混じり、鍋の底は焦げついて、慌ててかき混ぜたことで全体に焦げが混ざってしまった。雑炊は米から作るのだと聞いて挑んでみたが、米は芯が残っているし、それがなくなるまで煮込んだらやたらに水分が飛んでしまい、慌てて水を差したが今度は味が異様に薄い。塩を入れてもしょっぱさが増すだけで味がなく、醤油を垂らしたら色が悲惨なことになった。
 そうして恐る恐る一口食べてみた結果、放り出してふて寝するに至ったのだ。あれはもうだめだ。今晩の夕食は、また外で買ってくるほかない。
「……人を斬るほうがよっぽど簡単だな」
 千鶴が聞いたら顔をしかめそうだが、実際、そんな男はいくらでもいるだろう。だから煮売屋があちこちにあるのだ。普通に暮らしていく分には外食で困ることはない。
 とにかく大失敗だった。千鶴が起きてくる前にあれを処分して、夕食を買いに出なければならない。今日はどこの店の、何にしようか。献立など思いつくはずもなく、せめて昨日と被らなければいいかと重い身体を起こした。上着に袖を通し、財布を懐に収め、刀を取り――ふと、妙な感覚に襲われた。既視感だ。確か今日、こんな感覚を覚えたはず。
「……まさか」
 刀を帯に差しもせず、鞘を握ったまま急いで部屋の戸を開く。その瞬間、三木の鼻先を味噌の香りが掠めた。足を留めず、匂いの元へと走って乗り込む。
「あっ、三木さん。もう少し待ってくださいね。もう一品作りますから」
 三木を振り返った千鶴は、お玉を片手ににっこりと微笑んでいた。彼女の前には、三木の失敗作の鍋が煮えている。彼女の片手に味見用の小皿を見つけた三木は、奪うようにそれを取り上げた。
「馬鹿か! そんなもん食うんじゃねえよ!」
「きゃっ!?」
「……なんだ、これ。おい、まさかこれ食べるつもりかよ?」
 小皿の中身は、三木が味見したときとは少しばかり違っている。そもそも、三木が作った雑炊まがいの失敗作は味噌など使ってはいなかったはずだ。
 見れば、調理台の上にはまた別の小皿があって、そこには黒っぽいものが取り除かれていた。どうやら鍋の焦げたところを箸で出来る限り取り除き、その上で味噌を溶いて味を調えているらしい。そんなことであの残骸が食べられるものになるのか疑問は残るが、問題はそこではない。
 三木は千鶴の手からお玉を奪い取ると小皿と共に調理台の脇に置いた。そうしてかまどの火を落とそうとするが、千鶴が三木の背にしがみついてくる。腰にぎゅっと巻きついてきた腕を外しつつ振り返り、ひとまずお玉は鍋に戻し入れた。火を消さないのなら、また焦げ付かないよう混ぜておかねばならない。
 調理続行を認められたと思ったのか、千鶴はほっと安堵の息をついている。が、お玉でぐるぐると鍋を掻きまわす役目はひとまず三木が務めることにした。鍋をかき混ぜながらの説教などおかしいが、とにかく千鶴をいつまでも立たせているわけにはいかない。
「夕飯はこれから買いに出るから、これは諦めておまえは布団戻ってろ」
「えっ? でも、夕飯はその雑炊がありますよね? あともう一品、煮浸しを作りますから少し待っていてください」
「おまえ、こんなもん食う気か? やめとけよ。病人が食っていいもんじゃねえだろ」
「焦げたところはあらかた取りましたし、よく煮込んで具もちゃんとくたくたですよ。仕上げに小口ねぎをのせれば彩りもきれいです。それに、その……」
 言いよどんだ千鶴が、うつむき加減に口ごもる。鍋の底をかき混ぜ、焦げ付いてないのを確認しつつ、三木は上目遣いにちらちらと見上げてくる千鶴が口を開くのを待った。この様子では、ある程度話を聞いてやらないと部屋へ戻りそうにない。
 千鶴は少しの間視線を彷徨わせていたが、やがて意を決したように顔を上げると真剣な面持ちでぎゅっと拳を握りしめて口を開く。何を言うのか、三木も味噌の香りをかぎながら千鶴を見下ろした。
「私、三木さんの手料理が食べたいんです! お粥以外の料理、まだ食べたことないですから!」
「……………………あ?」
 ぐつぐつ。ぐつぐつ。
 いい加減煮すぎて煮詰まるだろう。ひとまず鍋をかまどから下ろし、畳んだ布巾の上に下ろす。湯気から漂う匂いは、三木が生み出した遺物の残骸とは思えない良い香りがしている。元が生煮えの水煮だと知らなければ、文句も言わず食べていたかもしれない。千鶴が作ったにしては、いつもより見目も味もずいぶん劣るだろうが。
 味見の小皿に少量取り、恐々と口をつける。味噌雑炊だった。煮込んだ時間が長いせいか、米の粘りが出ている。雑炊というよりはおじやに近いだろうか。病人食らしい、よくよく煮込まれた汁物のようなものになっている。これなら食べられそうだ。
 千鶴の小さな茶碗を取り、お玉でよそう。まな板の上に切り置かれたねぎを少し取ってぱらぱらと振りかける。こうして見ると、まるで最初からこういう料理だったように見える。
 そこまで用意したところで、三木は改めて茶碗やお玉を置いて、千鶴を見た。
「…………どういうことだ」
「あの、だから、三木さんがせっかく作ってくださったんですから、食べたいです。味を調えただけですけど、美味しかったでしょう? 今夜はこれを食べませんか?」
「……そりゃ、食えたけどな……」
 首の後ろがむずがゆい気がして、三木は千鶴から目をそらした。何か言おうと思うのだが、喉の辺りでつっかえてうまく言葉にならない。逡巡してようやく口にしたのは、胸の内に渦巻く感情とは関係のない言葉だった。
「……今日はこれだけでいいだろ。部屋戻って食うぞ」
「あっ……はい! お茶の用意も持って行きますね!」
 盆に用意していた急須へ茶葉を入れ、湯を注ごうとするのを制して今度こそ手で追い払う。その代わりに千鶴の分のお椀を持たせると、さじを添えて背を押した。まだ気がかりな様子で振り返りつつも部屋へ戻っていく千鶴を見送り、自分の分をどんぶりによそう。
 いくらか適当に盛り付け、急須と同じ盆に載せたところで思い立って酒と杯も一緒にのせた。
「快気祝い、っつーことで」
 この妙な気恥ずかしさを誤魔化せるなら名目など何だっていい。急須に湯を注ぎ、盆を手に厨を出る。敷き布団の上に座って三木を待っている千鶴は、三木が腰を下ろすのを待ってさじを手にした。
 ふうふうと吹き冷まし、嬉しそうに食べる千鶴に面映ゆい想いをしつつ、三木もさじを口へ運ぶ。味噌とねぎでずいぶん誤魔化されているが、やはり取り除ききれなかった焦げがいくらか残っていた。顔をしかめる三木に構うことなく、千鶴は二口、三口とおじやを食べている。
「三木さん、明日からは一緒に作りませんか? そうすれば私、そう長い間起きていないで済みますし」
 それは千鶴なりの譲歩か、あるいは優しさなのだろう。ここで「やっぱり明日からは私が」などと言えば三木の作った料理はだめだったということになるし、かといってまた三木に任せるのでは荷が勝ちすぎる。さじを見下ろし瞑目した三木は、ため息と共に顔を上げる。
「きんぴら」
「え?」
「胡椒飯、うどの焚き出し、焼き大根に粉山椒」
「あ……三木さん、辛いものがお好きでしたね。それじゃあ、明日は何かぴりっとしたのを作りましょうか」
「すぐ出来るものにしろよ。本当なら、おまえにこんなことさせてる場合じゃねえんだからな」
「ふふ。……はい、分かっています」
 話が途切れると千鶴はほんのり苦いおじやを嬉しそうに食べ続けた。いつもの千鶴の料理のほうが断然美味しいのだけれども――。渦巻く思念を振り払うように酒を飲みつつ、三木もまた黙々とさじを進める。
 千鶴を早く寝かせるためにも出来る限り早く料理を完成させなければいけない。まともに調理できない三木に果たしてどこまで出来るのか見当もつかないが、試してみるくらいは悪くない。やがてはここを出るのだから無理のない程度に身体を起こすのは必要なことかもしれないのだし。
 言い訳のようにいくつか理由をつけながら千鶴の横顔を眺めつつ、杯を傾ける。千鶴と二人で厨に並ぶ姿を思い浮かべると、不思議と少し楽しそうな気がしていた。





(16.06.25.)