燎原に祈りは満ちて





 血しぶきに暖かさを感じたのは初めてだったかもしれない。
 斬り飛ばされた千鶴はいやに軽い音を立てて地面を転がり、おびただしい量の血を流して血だまりを作っていく。彼女の白い袴が血を吸って紅く染まっていくのを、三木は立ち上がることも出来ずに呆然と見ていた。羅刹たちに斬りつけられた己の腕は刀を取り落し、刃こぼれした抜き身の刀は千鶴の近くに転がっている。
 三木の目はぴくりとも動かない千鶴を映し続けていた。そうしている間にも血の池はあふれ、広がり、三木の足元にまでじわり、じわりと侵食してきている。
「……ゆ、き……雪村……?」
 がん、がん、と頭が痛む。
 なんだ、これは。危ないから下がっていろと、そう言ってあったはずの千鶴が、どうして目の前で、斬られて、血が、あふれて。
 ぞくりと背筋を走った悪寒がようやく三木の喉を震わせる。千鶴の向こうで、綱道か薫か――あるいは他の誰かか。何かわめく声が聞こえていたか、何を言っているのかは認識できない。三木は思うように動かない身体で這い、倒れ伏した千鶴に手を伸ばす。
 ――と、千鶴の目が、三木を見た。虚ろな瞳を縁取るまつげがゆっくりと揺れ、千鶴は小さく唇をうごめかす。声は、ほとんど出ていない。
「みき、さ……ぶ、じ……よ、かっ……」
 途切れ途切れに呟くと千鶴は目だけを動かし、転がった三木の刀に視線を止める。緩慢な動きで手を伸ばし、震える手で柄を握ると、もはや持ち上げる力もないのか、倒れ伏したまま引きずり自身へと引き寄せる。
 は、は、と荒い呼吸を繰り返す千鶴は、一度目を閉じると、苦し気に寝返りを打つ。そうして仰向けになったところで、焦点も合わなくなりつつある瞳を綱道らへと向けた。
「来ない、で……と、さま……来、た……ら……」
 がちゃりと、三木の刀が音を立てる。凍り付いた場にいる全員が息を飲んだ。刀は、千鶴の首筋に押し当てられている。
 それきり、千鶴は何も言わない。身じろぎもしない。
 綱道が、薫が、乱入してきたばかりの不知火が何か言い合っているが、三木はただただ、呆然と千鶴を見つめる。
 千鶴の目からは、光が失われていた。


「――――――っ!」
 びくりと肩を跳ねさせて飛び起きた三木は、慌てて顔を上げる。目の前の布団で眠っている千鶴は、相変わらず滾々と眠り続けていた。まだ熱が下がらないのか寝息は少し苦し気で、それを見て三木はようやく深々とため息を吐く。
 悪夢の名残は冷や汗となって全身にまとわりついていた。枕元に置いた水桶へ浸していた手拭いを絞ると千鶴の額にのせたものと取り換え、三木は力なく項垂れた。
 悪夢はおおよそ現実に忠実で、ただ、千鶴は辛うじて死なずに済んでいた。三木を庇い背中を大きく斬りつけられた千鶴だったが、鬼の絶大な回復力のおかげで、時間はかかったがどうにか傷口は塞がり、担いで江戸へ戻ったときには外傷は引きつれたような痕があるだけになっていた。しかし、あの場で気絶したきり意識が一向に戻らない。呼吸は荒く、高熱が下がらない。
 鬼である千鶴を普通の医者に診せていいのだろうか。千鶴の不調の原因はどう考えても刀傷によるものだ。しかし普通なら死んでいるはずの傷が塞がっているのを、ごく普通の街の医者に診せてもいいのだろうか。早急に適切な治療が必要なのは間違いない。しかし三木にその知識はない。医術の心得がある知り合いといえば、今まさに苦しんでいる千鶴本人くらいなものだ。
 千鶴を背負い、休みなく江戸まで全力で駆け戻った三木は、しかしそのとき不意に一人の医者を思い出した。松本良順だ。彼は千鶴とも懇意にしていた。近藤たちともずいぶん親しかったはずだ。羅刹のことも、知っている可能性はある。千鶴本人の事情まで知っているかは分からないが、少なくとも彼女にとって不利な情報を外に漏らす可能性は低い。
 幸いなことに松本は旧幕府軍と共に江戸へ戻っていた。縋るような思いで三木は必死に松本の元へと駆け込み、そうしてようやく千鶴は一命を取り留めたのだった。
 松本は新選組に聞いていたのか、千鶴が三木と共にいることには驚いていなかった。無論、ひどい大怪我をしていることには驚き、どういうことだと三木を叱責もしたのだけれど。治療を受けながら話したところ、松本は羅刹のことを知っており、羅刹たちを率いていたのが綱道だったと告げると一瞬顔色を変え、それから不憫そうに魘されている千鶴を見つめた。
 千鶴の高熱は裂傷による損傷から発熱しているものらしい。そして傷口が塞がっても、失った血が戻らないから目が覚めないのだろうというのが松本の見立てだった。峠を越すまでは松本の元で診ていたのだが、少しずつ熱が下がり呼吸が落ち着いてくると、三木は千鶴を彼女の実家へ移すことに決めた。松本が滞在していた場所は旧幕府軍の兵を主に診ており、人の出入りも激しく落ち着かなかったからだ。それに、三木が赤報隊――新政府軍に属する者だと知られれば、千鶴が何をされるか分からない。千鶴の意識は日に何度か朦朧と戻ることもあったが、ほとんど眠ったままだ。松本から看病と薬の説明を受けた三木は、松本に教わった雪村診療所へと彼女を運んだのだった。
 江戸に実家があり診療所を開いていたというのは千鶴から聞いたことがあった。四年も家主が留守だった家は雑草が茂り、家の中はうっすらと埃を被り、ひどい有様ではあった。が、江戸の治安を考えれば家が焼けずに残り、物取りに荒らされもせず残っているほうが稀有なことではある。いくつか部屋を覗き、千鶴の部屋と思わしき部屋に彼女を寝かせ、今に至る。日中は少しずつ家の中の掃除をしたり庭の雑草を抜いてみたりしているが、千鶴が目覚める気配はない。
 重湯を日に何度か与えているが、明日までに意識がはっきりしないようならまた松本へ診せに行く約束になっている。意識さえ戻れば食事で栄養を取らせることも出来るのだが、重湯だけでは失った血を戻すには足りないだろう。
 それでも、これまでに何度か千鶴は目を開けていた。しかし呼びかける三木の声は聞こえないようで、虚ろな眼差しでうわごとを呟くと再び眠ってしまう。松本が言うには眠ることで身体を回復させようとしているのだろうということなのだが、三木は気が気でなかった。
 病人の面倒など見たことがない。まして刀で斬りつけられ、瀕死の重傷を負った者など。新選組と親しく、旧幕府軍側の医師でもある松本の言うことをすべて鵜呑みにするのは抵抗もあったが、千鶴を任せられるのは彼しかいないのも分かっている。医術の心得のない三木は、どうあれ松本の指示に従って看病を続けるほかないのだ。
 千鶴の寝顔を見ながらもう一度ため息をつくと、障子紙の向こうへ視線を向けた。辺りの静けさから考えるとまだ夜明け前なのだろう。小さな一室に息をひそめていると、何もかもが終わってしまったような気がしてくる。争いなど縁遠いような気さえしてくる。診療所を一歩外に出れば、その幻想も霧散するものだけれど。
 千鶴の容態が一応は落ち着いた今、時間に追われ続けて止まっていた思考が少しずつ動き出している。これから先、千鶴が回復したらどうするのか。このまま赤報隊から離れたままではいられないだろう。正式に隊を抜けるか、千鶴を置いて行くべきだ。もっとも、油小路の夜以降片時も三木の側を離れようとしない千鶴だ。置いて行ったところで追い掛けてくるだろうことは目に見えている。この大怪我で懲りてこの診療所に留まってくれればいいが――それはきっと、無理だろうと予感している。
 既に、元御陵衛士で赤報隊の二番隊にも同じく属していた同志への手紙はしたためていた。明日までに千鶴が目覚めなければ、彼女を松本の元へ運び、その足で手紙を出すつもりでいる。どのみち、赤報隊に籍を置いたままでは新選組のみを追い続けることは叶わない。上から指示があればまた京へ戻されたり、新選組とは関係のない戦場へ向かうことになる。それではここまできた意味がない。
 隊を抜けたところで、千鶴をこの先同行させるかどうかは考えものだ。傷が完全に治れば千鶴はまた三木についてこようとするだろう。そうしてまた、同じような目に合わないとも限らない。そんなのはごめんだ。また、親しい者を目の前で斬り殺されるなど。
 傷が治りきる前に置いて出て、消息を断てばどうだろうか。千鶴はそれで諦めるだろうか。答えは分かり切っている。否だ。千鶴は消息を断った父親を追って単身京都までやってきたのだ。今度はその探し人が三木にすり替わるだけだろう。それに千鶴は綱道や南雲薫に狙われている。ここへ一人置き去りにすれば彼女が犠牲になるのは目に見えている。見捨てることなど出来ない。
 こうして千鶴の看病をしながらじっと待つ日々を送る間にも、新選組は隊をあちらこちらへと動かしていた。甲府での戦は大敗を喫したらしい。屯所を鍛冶屋橋の屋敷から綾瀬の名主の元へ移し、今は人員の増強や軍備に努めているという。
 雪村診療所から綾瀬までは徒歩で一刻ほどだ。駆ければもう少し早く辿り着ける。単身で乗り込めば鳥羽伏見の二の舞になるのだろうが、幸い、綾瀬は新選組隊士らにとっても慣れぬ土地だ。どこか近くに潜んで様子を伺い、近藤や土方が一人でいるところを襲えばどうとでもなる。陽が落ちるより前に動けば羅刹が出てくることもないはずだ。近藤や土方を殺した後のことは、考えなくたっていい。
 そこまで考えて、三木は再び千鶴の額の手拭いに手を伸ばした。桶へ浸していたものと交換し、絞って額に乗せる。額や頬、首筋に張り付いた髪を払ってやりながら、三木は己の思案の現実味のなさに項垂れた。
 あれこれ考えても、自分が本当にそう出来るのか分からなくなっていた。
 兄や仲間の無念を晴らす。大切なものを突然奪われる苦しみを味わわせてやる。三木の苦しみを、哀しみを、新選組に死でもってあがなわせる。
 復讐の念も、怨む思いも変わらず三木の内に渦巻いている。この怨みを捨てることなどどうしてできようか。けれど今はただ、身も心も重くて仕方がない。ただ生きているだけの日々が辛くてたまらない。ここまで新選組を必死に追いかけ、走ってこられたのはどうしてだろうか。原動力となったはずの怨みは少しも変わらず在り続けているというのに、どうして。
 瞼を閉じるたび、赤い血だまりが脳裏を焼いた。
 地を舐めるように広がる死の色が三木の足先を染めていく。
 夢の中で、何度も千鶴は息絶えた。もうどちらが現実なのか分からなくなるほど、繰り返し悪夢を見続けている。
 どうして飛び出したのか。どうして庇ったのか。いいや、まず、どうして千鶴は新選組を慕っているのに三木についてくるのだ。復讐のために無謀な行いをした三木を必死で止め、庇い、どうして今もまだ側にいるのか。
 京都で父親探しに協力した恩義なら、もう充分果たしたはずだ。一年にも満たない、あの穏やかな日を思い返すと喉を掻きむしってのたうち回りたくなるような悔恨まで蘇る。あの頃は兄がいた。油小路で殺された同志も共に過ごしていた。千鶴がいて、御陵衛士としての活動は順風満帆とは言い難いものであっても満たされてはいた。悪くない日々だった。その思い出が、今は血の色に染まっている。
「……雪村」
 畳に膝をつき、千鶴の寝顔に手を伸ばす。血の気の失せた顔は、それでもずいぶんましになっている。一時は本当に、死に瀕していたのだ。今だって、急変する可能性は失せていない。
 水中にいるような息苦しさを感じて、三木は浅い呼吸を繰り返す。喉が渇き、目の奥がじりじりと痛む。唇を噛み、布団の中で力なく投げ出されている千鶴の小さな手を恐々と握った。祈るように両手で包んでも、そのか細さに不安が膨れ上がる。
 この手が、あの日三木を救ったのだ。千鶴が飛び出し、命をかけて綱道たちを止めなければ三木はとっくに羅刹たちに殺されていた。この小さな手が、弱々しい命が、三木の刀で自分の命を断とうとした。それほどの覚悟で千鶴は三木についてきていたのだ。
「……違う」
 絞り出した声は、今にも泣きだしそうに震えている。怒り、怨み、哀しみ、戸惑い――様々な感情がない交ぜになって、心の中が乱れて鎮まらない。
「こいつは、違うんだ」
 どうしてこんなことになったのだろう。どこで何を間違えたのだろう。
 兄が、仲間が殺されたこともそうだ。千鶴が死にかけていることもそうだ。
 三木の手の届かないところで、力及ばないところですべてが終わろうとしていく。守りたかったはずのものが方々で失われていく。三木の手にはもう、いくらも残っていない。この小さな手は、残されたものの一つだったはずだ。
 強く目を瞑り、握りしめた手を額に押し付ける。喉が震えて、嗚咽のような呼気が漏れる。それでも三木は、何かに縋るように口を開く。
「兄貴、毛内、服部、藤堂……」
 あの夜死んでいった仲間たち。志半ばに倒れた同志たちに願う。
「連れて、いかないでくれ……!」
 言葉にした途端、堪えきれずに目を開いた。視界は歪み、千鶴の寝姿もおぼろげに歪む。
 千鶴は、千鶴だけはずっと共にいた。復讐心に逸る三木を止めはしたが、無謀な行いを諫めるだけで、新選組に味方してやつらを殺さないでと言いはしなかった。無論、殺されたくはないはずだ。けれど、三木の苦悩も千鶴はよく分かっているのだろう。亡くなった伊東や御陵衛士たちとも、千鶴は共に暮らし、過ごしていたのだから。
 板挟みになりながら、それでも千鶴は三木を案じてずっと側にいてくれた。そのせいで今、千鶴は死の淵にいる。
「オレは、こんなこと、望んじゃいない……」
 千鶴は関係なかったはずだ。三木が彼女に父親探しの手助けなど言い出さなければ、手を差し伸べなければこんなことにはならなかった。けれど千鶴がいなければ、己は血気に逸って新選組の屯所へ乗り込み、死んでいたかもしれない。
 こんなことになるなんて想像もしていなかった。御陵衛士の生き残りの仲間たちも、千鶴も、死なせるつもりなどなかった。守れると思っていた。少なくとも側にいれば、死なせずに済むと――伊東を一人で行かせてしまったあの夜のようにはならないと、そう思っていた。
「こいつまでいなくなったら、オレは……」
 何かを選んでも、側で守ろうとしても失ってしまうのだとしたら。目の前を塗りつぶしていくのは絶望の闇ではなく、忌避する血の赤だ。兄の、仲間の、千鶴の血が三木を足先から染めていく。何も果たせず、奪われるばかりの足は、竦んだまま血だまりの中に呑まれていく。
「千鶴……千鶴……!」
 震える手の中で、彼女の手はまだ温もりを伝えている。悪夢の続きは、まだ現実には及んでいない。まだ、千鶴は生きている。
 涙を流すことさえ出来ずに夜明けを迎える三木は、忍び寄る死と不安の影に怯えながら失われた命に願い続ける。炎より赤い血だまりの向こうに消えた敬愛する兄に、仲間に。
「連れていくな……まだ、オレは……っ」
 静まり返った診療所に、消え入りそうな嘆きの声が絶えることはなかった。





(16.06.25.)