我が愛しき弟妹よ!





 出来の悪い子ほど可愛いと言うけれど、本当にそう。私の弟はそれはもう、それはそれはもう、目を覆いたくなるほどひどく荒れた時期がありました。
 弁が立ち、悪い知恵は働くのですけど、亡くなった父の残した私塾を継いだかと思えば子どもたちと合戦ごっこばかり。あっという間に残された生徒は散り散りと逃げ、塾は閉鎖。
 父の様々な――あまりお話したくないあれやこれやのおかげで藩から遠ざけられていた私たち一家から弟を養子に受け入れてくださる方がおられたときも、あの子は与えられた役職にも不真面目で酒に溺れて放蕩三昧。目に余ると離縁され、けれど今さら私たちの元にも戻れず。これで懲りたかと思うでしょうけれど、残念。あの子は素行の悪い同僚とつるんで仕事は手抜き、あるいは狡く休み抜け出して酒、酒、酒。藩の規則もたびたび破るものだから、とうとう藩での職も失ってしまいました。
 それからしばらくは、まぁ色々とあの子なりに学ぶことがあったのでしょうけれど――そんな弟でも、私にとっては可愛い可愛い弟に変わりはありません。血を分けた兄弟が、自ら私と同じ志を見出していたことも嬉しいことでした。私や同志たちと共にしばらく江戸で活動を続けていた弟は、新選組の組長となっていた我が門弟・藤堂君の勧誘を受けた私と共に新選組へ加入し、ほどなく組長を務めることと相成りました。
 懲りて辞めたわけではないのでしょうけれど、破れば死罪の法度を破ることはなく、酒で身を崩すこともなく、私が同志諸君とこの国の行く末を語り合い、議論し合えば忌憚なく意見を述べ、そう、とても良い子になっていたのです。口の悪さはもうどうにもならないことなのでしょうけれど、ええ、それでもあの子はとても良い子でした。
 そうでなくては、いがみ合った相手の抱えていた子の苦境に目を留めることも、その子に寄り添おうなどとも思わなかったでしょう。昔のままのあの子であれば、きっと気に留めることもなかったにちがいありませんわ。
 その子は哀れな子でした。広いとはいえ京の寺の一角を間借りしているに過ぎない新選組の屯所から、一人で出ることを禁じられていたのです。それでもなお心優しく、新選組のためを思い心を砕き、朗らかに日々を過ごしていました。そこまでは共に暮らしているだけの私にも分かっていたことです。けれどあの子はもう一歩、二歩とその子の心の内側へ踏み入っておりました。
 たった一人の家族であるという父を探して、幼いその子は一人京へ上ってきたというのです。残念ながらその話を聞きだした頃には、既に私たちは近藤さんたちと――その子の上役である土方君たちと志を別にしようとしていましたから、あの子はその哀れな子と話すだけでもいくらか苦労していたようでした。
 それにしても、その甲斐甲斐しいことといったら! 私、あの子があんなにも誰かに優しく、そしてただ一人に心を砕けるなんて初めて知ったのです。裏表も損得もない、仏の慈悲のように無償の慈しみを、あの子は持っていたのです。
 いいえ、いいえ――あの子はもしかしたら、ええ、きっとその子に出会ったからこそ、こうした情を持つようになったのでしょう。二人の間には微笑ましくも切ない、暖かな情が通っておりました。
 その可哀想な子は、これは伏せておかねばならないことなのですけれど、少女のように愛くるしい少年……のようで、その実、本当に少女だったのです。そう、それもとびきり美しい顔立ちの、心優しく穏やかな少女でした。弟は彼女を気に入り、隊務の合間を縫っては時間を作り、人目を避けて逢瀬を重ねました。
 誤解して頂きたくないのですけれど、弟は決して色を求めて彼女に近づいたのではありません。たった一人の家族である父親の行方が分からなくなり、今まさに天涯孤独になろうかというその子の父親探しを手伝おうと、弟はそう考えたのです。弟にも、私たち同志諸君にも何ら利益のないこと。それでも弟は出来る限りの協力を惜しみませんでした。
 私に頭を下げ、持ち得る縁を頼りに頼り、遠く西国の知人にも文を送りました。彼女が明るく過ごすその裏でひっそりと悲しみに沈む夜には、黙って隣にいてやりました。屯所の外の世界に疎くなりつつある彼女にそのとき流行りの菓子をやり、せわしく働く日には季節の花枝を渡しました。
 ほんの数年前までは酒を飲んで乱れに乱れていたあの弟は、まったく誠実に、童のように純粋に彼女と付き合っていたのです。なんて清らかなことでしょう。なんて美しいことでしょう!
 恥ずかしながら私、最初はあの子の心を疑っていたのです。土方君の小姓である彼女から何か聞き出すつもりで、あるいはその子のことで弱みを握るつもりで近づいたのではないかしらと――だからこそ彼女に近づくのを放置していたのですけれど。私、ずいぶん久しぶりに己を恥じたものですわ。うたた寝をしている彼女を見つけて駆け寄ったあの子の横顔といったら、もう、兄である私も――いえ、兄だからなのかもしれませんけれど、思わず照れて目を覆ってしまいたくなるほど愛おしげだったものですから、迂闊な彼女へ厳しい言葉を言いつつも、その苛立ちも彼女を案じるからこそ、と……ああ、思い出すだけで照れてしまいますわね。表向きはぎょっとして慌てて駆けより、抱き上げて部屋へ運んで差し上げただけなのですけれど、あの子の瞳の、舌よりも饒舌なことといったら! 私、思わずその日の内に確認してしまったほどです。何ってそれはもちろん、ええ、そう――


「兄貴、おい兄貴!」
 耐えかねて声を上げた三木は苦み走った表情を隠さず顔をしかめたまま、未だ滔々と衝立に語り続けている兄の前から酒を取り上げた。同志である他の隊士に兄・伊東が深酔いしたからと呼ばれて来たはいいが、兄の話は国政の話からどんどんと逸れて、いつの間にか三木と彼が連れ出した雪村千鶴の話になっていた。酔ってご機嫌に話す兄を止めるのは難しそうだと判断して早々に他の連中は部屋から追い出したわけだが、伊東はそれすら気付かずに、話中の当人である三木相手に話を続けている。
 雪村千鶴に関して兄の誤解が根深いのは分かっていたつもりだったが、これは相当のものだ。確かに三木は下心なく彼女に協力しているけれど、それも当初は土方たちの弱みを引き出せるかもしれない、そうでなくても彼女に執心の幹部たちを引っ掻き回せるかもしれないと、そんな考えから近づいた末の話でしかない。結果的にはそういった策略に彼女を近づけたくはないと思い今に至ったのだが、最初から小奇麗な気持ちで関わったわけではないのだ。
 己は聖人でも善人でもない。ただ、父を今まさに失おうというそのときに、たった一人この苦境の中で耐え、いつか再び会える日を心の支えにしている彼女の姿を見て、昔の自分を思い起こしただけだ。三木が父を失ったのも、ちょうど千鶴が父・綱道と連絡が取れなくなったのと同じ十六のときだった。千鶴はそれから一年、二年と新選組で過ごしていると知り、つい彼女個人の事情に興味が湧いてしまった。
 そこから先は兄の言うように損得抜きで関わってはいたが、最後の辺りは誤解も誤解、まったくあり得ない話だ。十も離れた千鶴に手を出すなどと、そんな話は聞きたくもない。確かに彼女は愛らしい面立ちをしているが、だからといって手を出せば、まるで三木が最初から手近なところで女を調達しようとしたようではないか。そんなつもりはないし、他の者に手を出させるつもりもなかった。三木にも千鶴にもそれぞれ命をかけてでも為すべきことがあるのだ。そんなことにうつつを抜かしている場合ではない。
 千鶴と話すのは気分転換にもなって楽しいし、つい話が弾んで時を忘れることもある。女性らしい細やかな気配りに始まり、近頃では自由に父を探せるようになった安堵からか以前より一層和らいだ笑顔を見せるようになり、その笑顔を見ているとついからかったり、甘やかしたりもしたくはなるのだけれど――。
「……違う、そうじゃねえ」
 三木はぶるぶると頭を振るって、まだうだうだと三木と千鶴の睦まじい日々――もちろん、事実ではなく伊東の脳内で作り上げた創作話――を語り続けている伊東を尻目に、戸を開けると廊下へ顔を出した。「おい」と声をあげると、すぐに「はぁい」と答えが返る。厨にいたのか、前掛けを付けたまま軽い足取りでやってきた千鶴の手には盆があり、湯呑と急須も乗せられていた。言おうとしていた名前も要件も、三木が舌に乗せる前に用を済ませてしまったらしい。
 戸の前で一度きちんと膝をついて頭を下げ、それから千鶴はするりと部屋へ入ってきた。一人で機嫌よく話している伊東の姿に一度目を丸くはしたものの、すぐに苦笑いになって、三木の近くで盆を下ろす。
「お水と、こちらが酔い覚ましの薬です。急須の白湯はぬるくしておきましたから、そのまま飲んでも平気です。……どうしましょう?」
「いや、今すぐ飲ませるのはな……」
 これだけご機嫌なのだ。無理強いすれば拒む可能性もある。それに、普段は立場上こうしてうっぷん晴らしもできない身だ。離隊してからも苦労が多いことを思えば、今夜くらいは好きなだけ暴れさせてやるべきなのかもしれない。
 はぁ、と知らずため息が出て千鶴が心配そうに三木を見上げる。立っても座っても、千鶴はよくこうして三木のことをじっと見上げてくる。その目は大体こうして不安げなことが多いような気がした。だからこそ、らしくもなく宥めるようなことを口にしてしまうのだろう。
 すいと持ち上げた手は、行先に迷って千鶴の頬に触れる。色白の肌の思っていた以上の柔らかさに指先はひたと止まり、それからごまかすように、ふにっと摘まんだ。親指と人差し指の間で、柔らかくどこかしっとりとした肌をむにむにと弄ぶ。
「な、なにひゅるんれすか」
「……今日の相手、頭が固くて話にならなかったんだよ。偉そうな態度だけは立派だが中身がねえ。とんだ期待外れで……その上、兄貴にもふざけたことあれやこれや抜かしやがって」
 眉をひそめた千鶴の抗議で大人しく頬は解放しつつ、三木は盆に載せられた湯呑を一つ手に取った。三木も最初は伊東や仲間たちと飲んでいたが、早々に部屋に下がって休んでいた。酔いはとっくに醒めているが、口寂しさから急須の白湯を少しだけ注いで口を付ける。
 頬を両手で抑えていた千鶴は、三木の話を聞いて改めて伊東へ目を向けている。伊東の話は、三木と千鶴が初めて手を繋いで出掛けた時の話に移っていた。無論、架空の話である。
「伊東さんがこんなに酔っていらっしゃるの、初めて見ました」
「そこそこ飲める人だからな。今夜は酔うつもりで無理に飲んだんだろ。……とにかく、これじゃ一人で寝かせるわけにもいかねえし、護衛も兼ねてオレはこのままここで休む。お前は先に休んでろ」
「えっ、ここでお休みになるんですか? お布団、お持ちしましょうか」
「護衛が寝てどうするんだよ。今夜は他の連中も多少飲んでるし、何かあったら困るだろ。いいからお前はさっさと寝ろよ」
「……でも……」
 今日出掛けていたのは三木も同じだ。先に休もうとしたくらいなのだから、三木が人並みに疲れていたのは隠しようもない。だが、御陵衛士は屯所を得て活動をし始めた今も不安定なままだ。表向きには平和に分隊したが、新選組が御陵衛士を良く思っていないのは間違いない。新選組が不穏分子をどう扱うのかは、まだ壬生浪士組と呼ばれていたときのことを遡れば分かりきっている。局長であった芹沢を殺したように、伊東もいつ殺されるか分からない身の上だ。表向き斬る理由がないのだから、あるとすれば暗殺、闇討ち。それが分かっているから、御陵衛士の隊士は皆、寝るときも刀をすぐそばに置くか、抱いて寝ている者もいる。
 その可能性は千鶴にも話していて、さすがの新選組も千鶴までは殺すまいとは思いつつも、何かあれば衛士に構わず逃げるよう言い含めている。だから三木が伊東の側で寝ずの番をしようという言い分も詳しく話すまでもなく千鶴は分かっていて、けれどやはり三木のことが心配で、納得できないのだろう。
 千鶴が次に言い出すことは容易に想像がつく。それでいて彼女を無理やり追いださず、三木は千鶴の言葉を待った。今日は一日、少ない隊士数人と留守番をしていた。帰って夕食を食べ、すぐに休んだ三木は今日千鶴がどう過ごしたのかも知らない。
 千鶴は一度膝の上に視線を落としてから、躊躇いがちに三木を見つめ、小さく首を傾げた。幼い仕草に、三木は目を細めて見つめ返す。
「私がここで起きていますから、三木さんはせめて横になってください。何かあれば起こしますから」
「馬鹿言うな。お前に忍び込んでくる奴らの気配が分かるのか?」
「……盾にはなれます。一太刀防げれば、その隙に三木さんも伊東さんも……」
「冗談じゃねえ、女子どもに庇われるなんざ名折れもいいところだ。いいからお前は部屋へ戻って寝ろ。大体、なんでこんな時間まで厨にいたんだ。いつも早く寝ろって言ってるだろうが」
「明日の食事の用意と、梅を頂いたので漬ける支度を……」
「全員分の食事を用意する必要はないって言ってるだろうが。もうお前は小姓でも小間使いでもねえんだ。そんなことしなくても追い出したりしねえよ」
「好きでしていることですから。それに、三木さんにも皆さんにもこんなにお世話になっているのに、私がお返しできることはこれくらいしかありませんし……」
「だからって毎日毎日朝から晩までオレたちの世話しなくたって……」
「――ふふ、うふふふっ」
 既に何度も交わしたやり取りを飽きもせず繰り返す羽目になっていた三木と千鶴は、すぐ横から聞こえた笑い声にはっとして伊東を振り返る。もめているうちにくすねたのか、取り上げたはずの徳利を手に、伊東はにんまりと笑って自分の頬に手を当てた。
「二人とも、もう遅い時間ですからね。痴話喧嘩は自分のお部屋でなさい」
「……は? いや、待て待て、そうじゃねえだろ兄貴!」
「わ、私たちそんなつもりじゃ……」
 酔っ払いに果たしてどこまで通じているのか、慌てて腰を上げ伊東の口を塞ごうとする三木に追い打ちをかけるように、廊下から大きく咳払いが聞こえる。さっきからあちらこちらと振り返る羽目になっている三木と千鶴が戸を振り返ると、静かに戸を開けた毛内が小さく頭を下げた。
 いつも通りの物静かな様子で、傍らの千鶴にちらりと目を向けてから三木へと口を開く。
「俺はもう酒が抜けている。今夜は俺が伊東さんの隣の間に控えるから、三木君は雪村君と一緒に早く休むと良い」
「いや、だからこいつとはそういうんじゃ……」
「雪村君、厨の豆と貝は明日の用意かな」
「あっ、はい、そうです。そら豆のご飯としじみのお味噌汁にしようかと」
「ああ、それはいい。俺はそら豆は味噌漬けも好きだ。母がよく出していてね」
「お味噌ですか。いいですね、作ってみます」
「やあ、ありがたい。楽しみにしているよ。では、二人ともお休み」
 さあさあ、と半ば追い出されるように廊下へ出た三木と千鶴は呆気にとられたまま、会釈してさっさと戸を閉める毛内と、その後ろから笑顔で手を振っていた伊東を見送るしかなかった。
 伊東も一目置く知恵者の毛内である。一体いつからあそこにいたのか、うまく丸め込まれたなと三木はぐしゃぐしゃと頭を掻いた。三木も弁舌は立つほうだが、毛内はよく書を読み学に優れ、見識もある。ああいった場でうまく間に入るのは毛内の得意とするところだ。やり合うだけ不毛である。
 見る限りでは実際に酒もすっかり抜けているようであったし、伊東の護衛を任せるには申し分ない。彼の剣の腕はそれほどでもないとはいえ、疲れの残る三木がうたた寝をしてしまう可能性のほうがよほど危うい。まったく綺麗に収められてしまったが、結局千鶴とのことは分かっているのかいないのか、反論や訂正の余地もなかった。このままなし崩しに事実だとされてしまうのは絶対に避けたいのだが……。
「あの、三木さん。もうお部屋に戻りませんか?」
「ん? ああ……そうだな」
「じゃあ、おやすみなさい」
 ぺこりと頭を下げ、千鶴は廊下の向こうへと歩き出す。三歩目まで見送り、四歩目の前にその腕を掴んだ。
「……待て、どこ行く」
「ど、どこって……お勝手がまだ片付いていないので」
「火は落としてるんだろ? なら続きは明日にしろ」
「で、でも!」
「でももへったくれもねえんだよ! お前はオレと寝ろ!」
 と、そこまで言い切ったところで、すぐ近くの戸がするりと開いて伊東が笑顔で顔を出す。
「静かになさいね、二人とも」
「は、はい……」
「悪い、兄貴……」
「仲良く、静かにお休みなさい。ではまた明日、御機嫌よう」
 すすす、と戸が閉まるのを黙って見送り、三木は振り返らず自室へ戻っていく。千鶴の腕は掴んだままだったが、千鶴も大人しく着いてきていた。そうして黙々と廊下を進み、奥に用意された三木の部屋、そして並んだ千鶴の部屋へとたどり着く。護衛のために部屋を並べてあるのだけれども、今はそれすら気まずい。掴んでいた手を離すと、千鶴は俯き加減のままちらちらと三木の目を見てはそらし、見てはそらし……その耳はもちろん、首まで赤く染まっている。上気しているのが月明かりでも分かるほど近くにいるのか、今夜の月が特別明るいのか、はたまた三木の目にそう映っているだけなのか。
 まったくわけがわからない。とにかくこれ以上千鶴の側にいるのは良くないと、重い身体を自室の中へと滑り込ませる。
「じゃあな」
「は、はい。おやすみなさい、三木さん」
 そそくさと自分の部屋へ戻っていくのをちらと横目で見送り、今日一番の深いため息と共に襖を閉めた。夕食の後に一眠りしていたから眠気はすぐにはこないだろう。布団を被ってしまいたいのは山々であるが、それも顔が熱いままでは難しい。
 何となく隣の部屋へ続く壁を見つめてしまう己に慌てて無理やり寝入るまで、三木は寝苦しい夜を過ごす羽目になったのだった。





(16.05.30.)