かさねがさねのお付き合い





 御陵衛士の屯所として伊東が話を付けてきたのは、西本願寺からは東へ少し離れた寺院だった。鴨川を東に越えたことで、新選組の巡察と鉢合わせることもなかろうという立地だ。十数名の隊士と、そして三木が身柄を預かるということになっている千鶴はこの地へ落ち着くことになった。新選組の屯所にいた頃と同様に、やはり小さいが個室を与えられた千鶴は、多くない荷を解くと窓や戸を開けて一息ついていた。
 御陵衛士になったわけではないとはいえ、一緒に住まわせてもらう限りはと伊東や三木らの引っ越しの片付けや掃除を手伝った後だった。その御陵衛士の隊士たちはというと、さっそく広い板の間で今後の活動について熱心に話し合いを始めている。
 彼らに茶を出して自分の部屋に下がり、今度は自分の荷ほどきをと風呂敷を解いたはいいものの、千鶴の荷物はまったく小さなものだった。少しの着替えと近藤らから私的に貰っていた小間物が文箱に収まる程度で、小さなつづら一つにすっかり収まるほどしかない。貰った小間物も手鏡や髪結い紐の替えくらいのささやかなものだ。
 新選組を離れることにはなったが、千鶴は彼らと仲違いしたわけではない。今の新選組には綱道を探す余裕がない、羅刹の害から身を守る為、彼らが千鶴の護衛などに人手を割かなくて済むように……。理由はいくつかあるものの、とにかく、離れるという結果になったのは自分で決めたこととはいえ残念なことだ。その彼らから貰った物を、捨てたり置いて行くよう言われなかったのは本当に幸運なことだった。これまで世話になった感謝と共に、土方から貰った椿の彫り物の手鏡を撫でる。
 世話になった彼らに報いるには、綱道を無事見つけ出すしかない。見つけ出し、変若水の研究について新選組へ行ったことの責任も負うべきだ。山南や羅刹になった隊士のためにも、何としても見つけ出さなければならない。
 そんな決意も新たに、手鏡を小さな文机に置いた。寺社の一角ということで簡素な部屋だが、必要なものは一通り揃えられている。足りないものがあれば明日にでも買いに行こうという話も出ていたから困ることはないのだろう。物を取り出して中の軽くなった文箱の底には、本来文箱にしまうべき文がいくつかしまわれていた。ほとんどは江戸で待っていた頃に綱道から送られてきたもので、京へ上る際に持ち出したものだ。あとはお千から送られた文がいくつか。彼女にも事の顛末と所在を知らせたいが、どこまで話して良いものか分からない。落ち着いたら三木に尋ねてみようと、そう考えたところでふと奥にしまっていた書き付けのいくつかを取り出した。
 手紙というには少しばかり粗末な、紙切れに一言二言書き付けただけのものだ。用も済んだので捨ててしまっても良かったものを、千鶴は一つ、二つと取り出して笑みを浮かべた。
 急いで書いたのか、筆運びの乱雑なもの。
 菓子を包んだ端に、早く食べるようにと書かれただけのもの。
 字は大きく、力強い。ただ、千鶴にも読みやすいようにと考えてか、かなが多く使われていた。送り主のこうしたささやかな気遣いにどれだけ驚き、また嬉しかったことだろう。屯所で雑用を終えて部屋に戻ったとき、戸の隙間から差し入れられたこの書き付けが落ちていると思わず笑みがこぼれたものだ。
 この小さな手紙たちを受け取るようになってから、もう一年以上が過ぎていた。貰うのは月に一、二度くらいのことだから量はそれほど多くない。菓子を包んでいて汚れたものなどはいくつか捨ててしまったが、こうしてたくさん集まった様子を見ると、少しもったいないことをしたような気もしてくる。
 これからは直接要件を伝えてくるだろう。伝言だって簡単に出来る。良いことなのだろうけれど、やはり惜しい気持ちもある。うーんと声に出して言ってみると、思っていた以上に残念そうな声が出た。
「やっぱり、これは大事に取っておこうっと」
「なんだそれ?」
「これは屯所から持ってきたもので……」
 問いに答えかけ、文箱の底にしまおうとしていた手をとめた千鶴は慌てて戸を振り返る。開けたままの障子戸に手を掛けた三木が怪訝そうに立っているのを見ると、慌てて手紙をしまい文箱の蓋を手に取った。そのまま蓋を閉めてしまおうとする千鶴の手首をつかみ、部屋へ入ってきた三木は興味津々といった様子で文箱の中を覗き込む。からかうつもりの意地の悪い笑みを隠しもしていない。
「なんだよ、連中からの手紙か? 隠すこたぁないだろ」
「ち、違います! これはその、えっと……」
「よっ、と……あ? おい、これ……」
 止める間もなくひょいと書き付けを抜き取って見た三木は、目を丸くするとすぐに苦い顔で千鶴を見下ろした。掴まれていた手首は離され、千鶴の隣にどかりと腰を下ろしてしまう。書き付けを目の前にずいと差し出され、千鶴は逃げるように顔を背けた。
「なんでこんなもん後生大事に取ってんだ。貧乏性か、おまえは? 捨てとけこんなもの」
「だ、駄目です! 返してください!」
 今にも握り潰されそうな声音に急いで書き付けを取り返すと、三木から庇うようにぎゅっと胸元へ抑え込む。片手で文箱の蓋を閉め、それも身体の後ろへと隠してしまった。そんなことをしても三木が本気になれば簡単に奪い取られてしまうのだろうが、必死な千鶴の様子に三木は呆れ顔で首を傾げる。
「なんだってそんなもん残してるんだ? オレが書いたのはただの書き付けだろうが」
 そう、書き付けはすべて三木が書き記したものだった。まだ新選組の屯所で過ごしていた頃、ふとしたきっかけで親しく話すようになり、けれど近藤派と呼ばれた土方ら幹部たちが良い顔をしないので隠れるように短時間会って話していた頃のやりとりだ。
 大抵は三木が千鶴へ会いに行ったり、すれ違ったときにいついつ話そうと約束していたが、千鶴はもちろん三木にも九番組組長としての隊務がある。急に時間があいて千鶴と話そうかと思っても、その千鶴が今は仕事中で手が離せない。近くに誰か幹部の姿がある。そんなときに、書き付けを部屋に置いて話す時間の取り決めをしていたというだけだった。約束というより、三木が一方的に決めて渡しているだけで、千鶴がその時間に雑用を言いつけられたり幹部から呼ばれてしまえばそれまで、という緩やかな取り決めだ。時間が合うなら話そうと、ただそれだけのこと。
 会ったところで三木にとって一番の関心事である政の話をするわけでもなく、雑談をしたり茶を飲んだり、将棋や囲碁で遊んでみたりと、三木にとってはただの気分転換の暇つぶしにしかならないような時間だ。それでも、千鶴にとってはとても楽しい時間だった。ほとんど屯所から出られない千鶴にとっては、関わりを許された限られた幹部たちが話して聞かせる内容だけが知識や世界のすべてだった。だから誰であれ新しく話が聞けるのは楽しかったし、つかず離れず、距離を保ったまま話をしてくれる三木は他の幹部と話すのとはまた少し違った感じがしていた。
 もちろん、当初は警戒したものだ。土方にも自分たちへの勘繰りに利用されるだけだろうと言われていたし、千鶴もそうだと思っていた。けれど本当に些細なきっかけで、千鶴が父親探しのために新選組へ身を寄せていることを知り、少しずつ誤解が解けると、意外にも三木は千鶴に好意的に、少なくとも近藤派と呼ばれた隊士たちとは違うのだと理解した上で向き合ってくれるようになったのだ。
「だって、これは……思い出なんです。私にとっては、とても大切なものなんです」
 いくどかの話の中で、三木は自分の家族の話も少し聞かせてくれたことがある。既に亡くなったという父や、兄である伊東や郷里に残った他の兄妹のこと。言葉数は多くないし明け透けに話したりもしない。ただ、三木が伝えたかったのは家族を大切にしている千鶴への共感だった。結局許可は下りなかったものの、自分の巡察にも千鶴を同行させて良いのではないかと土方に言ったこともあったらしい。
 羅刹を、変若水を知ってしまったということは伏せたままの付き合いだった。だから三木は本当に、父を探して上京してきた者という千鶴本来の姿だけを受け入れて親しくなってくれたのだ。土方らと千鶴の関係が悪化しないよう気を遣いつつも、綱道が見つかるよう色々と一緒に考えてくれた。それが何より嬉しかった。
 この書き付けたちは、そんな三木との積み重ねの証だ。内容や貰ったいきさつがただの書き付けでも、千鶴にとっては今現在最大の理解者である三木との、いわば友情の証にも等しい。
 必死に書き付けを庇い、じっと見つめてくる千鶴に、三木は目を伏せてため息を吐いた。何しろ、何かと物騒なこの時世に、大した腕もないのに単身上京してくるような女だ。肝が据わっているというのか、千鶴にはこうと決めたら梃子でも動かぬところがあった。だからこそ、三木はその決意に感心して千鶴の父親探しに協力することにしたわけだが――。
 追い詰める意図はないと軽く身を引いて示しつつ、千鶴の胸元に押し付けられている書き付けに目をやる。
「ま、密書でもなし、好きにすりゃいいけどな。そんなのがオレとの思い出にされちまうのか」
 本当にただの落書きにも等しい走り書きばかりなのだ。「明日午後」だの「早く食え」だの、一言で終わったものも多い。当然捨てていると思っていた三木にとっては、みっともない書き置きがいつまでも残っているのはいささか気にかかることではあった。が、千鶴がこうまで必死に「大切なものだ」と言うなら、それはまんざらでもない。
 少し考えて、三木は不意に思いついて膝を打った。
「なら、今度はきちんと手紙を書いてやろうじゃねえか。それなら、そんな紙切れどうってことなくなるだろ」
「三木さんが、私に手紙を書いてくださるんですか?」
 てっきりもう書き付けすら貰うことがなくなると思っていた千鶴は驚いて喜色を浮かべる。けれど少し悩んで、胸元に抱えていた書き付けを背後に隠していた文箱にしまうと、今度はその文箱を膝に載せて口をとがらせた。
「お手紙も欲しいですけど、だからってこの書き付けを捨てるのは嫌です」
「おまえなぁ……。まぁいい、手紙は欲しいんだな? だったら気が向いたら書いてやるよ」
「あ、ありがとうございます! 嬉しいです……私もお返事を書いていいですか?」
「は? そりゃ構わねえけど」
 千鶴がずいぶん嬉しそうにするから書いてやるかと思っただけだったのに、妙なことになったと三木は頬を掻く。西本願寺の屯所よりはずっと手狭で、くわえて千鶴は三木が個人的に預かっているという扱いなので部屋も近い。万が一にも御陵衛士の隊士が千鶴に妙な関わりを持たないようけん制する意味でも、綱道探しに協力する意味でも、当面三木は御陵衛士としての活動をしている以外は千鶴と共に過ごすことになるはずだ。その二人が手紙のやりとりをするなど意味が分からない。いつでも好きなだけ話せるのに何を書いたら良いのか難しいくらいだ。外へ出掛ける三木はまだしも、付き添いがないと相変わらず外出は難しい千鶴が自分に何を書いて知らせようというのだろう。
 考えるほどに滑稽で、三木が喉の奥で笑うと、千鶴もよく分からないままつられて笑っている。
 父親探しのためとはいえ、親しくしていた幹部連中の大半と袂を別つ形で三木についてきた千鶴である。西本願寺を出るときも気まずそうにしていたし、時々悲し気に考えている様子であることは三木も気付いていた。だから、こうして千鶴が安心した様子で笑っているなら、まぁいいかと思うのだ。
 手紙のことを他の隊士に伏せておけば、からかわれることもないだろう。そう考えて三木が口を開こうとしたそのとき、「ごほんっ!」とやや大げさな咳払いの音が後ろ頭に飛んできた。開けたままの戸口に向かって座っている千鶴がいち早く顔を上げ、あっと顔を綻ばせる。
「伊東さん、ご用ですか?」
「ええ、ええ……歓談中にごめんなさいね。雪村君を呼びに行くと言ったきり、この子がいつまで経っても戻ってこないものだから」
「えっ?」
 きょとんとした千鶴の目が三木を見る。三木は一度つよく目を閉じてから、諦めた様子で伊東を振り返った。この部屋へ辿り着いたときの三木同様、伊東は柱に手を掛けてやんわりと目を細めている。その眼差しは千鶴には弟への親愛に満ちた優し気なものに見えたかもしれないが、三木にはそうではないとよくよく分かっていた。この兄は心から笑っている。にんまりと、三木を笑っているのだ。
「可愛らしい約束のお話はひと段落したようですし、そろそろ参りましょうか。今日は外で食事を取ろうと思うの。雪村君も支度していらっしゃい」
「あ、兄貴! 今の話は……」
「ふふ。あら、何かしら」
 目を細め、唇を弧に。人を化かす狐のように、にんまりと笑う伊東に、三木は口の端を引きつらせながら念を押す。
「他の連中には言わないでくれよ」
「……ええ、そうね。可愛い弟の頼みですもの。考えておきます」
 黙っているとは言わずに踵を返して去っていく兄をなすすべなく見送り、三木は畳に手をついて項垂れた。元々尊敬している、頭の上がらない兄である。この件を理由にあれやこれやと無理を頼まれるのは避けられないだろう。御陵衛士としての活動ならともかく、どうにも千鶴とのことをおかしな方向に勘違いしている節もある伊東だ。何を言い出すのか見当もつかない。
 あああ、と唸る三木を不思議そうに見ていた千鶴は文箱をつづらの中に片付けると、そのつづらも押し入れにしまって身支度を整える。そうして三木の肩にそろりと触れると、顔を覗き込むようにして声を掛ける。
「三木さん、伊東さんたちをお待たせしているんですよね? 私の支度は出来ましたから、行きませんか?」
「……ああ、分かってる……」
 下手を打った己の不手際に深々とため息を吐きつつ、顔を上げれば傍らには心配そうな千鶴の顔。ちょこんと座っているその手を取ると、先に立って手を引いた。
 今度からは戸を閉めて話をしよう。
 うんと頷いてそう決意した三木が千鶴の手を引いたまま部屋を出ようと振り返ると、いつの間に引き返してきたのか、伊東がにっこりとほほ笑んで長い指で三木を指さしていた。
「他の隊士の前ではほどほどに頼みますよ、三郎」
「……はは。分かってるよ、兄貴……」
 今度こそ去っていった兄の背を再び見送りながら、三木はぎこちなく千鶴の手を離す。まったく無意識だった。連れて出るのだからと何を考えることもなく手を引いていたのだ。
 まんざらでもないどころか、浮かれているじゃねえか!
 自分で自分の行動に危うさを覚えながら、重い足取りで玄関へ向かう。ちらりと見下ろせば、隣で心配そうにちらちらと三木を見上げていた千鶴と目が合った。伊東と三木のやり取りを仲の良い兄弟のものととらえたのであろう素直な瞳が、けれど三木の動揺ぶりを見て案じている。
 心配するなと頭をぐしゃぐしゃと撫でてやろうとして、けれどもうすぐに玄関だと気付いて手を握りしめた。何だかもう、どこまでが許されるのかも自信がなくなってくる。
「もう連中の目を気にしなくていいと思ってたが、気にするのはそっちだけじゃなかったな……」
「何がですか?」
「なんでもねえよ」
 よく分からないなりにこの話題はやめたほうが良いと思ったのだろう。引っ越したから引っ越し蕎麦でしょうかと夕飯の話を始めた千鶴に適当な相槌を返しながら、三木は最初の手紙の内容を考える。
 まず書き記すべきは、絶対に誰にも見つからないよう文箱の底に二重の隠し底を作る方法だ。





5月23日が恋文の日だったので(16.05.24.)