視線の行方





 ぱちん、と乾いた音が不規則に続いていた。それから、小さく唸る可愛らしい声も。
「三木さん、ちょ……ちょっと待ってください」
「待ってるだろ、さっきから」
「ううっ……えっと、えっと……!」
 正座して苦い顔をしている千鶴の碁盤を挟んだ向こう側では、湯呑片手に三木がにやにやと笑って、俯く彼女の黒髪を見ている。千鶴は口の中でむにゃむにゃと何か言いながら、小さな指で碁盤を指さしながら懸命に次の手を考えていた。碁石を置いたり戻したりしているのはまずいと思うのだが、三木は特に言及していない。どうやら許されているらしい。
 その姿を見守る三木の眼差しは、からかう色の中で時折はっとするほど優しくなる。注意していなければ分からないほどの、その慈しむような温かさは、しかし千鶴が顔を上げると途端に掻き消えてしまう。三木が意図してそうしているのかは、分からない。
 外廊下に碁盤を出し、千鶴はきちんと盤に向かっていたが、三木は壁にもたれ横目で眺めている。その様子と、湯呑を揺らすばかりで口をつける様子がないところから察するに、ずいぶんな長考だったのだろう。
 すっかり困り切った様子で顔を上げた千鶴は、大きくため息を吐くと深々と頭を下げた。
「参りました……」
「ま、こないだよりはマシになったんじゃねえか? ……ここに置いてみな」
「こうですか?」
「そうすると、オレはここか……それかこっちだ。ここだとしたらどうだ」
「えっと……あっ! ここ! ここに置けます!」
「そうそう。だいぶ分かってきたな」
 嫌味も嘲りも含まず、自然と三木が微笑むのを見たのは初めてだったかもしれない。けれどそれも千鶴が盤面から顔を上げるといつもの自信ありげな不遜な笑みにとって代わる。そうして千鶴が改めて教えてもらった礼を述べながら頭を下げると、ふっと息を吐いて三木が振り返った。
 ばちりと目が合い、角に半端に隠れていた身が驚いて跳ねた。千鶴には彼の後ろ頭しか見えていないだろうし、きっと今後も見せることはないのだろう。今まで浮かんでいた温かみがすっかり消えた冷ややかな半眼が、じとりと平助をねめつけた。
「で? お前はいつまでそこに突っ立ってんだ、藤堂」
「き、気付いてたのかよ?」
「最初は足音消してなかっただろ。突然足音が止まってそれきりなんだ、そこにいるに決まってるじゃねえか。何の用だよ」
「あれ、平助君? あっ、三木さんにご用なら、私……」
 慌てて腰を上げようとした千鶴に、軽く首を振って見せる。本来の要件を伝える前に、一寸の躊躇いがあった。恐らく三木は答えを予想していて、それは正しい。手のひらが汗ばむのを感じながら、平助は何でもない様子で口を開いた。
「違うんだ、千鶴に用があったんだよ。土方さんが、お前を見かけたら呼べって言ってたからさ。急ぎじゃないみてぇだったけど、ひと段落ついたんなら行ってこいよ」
「そうだったんだ。ありがとう、平助君。……あの、三木さん」
「気にすんな。さっさと行けよ」
「はい。教えてくださってありがとうございました!」
 もう一度深々と頭を下げてから、千鶴は平助の横をすり抜けていく。すれ違いざまに笑顔で会釈して去っていく千鶴の背を何となく目で追う後ろで、がしゃがしゃと石の鳴る音がした。不満と不機嫌がそのまま伝わるような、いささか乱暴な手つきで碁石が片付けられていく。千鶴との別れ際に三木が気にするなと言っていたのは、共に使った碁盤の片付けを自分一人でやるということだったのだろうと、今になって気付く。ああ言わなければ、千鶴はきっと片付けてから行こうとしただろう。それを見越して、三木は千鶴を送り出したのだ。理解すると、やはり落ち着かない心地になった。
 見れば、乱暴な音がした割にはきちんと白黒分けて碁石は片付けられている。先に黒石を片付け終えたのか、盤面の半分ほどを埋めている白石を適当に摘まみ上げては碁笥に落としているところだった。白が多いということは三木は後手だった訳だ。囲碁は先手有利なのだから、不慣れな千鶴に先に打たせたのだろう。置石もしていたに違いない。
 近づいてしゃがみ込み、白石を一つ摘まむ。ひんやりとした碁石は使い込まれた様子だが傷があまり目立たない。大事に使っているというよりは、この石自体が良い物なのだろう。
 碁笥に入れる、かしゃりという音がはっきり聞き取れるほどに静かだった。千鶴が去ってから、三木も、平助も、一言も発していない。屯所のどこか遠くからは騒がしい気配を感じる。どこかの部屋では、今日も伊東が同志と呼ぶ隊士たちと勉強会を開いているはずだった。今となっては、もう何を勉強しているのか怪しいものだが。
 碁石のように白黒はっきりつけられたら良かったのだろうか。近藤の掲げる佐幕か、伊東の掲げる尊王か。攘夷という点で合致していたはずの新選組の隊内は、今や近藤派と伊東派に二分してしまっている。
 伊東の実弟である三木は言うまでもなく伊東派で、近藤派の土方の小姓である千鶴は表向きは近藤派だと思われているが、実際には彼女に選ぶ権利など与えられていなかった。千鶴は近藤派の幹部たちによって屯所に留め置かれているばかりか、秘密を守る為に当初は命すら握られていた。軟禁を続けている今、関係は和やかなものになり互いに信用はしているものの、例えばもし千鶴が三木に新選組の秘密を――羅刹や変若水のことを話してしまうようなことがあれば、彼女は殺されてしまうに違いなかった。千鶴には殊更優しい原田は止めるかもしれないが、土方なら、本心では彼女を好ましく思っているのだろうとは分かっているけれど、その非情な決断を下せるはずだ。
 そう、どれだけ親しくなっても、幹部たちが彼女に心を砕いていても、愛おしく思っていても、何かあれば殺さなければならない。そうでなくても、平時から彼女は自由に屯所を出ることは許されていない。これはもちろん彼女の身の安全のためでもある。巡察への同行で新選組にいると知れている千鶴が一人で出歩けば、浪士に絡まれたり新選組の秘密や弱みを聞き出そうと拉致される可能性もあるからだ。
 だが、でも。
 平助は近頃、この考えをぐるりぐるりと巡らせてしまうことが増えた。江戸へ出張した折に彼女の生家へ立ち寄り、父綱道が帰宅していないか、家が荒らされていないか見てきてからだ。千鶴から預かった鍵で戸を開け、屋内にも上がらせてもらった。残念ながら綱道のいた形跡はなく、うっすらと埃の積もった静かな家の中に立ち、平助はなんだか無性に泣きたくなったのを覚えている。
 本当なら平助があの家へ足を運ぶことなどなかったし、千鶴は今もあの家で暮らしていたのだろう。屯所で男装をしながら健気に父を探す彼女を想うと息が詰まった。綱道は幕府の命で新選組に変若水を持ち込んだが、その後の行方は知れない。たった一人で上京するほど想ってくれる娘を残してどこへ消えてしまったというのだろう。千鶴の境遇は決して良いものではない。一刻も早く綱道を見つけ出し、千鶴を元の生活へ戻してやりたい。しかし、千鶴が上京して三年が経った今もこれといった手掛かりは見つかっていない。薩長側に連れていかれたか、自ら行ったか。分かっているのはそれくらいだ。
 自分たちがしていることは間違っていないか、平助には分からなくなっていた。近藤の振る舞いや言動に首をかしげることも増えた。伊東の言うことにも一理あると思うことが何度もあった。
 以前はこうではなかったはずだ。自分たちは正しいことをしていると思えた。迷うことなどなかった。いつ、誰が、どこで間違ったのか、変わったのは自分自身なのか。分からない。分からない。
 そんなときに、三木と千鶴が仲良くなったことを知った。何がどういうきっかけなのか深いところは聞いていないが、三木が千鶴をダシに近藤たちの情報を引きだそうとしているのでは、という懸念は割合早い内に否定されることになった。誰がどう見ても、三木は千鶴を大事に扱いだしたからだ。本人に自覚があるのかは分からないが、三木は三木自身が言うところの「良い友人」だった。千鶴は父を探して屯所に身を寄せていること以外は一切を話しておらず、けれど三木はそれ以上深く尋ねることはなく、彼女の性別に関しても一切触れていないという。雪村千鶴を雪村千鶴として、ありのままの彼女と向かい合って心を開いているように平助には見えた。
 二人の間には近藤派も伊東派もないのだ。ややこしい政の話も、血なまぐさい話もない。ほんの些細なきっかけで知り合い、親しくなった。それは平助たちも同じだ。だというのに、こうも違うのは何故なのだろう。三木は自分と伊東の考えに揺るぎない自信を見せているし、持論にも澱みがない。
 三木と千鶴が話しているのを見るたびに、羨ましいと思った。二人が話しているその陽だまりは、まるで平助にも、うまく息が出来るような気がしてくるのだ。そこにいれば武士としてあるべき己の道筋まで選べるのではないか。自分は誰についていくべきなのか、その悩みにも答えが出るのではないか。そんな気がして仕方がない。
 実際のところ、三木と千鶴がどんな風に過ごしているのか、近くで見たのは今日が初めてのことだった。千鶴の「土方の小姓」という微妙な立場に気を遣ってか、三木は彼女と長時間過ごすことは避けているようだった。二人で話すときも、ほとんどはこうして周囲からも目に付くところで過ごしているらしい。千鶴の部屋へ声を掛けに来ても、中に入ることはないのだといつだったか聞いた覚えがあった。
 まるで三木は何をどうすればいいのか全てわかっているようにさえ思える。先ほど千鶴へ囲碁を教えていたように、どこをどう取れば良いのか、見えているのではないか。迷いの中にいる平助は、それが堪らなく羨ましい。
 土方や沖田のように、一心に近藤を慕えたら良かったのだろうか。あの人のすることなら間違いないと、一切疑わずにいられたなら。それなら、もう京都市中に手掛かりがないだろうと分かっていながら巡察に千鶴を同行させる虚しさも感じずにいられただろうか。
「藤堂」
 ひやりと、心臓が縮み上がるような心地で平助は顔を上げた。碁笥に石を片付け終えた三木が、じっと平助を見つめている。内心の迷いまで見透かされるような気がして、碁盤へ視線を落とした。
「暇なら打ってくか?」
「……いや、やめとく。千鶴はさ、どうなんだ。将棋は少し出来るみたいだったけど」
「飲み込みは悪くないが、まあ、てんで話にならねえな。星目にしても駄目だ。将棋も一度やったが、二度目からは積み将棋にした」
 思い出したのか、三木の声音が少し和らいだ。平助が顔を上げていたなら、あの優しい眼差しが見えたかもしれない。あるいは、平助の目があればそんな隙は見せなかったのかもしれないが。
 口の中が乾いていた。唾を飲んでも、喉の渇きをより強く感じるだけだった。
「なあ、三木。千鶴は……」
「藤堂」
 平助の言葉を遮った三木が、口を閉ざす。何を言うのかと顔を上げれば、三木はもう平助のことなど見ていなかった。睨むような眼差しの先は、廊下の先、屯所の奥。千鶴が向かった、土方の部屋。
 苛立った様子で碁笥を碁盤に載せると、三木は碁盤を抱えて立ち上がった。そうして平助にだけ聞こえるほどの声音で言う。
「あいつが何したって言うんだ」
 心臓を握りしめられたような痛みが、確かに平助の胸に走った。それは、その言葉は、もう何度も平助が考えたものだった。三木は遠く向こうを見据えたまま、瞳に浮かんだ怒りを隠しもせずに続ける。
「今のままで何が変わるんだ。時代遅れのやり方に固執して機会を見逃してばかりで、それで何が出来る。幕府の言いなりになって、近藤の、土方の言いなりになって、その結果どうなった。お前、本当にこのままでいいと思ってんのか。なあ、藤堂」
 三木のその問いは、伊東派への誘いなのか、千鶴のことを差しているのか、分からない。
 分からないが、平助は無性に逃げ出したくなり、頭を掻きむしって叫び出したいほどの苛立ちにも見舞われた。ああ、ああ、その通りだ。そんな言葉が、止まりそうな思考に揺さぶりをかける。
 最初から返事を求めてなどいなかったのだろう。三木はそのままどこぞへと立ち去っていく。二歩、三歩と歩いたところで、不意にその足が止まった。何事かと彼の視線を追い、平助は、とうとう声を出して呻いた。
 渡り廊下の向こう、ずいぶん遠いところに千鶴がお盆を持ったまま立っていた。立って移動した三木しか見えない位置にいるのだろう。彼女の目は三木だけに向けられている。辺りをきょろきょろと見まわしてから、千鶴はにっこりとほほ笑んで三木に会釈した。三木が、それにゆっくりと頷いて返している。千鶴がそのままお盆を手に歩き出すと、三木もまたどこかへと去って行った。
 残された平助は、廊下に座り込んだまま、ああ、ああと繰り返した。
 千鶴のことは、問題の一つでしかない。疑問の、迷いの水面に投じられた石の一つでしかない。それでも確かに、こと千鶴に関しては、間違っているという思いの方に思い切り傾いてしまっていた。今し方三木に見せた千鶴の微笑みは、遠目にも分かるほど心安らいだものだった。ただ遠目に会釈し合っただけだというのに、安堵や慈しみ、幸福さえ感じられる雰囲気があった。
 今までの平助なら、千鶴が屯所でうまくやっていけているようで良かったと、そう思っただろう。けれど、違うのだ。気付いてしまった。気付かせたのは三木だ。
 三木はこのままで良いのかと言う。千鶴の扱いに関しても普段から難色を示している。そう、こんなにも幸せそうな千鶴の笑顔を引きだしておきながら、このままでは駄目だと言うのだ。笑っているからいいだなんて、そんなことはない。こんなのはおかしいと、その無言の怒りに触れ、平助の心も頷いてしまっていた。
 近藤は、土方はどうするつもりなのだろう。この先、新選組はどう歩んでいくつもりなのだろう。そして、千鶴はどうなってしまうのだろう。新選組は千鶴を守っている。では新選組が間違ったとき、彼女を害そうとしたとき、誰が千鶴を守るのだろう。
 このままでいいのか。三木の問いかけが平助の足を掴んでいる。

 平助の中で芽吹くことなく摘み取られた淡い想いと引き換えに、三木と千鶴は平助に一つの道を示した。やがて暴走した羅刹が千鶴を襲い、変若水と羅刹のことが伊東らに知られ離隊の話が浮上する。それを聞いた平助が己の道を選ぶとき、この日のことを思い出すのだ。
 羅刹に斬られた千鶴を見つけて震える手で彼女を抱きかかえ、燃えるような殺意を目に浮かべて土方を睨みつけた三木の姿こそが、ぎりぎりの境界に立ち竦んでいた平助の背を押すことになるのである。
 それは無論、今思い悩む平助にはあずかり知らぬ話であった。





(16.05.20.)