五味より甘いが欠け落ちて





 三年に一度の供物は若い女ばかりだった。
 人は脆く、儚く、瞬きほどの間に生を終える。ただでさえ短い命を、贄の人間はさらに短く終えるのだった。
 アイレスは深い森の奥で暮らしている。人の生き血など啜らなくても生きてはいけた。だってそうだろう。三年に一度啜るくらいで命を繋げるほど、小さな身体ではない。それでも、届いた供物は食らうことにしていた。死んで来いと出された彼女たちのかえる場所は、冷たい土の下にしかないのだから。生きたままでは辛かろうと、深い眠りへつかせ地へ還した。森の木々が早々に彼女たちを輪廻の輪へくぐらせてくれればと、口を拭って他人事のように思う。三年に一度、そうするだけだった。

 ハルカもまた、若く脆い女だった。
 これまでの供物に比べて違うところは彼女に怯えた様子がなかったことと、彼女が病に侵されていることだった。

「ですから、その、血を捧げればあなたにも移ってしまわないでしょうか?」

 死を逃れるための舌先三寸でないことは、彼女の澄んだ瞳に恐れの色がなく、出会ったばかりのアイレスを憂う声音で分かった。分からなかったのは、彼女が死に怯えていないことだった。
 供物を喰らい、血を啜り、土へ還すため黒い衣装へ身を包んでいたアイレスはハルカの顔を覗き込むと尋ねた。彼女の身からは清らかな生の香りがしていた。

「ねえ、君はボクが怖くないの? ボクはもう何人も人を殺しているんだけど?」
「はい、でも、私は何匹も鳥を食べてきました」
「君はもうすぐ死ぬんだよね? 死ぬのは怖くないの?」
「はい、でも、人は必ず死にますから」

 理解はしたが納得するのは難しかった。アイレスは人ではないから、人の心は分からなかった。これまで贄を憐れんで早々に殺してしまったのを少し悔いていた。震えて泣く女を早く楽にしてやろうと、彼女たちと言葉を交わすことはなかったからだ。
 人の病が移るとは到底思えなかったけれど、どうせすぐ死んでしまうのだから、アイレスは彼女をしばらく生かしておくことにした。血を啜らずとも生きていけたし、ハルカの話すことは何もかも分からないことばかりで興味深かった。それに何より、ハルカはたくさん歌を知っていた。
 アイレスは歌が好きだった。長い年月をかけて集めたたくさんの楽譜を片っ端から歌って過ごしていた。何しろ長く長く生きているので、暇でたまらなかったのだ。ずっとずっと生きているのは、ずっとずっと時間を持て余すということでもあった。
 ハルカはアイレスの知らない歌をたくさん知っていた。共に暮らす家で、お世話になるのだからと家事をあれこれとしながら、ハルカは詩のない歌をたくさん口ずさんだ。掃除、食事の支度、後片付け、庭の手入れ。そのとき、そのとき、いつも違う歌をハルカは歌った。
 聞けば、それらはすべてハルカの作った歌だと言う。彼女は作曲の才があったのだ。贄にするには惜しい才能だった。差し出してきた人間たちは彼女のまばゆいばかりの才能に気付かなかったのだろうか。アイレスは彼女に部屋を与え、机を与え、五線譜と羽ペン、そして古いピアノを与えた。
 それからは朝な夕な、ピアノの音がアイレスの心を癒した。ハルカは少し調律のおかしくなったピアノに驚いて、けれど明るく笑ってそのおかしな音色を愛した。

 ハルカはよく話し、よく笑った。
 アイレスはこんなにも誰かと話したのは初めてだったし、ずいぶん久しぶりに笑った。ハルカの考えはアイレスには分からないことだらけで突拍子もなく、驚かされてばかりだった。
 ハルカと共に、荒れ放題だった庭を整えて花を植えた。夜空を見上げたハルカが星を綺麗だと言うので、綺麗だと思うものを用意してあげると言うと、この庭にたくさん花が咲いたら綺麗だろうと微笑んだからだ。
 アイレスもハルカも土いじりなど碌にしたことがなかったから難儀した。アイレスは何度も人に化けて街へ降り、必要なものを買い集めた。ハルカはアイレスに似あうからと薔薇を植えたがり、よく分からないまま、いつしか庭には薔薇が育っていた。香りの強い薔薇で、蕾と花とを摘んで飾ると、部屋いっぱいに薔薇の香りが広がった。
 ハルカは薔薇の花びらを砂糖漬けにしたり、煮出して砂糖を溶かしシロップにすると紅茶に入れてくれたりもした。アイレスが本を見ながら苦心して焼いたガレットやクレープと一緒に食べると、ハルカは頬を染めて喜んだ。
 薔薇色に染まる頬というのを、アイレスは生まれて初めて見た。
 綺麗だと思った。そう思ったのも初めてだった。

 儚いから美しいのか、美しいから儚いのか、それまで光り輝くようだったハルカの容体は日に日に陰りを増していった。蕾のままでも強かった薔薇の香りが、開花し、しぼんでいくにつれて薄れていくように、ハルカの命も見る間に枯れていった。
 アイレスはハルカのそばで歌を歌った。ハルカの記した楽譜を手に、彼女と過ごした年月を詩にして歌った。数多くの戸惑いを孕んだ恋の歌だった。君がボクを変えたのだと歌いながら、アイレスは泣いた。細くなったハルカの指が涙をぬぐい、アイレスは自分が人と同じように涙を流せるのだと知った。
 アイレスはハルカほど上手に薔薇の手入れが出来なかった。ハルカはそそっかしいところのある娘だったから薔薇の棘に指先を引っ掻かれることもあったけれど、アイレスは薔薇を育てるのに必要なだけの愛情を持ち合わせていなかった。アイレスは薔薇を育てて喜ぶハルカを愛していたので、ハルカなしではうまく育ててやれなかった。
 ハルカが作ったローズシロップは少しずつ減り、同じだけ彼女の命も減っていった。アイレスが何を作ってもハルカは喜んだけれど、食は細るばかりだった。
 元より決まっていたことだった。アイレスが彼女を生かしていたのは彼女が死ぬと分かっていたからだ。死ぬから生かしていた。だからハルカは死ぬ。気が狂いそうだった。
 日に日に弱るハルカは、とうとうベッドから起き上がることも難しくなってきた。湯で身体を清めるにもアイレスの手を借りなければならず、ハルカは恥じらった。彼女がまだ陽気に微笑んでいた頃その白い肢体をなぞったときは心が躍ったけれど、アイレスはただ、彼女が来てから生まれた感情たちが死んでいくのを感じていた。
 さて、それは必要なものだったのだろうか。哀しみに胸を掻きむしりながら、アイレスは人間の脆さの訳を知った。感情が人の命を殺すのだろう。だって死なないはずの自分がこんなにも苦しんでいるのだから、脆い人間には耐えられないだろう。アイレスはそう思った。アイレスが人ならきっと死んでしまうだろうと思うほど、哀しみはアイレスを苦しめた。
 眠るハルカの呼吸が、鼓動が、目覚めたら止まっているのではないかと、アイレスは眠れなくなった。どうせ自分は死にはしないのだ。死ねやしないのだ。だからアイレスは眠るのをやめた。アイレスは苦しむハルカをじっと見つめた。手を握った。汗をぬぐい、水を飲ませた。
 やがてハルカは一日を長く眠って過ごすようになった。うなされ、苦しみながら夢とうつつとを漂うようになり、寄り添うアイレスに詫びた。
 かなしい思いをさせてごめんなさい。つらい気持ちにさせてすみません。
 ハルカは忍び寄る死ではなく、アイレスを残して世を去ることに苦しんでいた。アイレスにとっては午睡より短いような日々を恋という花で埋め尽くし、アイレスの世界を広げてくれた、その愛でアイレスを哀しませていることを嘆いた。
 苦しみながら、少しでもアイレスの哀しみが紛れるようハルカは途切れ途切れに歌を歌った。アイレスは詩を付けられず、唇を噛んだ。そうしてそのとき、ようやくこの悪夢を終わらせる方法に気が付いたのだった。
 アイレスは庭の薔薇の花をすべて摘み取ると、自分の棺の中に敷き詰めた。むせかえるような薔薇の香りの中、ハルカをそっと寝かせる。何も言わないのに何かを悟った様子で、ハルカはただ大人しく――力なく棺に寝かされた。そうしてアイレスはハルカの作った歌をすべて歌った。順番に、ハルカが作り、アイレスへ聞かせてくれた順に歌って聞かせた。それは愛の歌だった。恋の歌だった。初めて知った感情たちに戸惑う心を歌った。それらはすべて、ハルカと共に棺の中で眠りについた。
 歌が終わり、口づけ、首筋に牙を立てたとき、アイレスはただ静かな心地だった。涙の溢れる気配はなく、波立つ心もなかった。肉を裂き、溢れた血が喉を潤す。嚥下し、アイレスは久しぶりに人の血を飲んだ。薔薇の香りの中で飲んだハルカの血は、これまでにいくどとなく飲み下した血のワインたちよりずっと甘く、美味しかった。空っぽになった心でアイレスはわずかに惜しいと感じた。もう二度と、この血を飲むことは叶わない。
 夜が明けて唇を離したとき、ハルカの首筋には薔薇のように赤い花が咲いていた。

 森は再び静かになった。ハルカと二人で耕した、薔薇の残り香が漂う庭を掘り返して棺を埋めた。土を掛けながら、アイレスはこの棺が土に還らないことを理解していた。胸の奥の方でぎしりと何かが軋むような気がしたけれど、それが何なのかは考える必要のないことだ。それを考えられる心は棺の中に埋めてしまった。
 冷たく暗い土の中には、美しく綺麗なハルカと、彼女が与えてくれた心が眠っている。


 アイレスは変わらず深い森の中にいた。いつからか共に住むようになったウォーレンという男は、アイレスの長い時間を、つかず離れず、近しい距離で過ごしている。ウォーレンが人間と関わりを持っていることは知っていた。ウォーレンはお喋りな男なのだ。社交的で、それでいてそつなく距離を測る。
 アイレスが贄の血を飲まないことを、ウォーレンは詮索しなかった。ただ一度、初めて「いらない」と言ったときに尋ねられたきりだ。

「飲まないのかい? 口に合わないのかな」
「いらない。欲しくない」

 人は脆く儚い生き物だ。アイレスとは共に生きていけない。
 アイレスは贄の血を知っている。いくどとなく舌を濡らし、そうしてもういらないと思った。

「特別な子の血は特別甘いんだ。……もう、他の血が飲めなくなるくらいに」

 そう、と。それきりウォーレンは何も尋ねなかった。
 碌に手入れしない庭の薔薇を今はウォーレンがそれなりに飼い慣らしていた。けれど美醜を感じない。あのかぐわしい香りも、一緒に食べたクレープの味も、もう思い出せない。それは、薔薇の下で眠っている。
 ハルカと過ごした頃は食べ物であれ、衣装であれ、よく悩んだものだった。今はそれらすべてが無味乾燥で、アイレスには必要のないものだった。
 アイレスに遺されたのは、彼女が記したたくさんの楽譜だけだ。泣いて歌った旋律だけが、今は遠い恋の記憶を覚えている。


 満月の夜が近づいていた。
 三年に一度の供物は、今度もきっと若い女なのだろう。






(15.09.11.)