赤いうんたらと緑のなんたら



「……あの」

 ノックの後、部屋に入った花は何かに気おされるように足を止めた。部屋の主である二人が笑顔で出迎えてくれたというのに、ひやりと嫌な予感が背に伝う。にこやかに微笑んだ孔明は、椅子に腰掛けたまま体ごと向き直って出迎えた。

「やあ、おかえり。ずいぶん遅いから心配したんだ。用意はちゃんとできた?」
「は、はい。今お出しします。――あの、お茶とお菓子をお持ちしました」
「これは、どうも」

 厨房から運んできた茶器を慎重に下ろす花の手先を、本日の客人――公瑾が見つめている。一時、花は仲謀軍にもいたことがあった。特別親しいとは言えないが、知らない相手でもない。疑り深い公瑾のことだ、同盟を組んだとはいえ自国の地ではない場所での飲食には気を払うのだろう。
 ……もっとも、それは今朝孔明から聞いた話であって、花が思い至ったことではなかったのだけれど。慣れない旅先での食事は合わないこともありますもんね、と返した花に、孔明は大きなため息と何とも言えない苦笑いを送ったのだった。
 茶器を三つ下ろした花は、孔明の示すまま彼の隣に腰を下ろした。二国の同盟関係を末永く続けるための話し合いとのことだが、そんな場に自分がいてもいいのだろうか。そう思いつつも、妙に笑顔を見せ続ける二人の前では自分から口を開くのはためらわれた。
 なんというか、とても居辛い。
 空気が、よどんでいる。
 息苦しくて、逃げ出したくなる。

「(なんで、そんなこと思うんだろう……)」

 孔明に促されるまま湯飲みに口をつけた花は、静かにのどを濡らした。冷たく冷やした茶は、ふわりと花の匂いがして飲みやすい。添えた菓子も一緒に食べれば、楽しいお茶の時間になりそうだ。
 ……ここでなければ。

「ああ、いい匂いだ。どうです、公瑾殿。彼女、ここのところ随分お茶を入れるのが上手になりまして」
「え――」

 孔明が言うのは、確かにその通りではあった。何しろ毎日毎日お茶を入れさせられて、あれがだめだこれがだめだと注意を受けてばかりだったのだ。あれだけ指導を受ければ、少しは上達したのだろう。だが、人前で褒めてくれることはなかなかない。「甘やかしていると思われては、君にもよくないからね」とは孔明の言。師の言うことは、一々もっともだった。

「ふむ、確かにいい香りですね。揚州でも同じものを飲んだことはありますが、香りを引き出すのが難しいと聞いた覚えがあります」
「あ……ありがとう、ございます……!」
「いえ。こちらこそ、ありがとうございます」

 にこりと微笑んでそう言われれば、もちろん悪い気はしない。呉に滞在中、ずっと厳しい視線で花を見守っていた公瑾だからこそ、感動もひとしおだ。
 仕事に来ているのは分かっているが、お茶ひとつでも気が休まるのなら嬉しい。にこにこと笑顔を浮かべた花の手に、暖かい手が重なる。感触に顔を上げれば、優しく見つめる孔明の目があった。

「君は何事もよく頑張るからね。覚えがいいから、つい僕も厳しくしてしまうけど……いつも助けられているんだよ。ありがとう、花」
「し、しょう……」

 どうしてこんな、人目のある場所で――
 そう思う気持ちより、嬉しい気持ちが膨れ上がる。孔明は確かにあれこれと命じ、教え、その間はとても厳しい。けれどそれがつらく感じたことなどないし、感謝しているのは花のほうだ。
 頬が熱くなるのを感じながら、孔明を見つめ返す。

 どうしたんだろう、今日は何だか、全然いじわるじゃないかも……

 そんなことを考えた一瞬、花の手を握る力がぎゅっと強くなった。笑んだ孔明の目も、どこか見覚えのある悪い顔が重なって見える。

「君のお茶がこれから毎日飲める僕は、三国一の果報者だね」
「え、ええ?」

 別に、お茶なんて玄徳や芙蓉たちにだって出している。その場に孔明もいるのだからもちろん知らないはずがない。孔明の言うままに受け取るなら、三国一の果報者はあちらこちらにいるのだが。

「――あなたは、まだ軍師を続けているのですね」
「え? ええ、はい。今はずっと、師匠の手伝いを……」
「なるほど、それで『毎日』ですか」

 何を考えているのかよく分からない笑顔はそのままに、公瑾はごくりと器を呷った。何かに納得したような物言いに首を傾げるが、会話を継いだ孔明の台詞に、あわてて彼の顔を仰ぐこととなる。

「朝から晩までずっと共に過ごしているけど、そういえば、料理も最近はずっと美味しくなったよね」
「そ、そう…ですか?」

 まるで以前から食べていたような言い方に困惑してしまう。料理は芙蓉姫や雲長から習い始めたばかりで、、ずっとというほど食べたことはないはずだ。作ったものは翼徳が先んじて食べてしまうから、上手にたくさん作れるようになった最近のものしか、孔明には渡っていないはずなのだけれど――
 疑問符の浮かぶ花の顔をちらりと見た公瑾が、じとりと孔明の手に向けられる。まだ重ねたままの手は、もてあそぶように彼女の肌をなぞる指先ばかりが目に付く。深い嘆息と共に、大いに肩を竦めた。

「彼女の策は赤壁でも大いに我が軍を助けてくれましたが、高名な伏龍先生がこれほど目にかけておられるのなら、納得です。よい弟子をお持ちだ。取り立てる手も引く手あまたでは?」
「いえ、まだまだ未熟なものです。手放すには早すぎる」
「そうでしょうか? 彼女は私たちの元でもよく力になってくれました。仲謀様の妹姫、尚香様とも打ち解けてもおりましたし――」
「縁を結ぶのは大事なことだ。君の評判がよくて僕も鼻が高いよ」
「あ、ありがとう、ございます……」

 二人は確かに笑顔だ。
 話す内容は褒められることばかり。
 嬉しい――はずなのに、再びギシリと軋むような居心地の悪さに気づいた花は、孔明の手からそろりと逃げると、そそくさと席を立つ。

「え、ええとそれじゃあ私は――その、別の用事を頼まれていたのを思い出しましたので、ごゆっくり!」
「あ、ちょっと、花!」

 追いかける孔明の声から逃げるように、部屋を飛び出したのだった。



「すみません。まったく、あの子には落ち着きが足りないな」
「いえ、こちらでもそうでしたのでお気になさらず」
「それはそれは、お目汚しを。お許しください、もう彼女がそちらに出向くこともないでしょうし」
「……そうなのですか?」
「ええ。僕も、この同盟を引き裂く原因にはなりたくありませんので」
「なるほど――」

 にこにこと笑う孔明は、龍でも何でもない。落ち着きが足りないのは師も同じだ。もっとも、あわよくばと言葉を選んだ公瑾にも同じことが言えるのだろうけれど。
 ふむ、とうなずいて茶器を空にした公瑾は、席を立ちながらにこやかに微笑んだ。

「では、私からまたこちらに出向くとしましょう。このお茶を、また頂きたいですしね」
「――そうですか。きっと、あの子が喜びます」

 返す孔明の笑顔に嘘偽りがあったのかどうか、扉に手をかけていた公瑾には分からなかった。



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(11.04.07.)