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真は起にあり (さいちづ/雑記ログ)





 起き抜けに見る光景にしては、それはあまりにも現実離れしすぎていた。しかし斎藤一ともあろう者が、同室の者の動きに気づかぬはずもなく。
 脱ぎ捨てられた着物を前に、斎藤は呆然と座り込んでいた。




「――で?」

 土方の声がひやりと低いものになったのも致し方ないだろう。
 良くも悪くも個性的でアクの強い幹部たちを纏める折、三番組組長である斎藤の存在は土方にとっては救いにも近しい。どんな汚れ仕事も黙って引き受け完遂するその能力はもちろん、寡黙で忠実な彼の人となりは、別段手を焼かず済むという点においてだけでもこの上なく価値あるものだ。隊務を除けば昼夜問わず反抗的で、土方の用意した道をひっかきまわして笑うのが何よりの楽しみと言わんばかりの沖田はもちろん、酒が入るとやっかいな永倉たちの言動に頭を悩ませるとき、斎藤だけは大丈夫だと、そうして安堵することもあるというのに。
 それなのに、朝っぱらから尋ねてきたと思ったら斎藤はなぜか真っ白い犬を抱いていた。いつぞやに迷い込んできた猫と違い見るからに幼いその子犬を後生大事に抱えたまま、真面目腐った顔そのままにこう切り出したのである。

「千鶴が犬になりました」

 土方はじっと斎藤を見ていた。いつ「冗談です」と言い出すのか待っていたのだ。そうであって欲しいとさえ思っていた。これが深夜であるのなら、「おいお前、飲みすぎじゃねえのか。井戸で顔でも洗って来い」と叩き出せばそれでいい。しかし朝だ。襖の向こうから眩しい朝日が差し込み、すずめの鳴く声まで聞こえてきている。
 チュンチュン。チチチ。

「副長?」
「……なんだ」
「いえ、ですから千鶴が」

 斎藤が口を開くと同時に、その腕に抱かれていた子犬がもぞもぞと動いた。言葉を止めた斎藤と、向かいで布団に胡坐をかいて座る土方の目が子犬へと向けられる。
 そっと床へ下ろされた子犬は、子犬特有のまだ柔らかなふわふわの毛に覆われた手足をもたもたと動かし、よろめきながら二、三歩土方に近づいた。
 子犬の黒いまなこが土方をひたと見つめる。紫紺の瞳で見つめ返せば、子犬はまたよたよたと歩き出し、胡坐をかいた膝先までたどり着くと、ぺたんと座り込んだ。

「……で?」
「千鶴が大人しい性分だったせいかもしれませんが、吼えぬようです」
「いや、そういうことじゃねえよ」

 何を訳知り顔で説明しているのだ、この男は。顔をゆがめてはき捨てても斎藤は「ではどういうことか」と不思議そうにしているだけだ。何を当然のように受け入れているのだ。なぜ千鶴が、人間が、どういう仕組みで何がどうなったら犬になるというのだ。
 閉口する土方の前で子犬が小さな尻尾をはたはたと振っている。機嫌を伺うようなその素振りは、どうしたんですかと尋ねているようだ。そう、まるで斎藤と同じような反応。
 冗談ではない。そんなもの、信じられるわけがないではないか。
 しかし、土方が再度口を開くより早く、斎藤は「千鶴」と子犬に呼びかけた。

「すまないが、副長にもご理解頂かねばならん。先ほどのように鳴けるか?」

 駄目だこいつ、早く何とかしないと。
 土方の目から光が消えそうになる間際、呼ばれて斎藤を振り返っていた目前の子犬が、小さく「わん!」と鳴いた。半ば「キャン」にも近いところからすると、どうやら本当に吼えるのは苦手らしい。番犬にもなりゃしねえじゃねえか、とどこか遠く考えた土方の前で、斎藤は子犬へ向かって大様に頷いて見せた。

「では千鶴。総司は何番組だ?」
「わん!」
「副長のお名前に含まれている数字は?」
「わん、わん、わん!」
「俺の名に含まれているのは――」
「わんっ!」

 皆まで言わせず鳴いた犬が、先ほどより勢いよく尻尾を振る。待ちかねたように斎藤が手を広げると、おぼつかない足取りながら賢明にぴょんぴょんと飛び跳ねて駆け寄っていく。愛らしい仕草で寄ってきた子犬をうっすらと笑みを浮かべて迎え入れた斎藤は、部屋へ入ってきたときと同じように抱き上げると、またしっかりとその腕にかかえた。黒い着物に白い襟巻き、そして白い子犬。
 なんだこいつ、と土方は言いかけて、けれど咄嗟にそれを飲み込んだ。斎藤がおかしいと認めてしまえば、もうまともな人間が隊にいないことになる。そこまで言うのは大げさかもしれないが、大事な右腕を失うのは避けられない。
 これは悪夢だ、そうに違いない。
 ははは、と乾いた笑いを吐き出した土方を見返した斎藤は、どこかホッとした様子で表情を引き締めた。

「お分かり頂けましたか。良かった」
「斎藤、お前今日非番でいいぞ。隊務は原田か平助に代わってもらえ」
「――よろしいのですか?」
「ああ。たまにはゆっくり休め」

 そして正気に返ってくれ。
 千鶴の面倒を見るためと素直に非番を受け入れた斎藤は、子犬を抱いたまま深々と頭を下げて部屋を辞していった。それを見送った土方は、おもむろに布団をめくり上げるとまたもぐりこんでいく。頭まで布団を被り、その中でため息に埋もれた。
 千鶴の部屋へ行って確かめれば話は早い。当人と子犬が一堂に会せば話はそれまでだ。その犬は千鶴でも何でもない、あるいは同じ名前をつけただけだの、ただの犬だと断定できる。けれど、土方は布団に埋もれたまましばらく動けずにいた。
 往々にして、嫌な予感というものは当たるものだと相場が決まっている。




「へえ……だから一君に懐いてるんだ。で、僕から逃げるのは何でなのかな」
「何でってお前、日頃の行いだろ。な、千鶴?」
「それにしても、真っ白できれいな毛並みだな。こりゃ美人になるぞ」

 朝餉の席で同様の説明がなされ、驚きながらもあっさりと受け入れられていく現状を目の当たりにして、土方はやはり半眼で呻くほかなかった。
 駄目だこいつら、早く何とかしないと。



 ◇ ◆ ◇



 非番になった斎藤はふんわりとした真っ白い毛並みの子犬――千鶴を抱えて屯所の中を当てもなくさ迷っていた。散歩でもしようと思ったのだが、千鶴を下ろして歩いているとその覚束ない足取りではいつ縁側から転げ落ちるか心配になり、せめて安全そうなところへ行き着くまではと抱いたまま歩いている。斎藤の腕に抱えられた子犬は暴れることもなく実に大人しいものだ。
 日中の屯所はここが新選組の屯所だと忘れそうなほど穏やかな時間が流れている。ちょうど昼の巡察の時間でもあり、大勢の隊士たちが出払っているせいもあるのだろうか。静かに歩みを進める斎藤は、これでは千鶴も退屈するだろうかと目を落としてみるが、子犬のほうは斎藤の胸元にもたれるようにじっと固まったままだった。

「千鶴」

 呼べば、ぴくりと反応した小さな耳が揺れてくるりと大きな目が斎藤を見上げる。じっと見上げてくる瞳にホッと安堵の息をつくと、斎藤は「少し賑やかなほうへ行くが、いいか」と尋ねた。傍目には仏頂面の男が子犬と会話しているようにしか見えないのだから恐ろしい。隊士たちや町の人間の目に触れなかったのは、彼にとっても新選組にとっても幸運なことだと言える。
 子犬は小さく身じろいだものの、それ以上どうすることもなく大人しく斎藤の腕に頭を寄せた。ぴぴぴ、と揺れる尻尾が手首をくすぐって、そのこそばゆさに斎藤はやんわりと目を細めた。




 京の町を守護するため、会津藩お抱えの浪士集団・新選組は日夜厳しい稽古を積んでいる。日々積み重ねた研鑽こそがいざというときにものを言うのだ。鍛え上げられた肉体に宿る精神こそ武士の鑑なり。
 木刀を手に激しく打ち合う隊士たちを道場の入り口に立って見据えながら、斎藤はそうっと千鶴を床に下ろした。急に視界が変わった子犬が戸惑ったように見上げる、その隣へそっと片膝をつく。

「この辺りにいろ。中に来ては蹴飛ばされるかもしれん。何かあれば声を上げろ。……いいな?」

 ゆっくりと噛み締めるように言い聞かせると、子犬は斎藤をまっすぐ見つめたまま、ぱたぱたと尻尾を振って見せた。一つ頷いて返した斎藤は道場に踏み入ると壁に立てかけてあった木刀を適当に選ぶと隊士たちの中へと混じっていく。その姿へ一番に声をかけたのは、本日の撃剣師範を努める永倉だった。
 非番の日でも斎藤が道場へ顔を出すのはそう珍しいことではないが、今日ばかりは事情が違う。斎藤を見つけた永倉の視線は彼を通り過ぎてその身なりや足元をじろじろと追っている。

「おい斎藤、千鶴ちゃんはどうした?」
「あそこで見ている」
「どこだ? ……おお! おーい、千鶴ちゃーん!」

 喜色を浮かべた永倉は斎藤を置いて千鶴の元へと近づくと、その大きな手でわしわしと千鶴の頭を撫でてから、その小さな体をひょいと抱き上げた。
 朝餉の席で千鶴が犬になったと聞いたときはたいそう驚いたものだが、斎藤が始終抱えていたものだからこうして近づくのは今が初めてだ。見た目以上にふわふわと柔らかな白い毛並みは埋もれたいほどに手触りがいい。少し驚いた様子で永倉を見る目は、そう言われてみれば少女の無垢な瞳に似ているかもしれなかった。
 抱き上げたまま戻ってみれば、あからさまに顔をしかめた斎藤が険しい表情で睨んでいる。犬になった千鶴の第一発見者だからか、あるいは日頃から彼女の世話役であったからか、斎藤は千鶴の面倒を自分ひとりで見るつもりのようだ。

「何故連れてくる」
「休憩の間にちょっと遊ぶくらい良いだろ?」
「遊ぶ? 隊務の途中にか? 大体、千鶴で遊ぶとはどういう了見だ」
「ああ、だから、そうじゃねえって」

 なんだよおっかねえなあ、とぼやきながら片手で抱えた千鶴の頭をぐいぐいと撫でる永倉の手から、斎藤はひょいと千鶴を抱き上げた。器用にも木刀は脇に挟み、奪い返した千鶴を気遣わしげに見やると、来たときと同じように両腕でしっかりと抱きかかえる。急な動きに驚いて固まってしまっている千鶴の耳の付け根を指先でちょいちょいとくすぐりつつ、しかし眼光鋭く永倉を睨みつけた。

「乱暴に扱うな。怯えているだろう」
「別に乱暴なんかしてねえだろ!」
「力の加減がおかしいと言っている。何かあってからでは遅い」

 取りつく島もない斎藤にウンザリと永倉が顔をしかめたとき、側にいた隊士が「あれ」と声を出して近づいてくる。永倉と二人、視線を向けた先には二番隊の隊士が目を輝かせていた。
 その視線は斎藤が抱えた白いかたまり――千鶴に釘付けだ。

「すごい、こりゃあ綺麗ですね! 斎藤先生の飼い犬ですか?」
「そういう訳ではないが……」
「ああ、いや、すみません。実家で犬を飼ってまして、紀州犬だったんですが、子犬の頃はこんなふうに真っ白のふわっふわだったものでして」

 どうやら犬好きらしい。屯所では見かけるはずのない犬の姿につい口を挟んでしまったのだろう。それでも手は出さずにじっと千鶴を見つめている。
 男の勢いにやや呆気に取られていた斎藤だったが、ちらと千鶴を見下ろし、耳に触れていた指先で首筋をすりすりと撫でさすった。目を閉じて気持ちよさそうにしている千鶴の姿に男はまた目を輝かせ、「愛らしい」「利発そうだ」と美辞麗句を並べていく。斎藤へのおべっかというよりは、単純に実家の犬とやらを思い出し懐かしんでいるのだろう。
 男に触らせるつもりは毛頭ないが、千鶴の容姿を褒められて内心そうだろうそうだろうと大きく頷く斎藤である。自然、表情も緩む。

「犬が好きなのだな」
「はい! しかし、この子は実に大人しいですね。斎藤先生のしつけが宜しいのでしょうか」
「俺は預かっただけだ。しつけなどせぬ」

 何しろ元は少女なのだから、やれば大問題である。この会話を聞いていた永倉がやましい想像に至ってしまったのもいくらかは致し方ない。それにもちろん気づいている斎藤が後々容赦ない制裁を加えたのもまた、致し方ないだろう。

「大切な預かりものだ。俺がいない間、万が一にも無体を働くような者がいれば追い払ってくれ」
「わかりました! ええと、この子の名前は……」

 隊士の手前、いつもどおり雪村と呼ぼうと思ったが、それはそれで問題だろうかと考える。この犬が小姓の雪村千鶴だと知られるのはまずい。ひとまず伏せておけというのは土方からも命じられていた。
 土方が伏せろと言ったのは混乱を防ぐ意味もあるが、何より斎藤が乱心したなどと風評が立ってはまずかろうというのが大きい。残念ながら、斎藤はその懸念には一切気づいていなかったが。
 思案した斎藤は、平素千鶴が男だと思われていることを逆手に取ることにした。人が犬になるなど普通は考えもしないはずなのだが、その辺りはやはり少し感覚が麻痺していた。ある意味では斎藤も混乱しているのかもしれない。

「――千鶴、と呼んでいる。大人しいが、無理をしやすい。俺でなければ、平助か左之あたりに引き渡すようにしてくれ。とにかく、一人にはさせぬように」
「了解です」

 犬好き同士で何やら千鶴を保護する取り決めが出来上がってしまったようだ。
 結局、彼を起点に他の隊士たちも「斎藤先生の千鶴ちゃん」を見に集まってしまい、我に返った斎藤が道場を立ち去るまでしばし屯所の一角で犬談義が続いたという。




「……すまない。見世物になってしまったな」

 再び廊下を当てもなく歩く斎藤の腕の中で、千鶴がはたはたと尻尾を振っている。気にしないでください、と言っているように思えて立ち止まり見つめれば、小さな手足でもたもたと身じろいだ千鶴は小さな頭をくいくいと斎藤の手にすり寄せるような動きを見せた。口が利けないなりに、反省して自責の念に苛まれる斎藤を励ましているのだろう。
 小柄な姿で懸命に雑務に勤しんでいた姿を髣髴とさせるその動きに、斎藤の目はまたしても細められる。

「お前は、どのような姿でもお前のままなのだな」

 申し訳なさと嬉しさをにじませた斎藤の声音は、どこか甘い色を含んでいた。



 ◇ ◆ ◇



 筆を片付けていた斎藤は、ふと静かになった背後を振り返る。出してやった座布団へ大人しく座っていたはずの千鶴は、丸くなって目を閉じていた。犬になって丸一日、気疲れも多いのだろう。小さな身で歩き回るのは、こちらが思う以上に体力を使うのかもしれない。
 今日は早く休ませるよう土方に進言しよう、そう思案したところで廊下の向こうからこちらへと向かってくる気配に気づいた。足音も気配も消す様子がないその人物は、案の定千鶴の浅い眠りを妨げたらしい。ぱちりと目を開き、寝起きのためかぼんやりした様子の千鶴の側へ寄ると、その身を守るよう襖との間に腰を下ろした。

「一君、いる?」
「ああ」
「邪魔するぜ。……おっ、やっぱ千鶴はここにいたのか」

 襖を開けて顔を覗かせた平助が、座布団の上できょとんとしている千鶴に笑いかける。ぱたぱたと尾っぽが揺れるのを見て、斎藤は小さく笑みを浮かべた。
 まったく、以前からそうだが千鶴は分かりやすい。好意を素直に受け取れるのはいいことだとは思うが、あまり正直に返されると気恥ずかしくも感じてしまう。もちろん、嬉しいのはそうなのだけれど、平助などはあからさまにうろたえることもあるほどだ。押し隠しているとはいえ、土方でさえ千鶴のそんな様子に呆れ交じりの言葉を漏らしてしまっていることがある。「まったく、とんでもねえやつだ」なんて言われたことを、はたして千鶴は気づいているのだろうか。
 部屋に入ってきた平助は千鶴の前にあぐらを掻いて座り込むと、そろりと手を伸ばして千鶴の頭を撫でる。千鶴のほうも大人しくされるがままになっていて、白い尻尾はまだふりふりと揺れていた。
 声もかけずに踏み入ってきたなら千鶴が蹴飛ばされるのではと思って座った斎藤は、微笑ましい二人からそっと離れて机上の片づけを進める。

「平助、何か用があったのではないのか?」
「え? ああ、そうだった! そろそろ飯が出来るんだけどさ、土方さんから一君に伝言。しばらくは俺と土方さんの間で食えって」
「……そうか。助かる」
「俺も一君は狙わねえから。千鶴のためだもんな」

 なっ、と千鶴の顔を覗きこんで笑う平助の横顔を眺めつつ、斎藤は内心ほっとしていた。
 朝は千鶴の変化を報告した有耶無耶で誤魔化せていたのだが、昼は違った。千鶴の面倒を斎藤が見ている以上、食事のときに自分の膳から目を離すときが必然的に増えてしまう。その隙におかずをかっさらわれ、慌てて奪い返すものの自分にばかりかまけていては千鶴のほうが疎かになってしまい、どうしたものかと思っていたのだ。
 平時なら千鶴の食事の世話など当然必要ないわけだが、今は小さな小さな子犬の身。犬が食べていいものといけないものの分別、小さな口で食べられる大きさに分けてやる、等々を斎藤が世話していた。千鶴はそこまでの面倒を見させていることをしきりに恐縮しているようだったが、こうなってしまったのは千鶴のせいではないのだし、それに、犬食いに慣れない千鶴が手を使いたがってもたもたと食べている姿は案外可愛くて、世話が出来るのも存外悪くはなかった。思わず口元が緩みそうになるのを必死で堪えていたが、原田などは隠しもせずに「可愛いもんだな」と目を細めていたほどだ。
 ともあれそんな具合だったので夕餉の席ではどうしたものかと密かに気にしていたのだけれども、土方はそのあたりをきちんと考慮してくれていたらしい。

「俺か土方さんがいないときは、源さんか左之さんに頼んでくれよ。土方さんがもう話は通してるからさ」
「分かった。すまない」
「礼を言うほどのことじゃないだろ」
「……そうか」

 立ち上がってぴょこぴょこと平助にじゃれつき始めた千鶴を抱き上げ、斎藤はゆるく目を細めた。




「待て千鶴、ねぎは食ってならんと聞いた。薬味はやめておけ」
「くーん……?」
「今取り分ける。……ほら」

 器用な箸さばきで豆腐を小さく摘み取った斎藤は、それを指の先に乗せて千鶴の前へと差し出した。
 朝昼の食事で分かったことだが、犬の口では箸に食いつくのはどうも難しいらしい。細切れにしたのを皿に並べれば千鶴が皿の周りをうろうろと移動しなければならないし、よろけて転びでもすれば顔ごとつっこんでしまう。
 小さな黒い鼻をひくひくと寄せた千鶴は、小さな口で斎藤の指先に食いついた。指先をくすぐるように小さな歯が当たる感触がこそばゆいが、何とか我慢する。千鶴が食べている隙に自分の食事も済ませねばと、千鶴の口があむあむと動くのを眺めつつ食べ進めていった。

「ただの愛犬家に見えるけど、あれが千鶴ちゃんだと思うと途端に一君が怖くなるよね」
「千鶴かどうかに関係なく、俺には今の斎藤が怖ぇけどな……」
「――もしかして、土方さん気づいてないんですか?」
「ああ? 何がだよ」

 朝からずっとげんなりした様子の土方は、自分を挟んで反対側の斎藤の様子を伺っている沖田へと視線を投げかける。珍しく心から驚いた様子の沖田は、斎藤と土方を交互に見て「うーん」と首をかしげる。

「犬になった千鶴ちゃんを最初に見つけたのは一君なんですよね?」
「ああ、そう聞いてる。目が覚めたらそうなってたってな」
「ですよね」

 大きく頷いた沖田は視線を斎藤へと移して、甲斐甲斐しい世話振りを眺める。視線を追った土方もその様子を眺め、それから肩をすくめた。

「何がどうなってるのか、さっぱり分かりゃしねえ。とにかく、原因追求は明日からだ。できりゃあ明日目が覚めて元に戻ってることを祈るけどな」
「原因は僕にも分かりませんけど……」

 視線の先で、食べ終わって満足した千鶴が食事を続ける斎藤にぴったりと寄り添うように伏せている。にぎやかな広間の中、唯一安全に食事を続けられる斎藤は静かな表情で箸を動かしながら時折何か千鶴に話しかけているようだった。斎藤が何か言うたび、千鶴の小さな耳がぴくぴくと動くのが見える。

「土方さんは、一君を信用しすぎだと思いますよ」

 もう一度首をひねった沖田は、胡乱な目で土方を見据えたまま猪口を呷った。




 早々に風呂を済ませた斎藤は、桶に熱めの湯を汲んで部屋へ持ち込むと布を浸して固く絞った。

「早く来い、千鶴。何をしている」

 風呂へ行くまでは書き物をしていた斎藤にぴったりと寄り添っていたのに、体を拭くと言った途端なぜか千鶴は怯えたように部屋の中をうろうろと逃げ始めてしまった。千鶴自身は風呂を好んでいたはずなのに、と考えてすぐさまそれを否定する。今の千鶴は千鶴であって千鶴でない。犬は水を被るのを嫌がるものもいるらしいから、もしかすると犬としての千鶴が嫌がっているのかもしれない。
 しかし、そうだとしてもそのまま寝かせるのはよくないだろう。せっかく真綿のような純白の毛並みをしていても、埃を被ったまま放置していては保てないし、清潔にしていなければどんな病気に見舞われるか分からない。何しろ今は非常事態なのだから、万全を期しておくに越したことはないのだ。
 よし、と決意した斎藤はざぶとんやら布団やら机やらで壁を作りつつ千鶴を追い詰め、困り果てた様子の千鶴を腕に抱き上げることに成功した。追い込み漁もいいところだが、無理やりふん捕まえるという選択肢を取れない斎藤にはこれ以上安全な捕獲方法が思い浮かばなかったのである。さほど広くない自分の部屋で追いかけっこをするのは気恥ずかしく、言うまでもなく斎藤の中で即座に却下されていた。

「何も湯につけるわけではない。拭うだけだ。すぐに済むから、大人しくしていろ」

 日中のように斎藤の膝に乗せられた千鶴は、身じろぐ気力も失せたように小さく縮こまっている。びくびくと怯えている様子を目の当たりにすると可哀想で堪らないのだが、これも千鶴のためと腹を括り、ほこほこと温もった布で拭っていった。
 頭、首、背中と順にゆっくりと拭い取り、布を一度湯にくぐらせて再度固く絞る。固まってしまった千鶴の腹に腕を通して抱え上げ、手足もきっちりと温めていく。やはり千鶴は緊張した様子でじっと固まったままだったけれども、首や耳のそばを拭うと耳がぴくぴくと動いていた。千鶴が少しでも落ち着くよう、膝に下ろして撫でながら全身をくまなく拭い取っていく。

「よし、もういいだろう。……千鶴、大丈夫か?」

 緊張し続けたせいか、ぐったりと伏せたまま目を閉じてしまった千鶴を残し、ひとまず桶を片付けに部屋を出た。布にも湯にもさほど汚れが出た様子はなく、以前迷い込んできた猫を抱えたときのように抜け毛がひどいということもない。これなら無理に体を拭く必要はなかったかと思案した斎藤は、手足だけは毎日拭って他は様子を見て日を空けるべきか、などと滔々と考えながら風呂へ戻っていった。




 桶を片付け部屋に戻れば千鶴はまだ少しびくびくと距離を取っていたが、斎藤が呼べばそろりと寄ってきてくれた。嫌がるところを無理強いしたせいで嫌われでもしたかと内心穏やかでなかったのだが、抱き上げて撫でているとそのまま斎藤の胸に寄りかかってうっとりと目を閉じている。無体を働いた旨を囁くように詫びれば、白い尻尾がふるふると揺れた。
 しばらくそうして撫でていたが、遠く屯所の入り口のほうからざわめきを聞きつけると、もうそんな時間かと手を止めた。声は夜の巡察へ出る隊士たちのもので、少し早いがもう床に就いてもおかしくはない時間ということだ。
 斎藤は夜の巡察に出ることも当然あるし、そうでなくても書き物があって遅くなることも多い。しかし隊士たちに比べれば格段に体力のない千鶴は、夜の巡察へ出る隊士を見送って風呂を洗い、土方へ茶を差し入れたら床に就く、というのがもっぱらだった。風呂を洗うと同時に済ませている入浴も今夜は既に終えているのだし、この姿ではもちろん茶など出せはしない。どのみち明日は原因調査でもっと疲れるはずなのだから、早々に寝てしまうほうがいいだろう。
 撫でる手が止まったことで不思議そうに目を開けた千鶴が、前足でちょいと斎藤の胸元を引っ掛ける。いやに人間らしい動きに目を細め、宥めるようにとんとんと背を叩いた。

「そろそろ休んだほうがいい。部屋へ連れて行く」

 大人しく腕の中におさまっている千鶴を抱いたまま部屋を出ると、薄暗い廊下を歩いていく。足袋が床板にすれる音が僅かにするばかりで、屯所の中は静まり返っている。夜ともなればやはり涼しいもので、何か包んできてやればよかったかと千鶴をいっそう身の内へと抱き寄せた。
 少し足早に暗夜を進み、ようやく千鶴の部屋へと辿り着く。ホッと安堵の息を吐いて襖を開いたところで、斎藤ははたと動きを止めた。
 一日主のいなかった部屋は明かりも温もりもなく、まるで以前から誰もいなかったかのような冷たい空気を漂わせている。元々私物の少ない部屋ではあるのだけれど、その生活感のなさが余計に寒々しい。
 斎藤はゆっくりと視線を下げ、腕の中から真っ暗な部屋を見ている千鶴の目をじっと見下ろした。

「帰ろう」

 ぽつりと呟いたのは、沈黙がしばらく続いた後だった。言うが早いか、手早く襖を閉めた斎藤は追い立てられるように早足で来た道を戻っていく。半ば小走りになって部屋に辿り着くと身を滑り込ませ、後ろ手に閉めた襖へ背を預けた。
 腹の底から押し出されたような深いため息に、千鶴が不安げな目で見上げてくる。戸惑いに揺れる目を見つめ返し、ただ黙って首を横に振った。
 あんな場所に千鶴を一人放り出すのが、恐ろしかった。
 父一人子一人で育った千鶴は、その唯一の肉親が消息を絶ったために単身京へ上ってきた。そこで幸か不幸か新選組と縁を交えることになったが、今現在も父・雪村綱道は見つかっていない。それに加えてこの騒ぎである。千鶴の身には不安ばかりが押し寄せていることだろう。
 まだ幼い無垢な少女だ。この屯所で暮らすこと自体ひどく息詰まることだろう。愚痴一つ溢さないが、何も思わぬわけでもあるまい。
 一人にさせたくはない。何もしてやれなくても、あの冷たく暗い部屋に置き去りにするよりはせめて人の温もりのある場所で、明るいところへいさせてやりたいと思った。

「――その身では、いつどうなるか分からん。一人でいるのは、よくない」

 嘘ではない建前を口にして千鶴の頭を撫でる。大人しくされるがままになっている子犬を出しっぱなしになっていた座布団の上へ下ろすと、押入れの戸に手をかけた。敷布を引き出し、掛け布団をいつもより一枚多く用意する。枕も手にしたものの、しばし逡巡して枕元へ置くだけに留めた。
 敷き終えた布団のそばへ近づいてきた千鶴は、少し困ったように布団と斎藤を交互に見上げている。いつまでも畳の上にいては冷えるだろうと、抱き上げて布団の真ん中へ下ろしてやった。
 布団に背を向けて手早く寝巻きへ着替えると、部屋の隅に置いている火鉢の炭を始末する。加湿目的で掛けていた鉄瓶はそのままに、銅壷(どうこ)で燗をつけていた徳利は半分ほどになっていた中身を湯飲みに注ぐと一気に呷ってしまった。風呂に入る前から暖を取るためにちびちびと飲んでいたものであるから残りは酒気も飛びがちで、酒に強い斎藤はこれしきで酩酊することもない。気にかかるのは己の呼気が酒臭くないかどうか、その一点だけである。試しに深く息を吐いてみたが、自分自身ではどうにもよく分からなかった。
 倒れぬよう火箸を深く灰に差し込み、湯飲みや皿などをひと塊にすると行灯の火を消して布団へ向き直り――千鶴がまた、どうしてか怯えた様子で部屋の隅へ行っているのが視界に映った。

「どうした?」

 火のない室内は暗く陰っているが斎藤は夜目が利くし、目が慣れれば障子越しに差し込む淡い月光でも様子をうかがい知ることは出来る。よくよく見てみれば千鶴は座布団を部屋の隅まで引き摺っていったようで、小さく丸まった身はその端にちんまりと乗っているようだった。
 斎藤が床の用意をするのを見て、自分の寝床は自分で用意したつもりなのだろうか。嘆息した斎藤は、ゆっくりと立ち上がると千鶴の目の前で腰を下ろした。

「いくら部屋を温めていたとはいえ、そのまま寝れば風邪を引くやもしれん。お前もこっちだ」

 言って伸ばした手が触れると千鶴はびくりと震えたけれど、それ以上逃げたり暴れたりすることはなかった。また緊張した様子で固まってしまった千鶴に、己はそんなに怖いだろうかと少しがっかりしながら布団の中へともぐりこむ。
 ここに寝ろ、ときっちり言及して隣を開ければ千鶴は小さな四足でしばし立ち尽くし、斎藤が畳み掛けて名を呼ぶことでようやく身を丸くした。
 安心させるように、軽く掛けてやった布団の中でゆっくりと撫でる。首元に指の背を擦り付けるように撫でると、千鶴のほうからも押し付けるような動きが返ってきた。掠めるように耳に触れ、その柔らかな毛並みのくすぐったさにひっそりと笑みを浮かべて、やがて斎藤も緩やかな眠りについた。




 甘い匂いがした。餡子や花のそれでなく、まとわりつくような、けれど不快ではないやわらかな匂い。やわらかなのは匂いだけではなく、手に触れる感触そのものが心地好かった。目を閉じたまま、まどろみの中でそのすべらかさを味わう。するすると手触りを堪能しながら、その温かさに指先からじわりと温もっていくのを感じた。
 心がほどけていく、その安らぎに惹かれるまま頬を寄せ、鼻先をうずめる。触れた髪はひやりと冷たく、布団の中で触れ合う肌の暖かさとの対比に小さく笑みが漏れた。

 ――――髪?

 瞬間、ぽたりと落ちた疑問の雫が斎藤の中で水面を揺らしていく。広がる波は深い眠りを妨げ、違和感を浮かび上がらせていく。
 何かおかしい、と意識したときには、既にすっと目が覚めていた。
 目覚めてすぐ無意識にも状況把握を図ろうとするのは、刀を帯びた者ならば別段珍しくもない。眠りにつくのは無防備になるのと同義であるから、それを狙うのは理にかなっている。誰かを殺せば、自分も殺される可能性について考えが至るのは当然の成り行きだろう。
 寝所はまだ静寂の中にあり、ちらと視界に映った天井にも見覚えがあった。ここは自室の布団で、己を脅かす気配はない。瞬時にそう判別し、安堵と共に腕の中のぬくもりを抱き寄せる。まだどこか覚醒しきらず、心根が誘うままに再び頬を寄せた斎藤は、腕の中でもそりと動いた主にゆっくりと目を向けた。
 鼻先まで布団を被った千鶴の黒髪の間から、色白の耳がのぞく。動きを止めた斎藤の目前で、「んん」と身じろいだ千鶴がぼんやりと目を開けた。
 数度まばたいた後、千鶴の視線が斎藤の胸元から喉、唇と上がってくる。やがて辿り着いた瞳と見つめあい、そして両者共にびくりと身を震わせて目を瞠った。

「あ、……え?」
「……おはよう、千鶴」
「は、はい……おはよう、ございます……?」
「…………動くな」

 静かな部屋に、囁くような会話が続く。混乱のあまり碌に声も出なくなった両者は、ぎこちなく固まったまま目をそらす。斎藤が言うままに身動きせず固まった千鶴は、疑問符を浮かべたまま、静かに布団を這い出ていく斎藤の背を見送った。
 膝を突き、ほうほうの体で押入れまで辿り着いた斎藤は、今にも駆け出しそうな思考を必死に制止して行李から替えの着物を引っ張り出すと、振り返らないままにそれを放る。後ろに目でもあるのかと疑いたくなるほどきれいに黒衣の着物は千鶴の眼前へと落ち、次いで襦袢と帯がぽんぽんと部屋を飛んだ。

「あの、斎藤さん……」
「それを着ろ。話は、その後だ」

 このままこちらを向いているから、と口にして斎藤は押入れに向かったまま目を閉じた。
 布団の中に隠れていたが、今の千鶴は人の姿をしていた。理由は分からないが、寝ている間に元に戻れたようだ。それはいい。大変喜ばしい。だが、と斎藤はきつくきつく目を瞑る。
 目覚めるまで、触れていた暖かな感触。撫でていたなめらかなもの。それら全てが布団の中でのことだ。人の姿の千鶴がそこにいる以上、その正体は見る間でもなくはっきりとしている。
 考えるな、考えるな、考えるな!!
 熱を帯びた身をぶるりと震わせ、斎藤は座した膝の上できつく手を握り締めた。しゅるしゅると衣擦れの音がする。千鶴が布団の中へ着物を引き込んでいるのだろうと、それを閉じたまぶたの裏で思い描きそうになり、あわてて目を開いた。押入れの戸の模様を、明け方の薄暗い明かりでひたすらに凝視する。

「あの、着替え……ました」
「――そうか。振り返るが、……その、大丈夫だな?」
「は、はい」

 ゆっくりと向き直ると、布団の上に所在無くちょんと座る千鶴の姿があった。髪はおりているし服装も己の黒い着流しになってしまっているが、別段外見の変化はない。羽織を着てから千鶴の向かいに腰を下ろすと、じっとその姿を検分した。

「どこか具合の悪いところはないか。痛みや、不快感はないのか」
「はい。大丈夫です」
「……どこまで覚えている?」
「全部、だと……思います」
「そうか」

 夜明けの光がじわりと広がる部屋の中、白い頬に朱が走る。変わりない様子に安堵した斎藤は、その頬にそっと手を伸ばした。ぴくりと震えた千鶴の目が斎藤を見つめて揺れ、少し冷えた手に熱を伝えていく。
 困ったように視線をさまよわせた千鶴は耐え切れずまぶたを閉じ、無骨な手に頭を寄せた。すり、と擦れた温もりに今度は斎藤がぴくりと震える。わずかに目を瞠った斎藤は、少し迷ってから頬を撫でると、そのまま首筋へと手を滑らせた。指先が耳に触れ、あごの下をくすぐる。赤くなったまま、千鶴は耐えるようにきつく目を閉じていた。
 知らずつめていた息を吐けば熱く、斎藤はまた少しためらってからそっと千鶴の身を引き寄せた。ぎくりと固まる千鶴の頭を己の胸に預けさせ、宥めるように――犬の姿のときと同じように、ゆっくりと髪に触れる。やがて千鶴の強ばりは解け、くたりと身を預けた。
 豊かな黒髪を撫でながら見下ろせば、僅かな動揺を含みつつも眠たげにうっとりとしている顔が見える。触れる手が冷えていくのを感じ、掛け布団を引き寄せ千鶴の背に掛けると落ちないよう一緒くたに抱え込んだ。

「犬の間の感覚が残っているのか?」
「分かりません。何だか、すごく安心して……」
「……問題ないのなら、それでいい」

 原因が分からない以上解決策を見出すのも難しいのではと考えていたことを思えば、再発の懸念は残るものの元に戻ったこと自体は素直に喜んでいいことだ。そう話せば、千鶴も微笑んで頷いた。



 ◇ ◆ ◇



 斎藤と千鶴が起きたのとほぼ同刻、沖田に襖と障子を全開にされた挙句、文字通り叩き起こされた土方は欠伸をかみ殺しながら斎藤の部屋へと向かっていた。夜更けまで書き物をしていたので殆ど寝ていないに等しく、今から確かめにいく目的を考えると尚のこと頭が痛い。
 一方、用がなければ早寝早起き昼寝完備の沖田は常と変わらぬ清々しさで土方の先を歩いていた。

「一君が正直に自己申告してるのも驚いたけど、土方さんが気づいていなかったのはもっと驚きだなあ。一君もきっと気が動転していただけで、言うつもりなんてなかったんだろうけど」
「どっちにしても信じがたい話だ。そりゃ、面倒見ろとは言ったがな……」

 昨晩の食事の席での話が気にかかった土方は夜のうちに沖田を追及したのだが、斎藤と千鶴が通じているなど俄かには信じがたかった。仲がいいのは知っているし、どうやら互いに好いているのだろうとは傍目にも明らかだ。しかし千鶴はまだ年端もいかない小娘で、色事のいろはも知らないに違いない。

「あの斎藤だぞ? いくらなんでも、そりゃねえだろ」
「さあ、どうですかね。案外僕らが思っているよりずっと進んじゃってるかもしれませんよ?」

 ニタニタと楽しげな沖田の先導に続いて、土方は斎藤の部屋の前で足を止めた。沖田が言うには、斎藤なら千鶴を一人で寝かせたりしないはずだという。犬なら構わないだろうとも思うのだが、あんまり沖田がしつこいので斎藤の嫌疑を晴らす意味も含めて朝から足を運んだという次第である。
 とにかく、これ以上やっかいごとが増えるのだけはご免だ。斎藤にも日頃の落ち着いた彼に戻ってもらわねばならないし、千鶴も元の姿に戻してやらなければならない。綱道が見つかったとき、これがあんたの娘だと犬を差し出すわけには行かないだろう。
 襖に手をかけながら、土方は深いため息を吐き出した。

「いいか総司、これで疑いが晴れたらもう適当なこと言いふらすんじゃねえぞ」
「はいはい。いいからほら、早く確かめましょうよ」

 なんでこいつはこんなに自信満々なんだ、とぼやきつつ、「入るぞ」と声を掛けるとおもむろに襖を開いた。
 昇り始めた朝日が差し込み、布団の上に座っていた斎藤がうすく目を細める。足音と気配で分かっていたのだろうが、驚いた様子もなく土方に視線を投げていた。
 背後の沖田が絶句している空気を感じつつ、土方は薄笑いを浮かべて口を開いた。

「……よう、斎藤」
「おはようございます。これからご報告に伺おうと思っていたところだったのですが」
「そうか。……何の報告だ?」
「はい。千鶴が元の姿に戻りました。体調にも異変はないとのことです」
「そりゃめでてえな。……他にお前、言うことないか」
「他に、ですか?」

 腕に抱えた千鶴が青い顔をしてもの言いたげな視線を土方と自分との間でを往復させているのに気づいた斎藤は、はっとして土方に頭を下げる。

「昨晩は寝所が冷えていましたので、火のついていた俺の部屋に呼びました。夜遅かったとはいえ、副長の判断を仰がず千鶴を連れ出したこと――」
「そうじゃねえ。それもそうだが、そうじゃねえだろう、斎藤よ」

 驚きを通り過ぎたのか、声を殺して笑い始めた沖田を無視して土方はすらりと刀を抜いた。髪を下ろした千鶴が斎藤の着物に包まれ腕に抱かれているのを睨みすえながら、正中心に刃を構える。
 ようやく失態に気づいた斎藤の顔が血の気を失うのを見やりながら、土方はにたりと引きつった笑みを浮かべた。

「綱道さんが見つかったとき、俺ぁ何て言やあいい。男装のまま軟禁した挙句に隊士が手ぇつけましたって、そう言やあいいのか。なあ、斎藤?」




 道場にて行われている指導と称した制裁は散々に斎藤を打ちのめしているようだったが、おそらくそれが済めばもう土方は何も言わないのだろう。引き裂かれて鬱々とされるよりはいいのだけれど、つまらないなと沖田はよく晴れた空を見上げてお茶をすする。庭ではいつものように千鶴が洗濯物を干していて、時折遠くから聞こえる土方の怒鳴り声を聞いては不安そうに手を止めていた。

「隊規違反でもないし、別に殺されはしないよ。風紀を乱すなって忠告と、あとはまあ色々八つ当たりじゃないの」

 土方が八つ当たりしたくなる要因を人一倍増やしている張本人が自分であることを棚に上げてそう言っても、千鶴の表情は一向に晴れない。

「でも、斎藤さんだけがお叱りを受けるのは……」
「あれ? じゃあ、君から斎藤君を誘ってたらしこんだの?」
「ち、違います!」
「それなら君を叱るのはお門違いでしょ。とにかく、君は大人しく待ってなよ」

 はあ、と納得しきれないまま頷いた千鶴にいらえを返してから、ふと思いついたように沖田は首を傾げて笑った。

「今から買い物に行こうと思うんだけど、君も付き合ってくれる? もち米と小豆が欲しいんだよね」
「はい、構いませんけど……」
「ならすぐに行こうか。本当ならもっと前に食べなきゃいけなかったんだし、早いほうが良いよ」

 縁側から庭へ降り、きょとんと目を丸くした千鶴の手から最後の洗濯物を奪うとひょいと物干し竿に引っ掛ける。こうなるまで二人の関係に気づかなかったことが面白くないような、けれどこれから当分はこの話で楽しめそうな、相反する思いを胸に千鶴の腕を掴んで歩き出した沖田は、慌てて転びそうになっている千鶴にだけ聞こえる声音で囁く。

「一君と君が結ばれたお祝いをしなくちゃ」

 にやにやと意地の悪い笑みを添えることも、もちろん忘れない。
 一瞬遅れて耳まで染めた千鶴が「沖田さん!!」と悲鳴を上げるのを笑い飛ばしながら、この悲鳴を聞いて駆けつけるであろう他の幹部隊士たちに、さて何と言って説明してやろうかと笑みを深める。嫌な予感に感づいた千鶴がやめてくださいと半泣きになるのを引き摺って、意気揚々と玄関へ向かうのだった。



 ◇ ◆ ◇



 赤飯を炊こうとする沖田とそれを止めたい千鶴が騒ぎながら屯所を出てしばらく。
 土方のありがたい「指導」終え、打たれて痣になった腹に薬を塗って包帯を巻いていた斎藤は、稽古で少し指を切ったという原田と向き合っていた。手当てをするための道具や薬が置かれたこの部屋は山崎と彼を手伝う千鶴が使うくらいで、その山崎も今は別の任務で屯所を離れているため人の気配がない。奥には病人が寝るための部屋が続いていたが、幸いなことに今現在は寝たきりの隊士などいなかった。
 赤みがかった髪をさらりと流し、原田は斎藤からの相談に耳を重ねていた。話題は、昨日の千鶴の様子である。

「――という具合だったのだが、左之はどう思う」
「どうって、そりゃお前……」

 呆れ顔をしかめた原田は、苦い顔で閉口した。
 いわく、風呂に入れる代わりに拭いてやっただの、一人寝が心配だから一緒に寝ただの。そのとき千鶴が怯えた様子で逃げ回ったのだが、それで相当嫌な思いをさせたのではと心配になったらしい。
 これらの行動が、相手が千鶴だとはいえ、犬だから平気だったというのは分からなくもない。原田だって立場が違えば同じように面倒を見ただろう。そこによこしまな思いが見当たらない辺りはさすが斎藤というべきか、褒めていいとも思う。
 問題は、千鶴がどう思うかについては考えていなかったということだ。言葉で言うのは簡単だが、それでは今後のためにならないだろうと考えた原田は「いいか」と前置きして、大きく手を広げた。

「こう、ここに千鶴がいるって考えてみな。人の姿の、だぞ」
「……ああ」

 何もない空間を手で示す原田に、斎藤は一つ頷いてそちらに目を向ける。ぼんやりと視線を外した斎藤に、原田は説明を続けた。

「仮にお前が風邪で寝込んだとする。千鶴なら看病してくれるだろうな」
「そうだな」
「そのとき、お前の体を拭くからって急に着物脱がされたら、驚くだろ?」
「お、驚くに決まっている。……それ以前に、千鶴がそのようなことをするとは思えないが」

 脱がしにかかろうとする千鶴まで正直に想像したのか、斎藤は戸惑ったように想像上の千鶴がいるだろう空間から目を外している。千鶴が絡むと途端に分かりやすい反応をする姿に感心しつつ、原田は尚もたられば話をもちかけた。

「それじゃあ、晩に千鶴へおやすみって挨拶しにいったら、一緒に寝てほしいって袖引いてきたらどうする?」
「なっ……!」

 ぎょっと目を見開いた斎藤の顔に動揺する色がありありと見て取れる。「驚くだろ?」と続けた原田は、やれやれと肩を竦めた。

「お前でも驚くんだ。相手は千鶴だぜ? いくら世話してもらってるっつっても、全身触られまくるなんて恥ずかしいに決まってる。その後で布団に連れ込まれたら、そりゃあ緊張もするだろ」
「へ、変な言い方をするな! 俺はそんなつもりなどなかった!」
「とにかく、だ。嫌だったかどうかはともかく、千鶴が逃げたのは驚いたか恥ずかしかったか、どちらかだろ」
「……浅慮にもほどがあるな、俺は……」

 ずうんと落ち込んだ斎藤がのろのろと薬箱を片付けるのを眺めつつ、原田は塗り薬を塗った指先を眺める。大した怪我ではないから放っておこうと思っていたのだが、きちんと手当てをして欲しいと言って来たのは、なぜか沖田に引き摺られていた千鶴だった。またからかっているのかと沖田をたしなめはしたが、口で言って聞く相手ではない。やれやれと呆れた原田がちらと指先を気にして、それに気づいた千鶴に頼まれたのだ。小さな傷でも雑菌が入ってはいけないからと、平気だと言う原田に頭を下げんばかりの勢いで言われ、そんなに言うならと手当てをしにきた。外から戻った千鶴がこの指を見れば、きっと安心して笑ってくれるだろう。
 可愛い可愛い、妹みたいなものだ。僅かも期待をしなかったかと言われれば、それは嘘になるけれど。
 土方が目を瞑ると判断したのは驚いたのが半分、納得したのも半分だった。斎藤なら色恋にうつつをぬかして隊務が疎かになるようなこともないだろうし、千鶴を大事にするだろう。
 二人が好き合っているのは気づいていたが、互いに口にしていないのだろうと思ってた原田としてはその進展具合に驚くばかりだ。可愛い妹がまさか既にお手つきだったとは。なんとなく面白くない気分になっている自分には目を瞑っておく。

「巡察の支度をしてくる。……左之、この話は皆には」
「言わねえよ。しっかし、お前もなかなかやるじゃねえか。もう手を出してるなんて全然気づかなかったぜ」
「……出していない」
「え?」
「何もしていない」

 いささか憮然とした面持ちで言う斎藤に、原田は絶句した。
 斎藤は千鶴と共に寝ていて、それで犬になってしまったとき一番に気づいたのだという話だ。それなのに何もないはずがない。特別な理由もなく千鶴が他人の部屋で一晩過ごすなど、彼女の性格からしても考えにくい。
 目で問う原田に、斎藤は苦い顔で首を振った。

「一昨日の晩、巡察の帰りに様子を覗きに行ったら落ち込んでいるようだったから、連れ出して話を聞いていた。茶を入れてくれるというから俺の部屋で飲んでいたが、そのまま千鶴が寝てしまった」
「……それだけか?」
「それだけだ」

 言葉が出なかった。
 隊務の後そのまま休まず千鶴の元へ向かったという斎藤が、ただの親切でないことは分かりきったことだ。少しでも顔を見られればと、そう思うのは想いを寄せているからに他ならないだろう。それなのに。

「そりゃ……ご愁傷様、だな」
「――どのみち、屯所では無理な話だ」

 大きなため息をこぼし、自分に言い聞かせるように呟いた斎藤はそのまま原田を残して部屋を出て行った。
 据え膳食わぬは、というが千鶴はそんな気などなかったのだろう。信頼し、恋い慕う斎藤のそばだからこそ安心して眠ったに違いない。あどけない寝顔を前にして、あの斎藤が手を出すなど出来るだろうか。自分だって無理だと原田は頭を抱える。他人事だがあまりにも不憫すぎる。土方にも同じように説明してしまえば「指導」を受けることもなかっただろうにと考え、そこで眉をひそめた。
 なぜ正直に話さなかったのだろう。部屋に連れ込んだことは事実だが、前後の話の流れを考えれば、部屋で茶を飲むくらいは他の者だってしていることだ。さほどやましいことでもないし、土方の信頼を受けている斎藤なら見逃してもらえる範疇だろう。

「……屯所、では?」

 去り際の斎藤の台詞を反芻し、原田はざあっと青ざめる。斎藤が土方に隠し事をするなど余程のことだ。よほどの事情があって、けれど屯所では無理で。
 ――屯所でなかったら?
 当然のように浮かんでくる疑問に答える術はなく、原田は深い疑念を抱えたまま、やけに息苦しく感じる部屋から這い出したのだった。

 以降しばらく、斎藤や千鶴を見るたびに何とも言えず苦い顔をする原田の姿が見受けられたが、結局のところ真実は当人のみぞ知るところである。



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真実(=さいちづいちゃいちゃ)は起承転結の起(=冒頭2行)にあり (10.03.25.〜10.04.26.)