雪花咲み





 長い冬に閉ざされた函館、五稜郭の一室。濃い紅の絨毯を敷き詰めた洋室に、不似合いな匂いが漂っている。
 備え付けのローテーブルとソファを端に押しやり、絨毯の上に無理やり広げたござの上にどっかと腰を下ろした土方は、上着を脱ぎ刀も腰から外して大きなため息をついた。ほう、と出たのは呆れでも怒りでもなく、ただ単純に感心したためである。

「ずいぶんな手の込みようじゃねえか」
「掃除や片付けは軍の方が手伝って下さって早く終わったんです。それで、手が開いたので」
「なるほどな」

 自らはきっちりと洋服を着込んだままの千鶴は、土方の前へ重箱や椀、杯に小鉢と並べていく。決して自由の利く状況ではないために食事も贅沢など出来やしないが、それでもありあわせの材料で何とか見栄え良く仕上がっているのは千鶴の努力の賜物なのだろう。

「もったいねえな……」

 己を慕うが故に冷たい海を越えた遥か北の地まで来てしまった千鶴の横顔を眺めながら、ぽつりと土方は呟く。本心だ。彼女ほどの女をこんな場所で、こんな姿のまま置いておくのは世のためにならないのではないかと、そう言いたくなる。
 弱音を吐くどころか鬼副長と隊士たちに恐れられていた土方を時に励まし、時に寄り添い支え、極々たまにだが苦言を呈することも、叱咤することもあった。彼女がここへ来たときは言い合いにもなった。立場上、それなりに口は回るほうだと自負していた土方が折れたのだ。惚れた張れたは別として、彼女の心根の強さは格別だろう。全く、もったいないことこの上ない。
 だが、だからといってどうする気もなかった。もったいなかろうがなんだろうが、既に千鶴は土方のものだ。彼女自身がそう望んで、土方もそれを受け入れた。これまでも愛しく思う気持ちがなかったと言えば嘘になる。それを抑えて、抑えて、紆余曲折を経たそれがここへきて実ってしまったのだ。もう隠さなくていいのかと思えば、随分と気は楽になった。これからの戦いにも、惑うことなく進んでいけるだろう。
 そんな万感の想いが篭っているとは露とも知らない千鶴は、言葉を額面通りに受け取ったらしい。「久しぶりに手の込んだ料理が出来るから、ちょっと頑張ったんです。もったいないなんて言わないで、ちゃんと食べてくださいね」と、こうである。全くもったいない。本当に、色んな意味で。

「吹雪が止んだら、まずは雪かきからですね」
「だな。扉が凍るだけなら溶かしゃいいが、雪で埋もれちゃどうにもならねえ」

 この冬一番の寒気が訪れているらしく、外へ出るには二階の窓から飛び出すしかないほどに積雪がひどかったのだ。力ずくで押せば開くだろうが、それで扉が壊れては意味がない。おかげで、今日はこの建物に詰める人間はみな缶詰である。元より食材も水も確保してあったから別段困りはしないのだが、屋内にいても凍えるようなこの寒さは相当こたえる。少ない燃料で暖を取るためか、広い部屋に集まって過ごす者が多いようだった。
 室内での調練が出来るほどの場所はなく、各人が出来うる限りの仕事を見つけてこなし終えた後は自由行動としている。とはいえ建物からは出られないのだから、自然とどこかへ集まって歓談に興じたりどこからか見つけてきた盤で碁を打ってみたり、そうして大人しく過ごしているようだ。長い冬のおかげで戦闘こそないものの、軍の兵士にはいくらでもすることはあった。丸一日休むこともあまりなかったので、これもいい機会だろうと休暇を申し渡して今に至る。
 土方つきの小姓として働く身の上であるから、当然千鶴にも同様に休養の指示は出ている。が、基本的に土方が働いているなら自分だって、という千鶴であるから、案の定休養を取ろうとはしなかった。土方にはしなければならないことが残っているから、千鶴のために丸一日休んでやる訳にもいかない。さて、どうしてくれようかと知恵を絞った結果がこの料理の数々だ。
 土方がいつまでも手を出さずに眺めているからか、千鶴は取り箸で適当によそいながら口を開く。その横顔は、ごく穏やかで楽しげだ。

「ちゃんと江戸風に味付けしましたけど、私も江戸を離れてから長いのでお口に合うかどうか……」
「ここへ来るまで、ずっとおまえの飯を食ってたんだ。それが口に合わないんじゃ、俺の口に合う食事なんざこの世にゃねえだろうよ」

 新選組の屯所で千鶴が厨に立つようになってから、蝦夷へ渡る前に置き去りにするまで。かなりの年月の間、土方は千鶴の作る食事に舌鼓を打っている。その間、上達したと思うことはあっても食えたものじゃないなどとは思ったことがない。これは惚れた弱みでも何でもなく、歴然とした事実だ。
 正直に言った言葉は千鶴の頬を朱に染めている。料理の腕前にしろ着飾るにしろ、いつまでも賛辞には慣れないらしい。
 洋風の白いシャツに包まれてなお分かるほどのほっそりとした肉付きの薄い腕が、とりどりに盛られた皿を土方の眼前へと下ろした。

「どうぞ」
「ああ。それじゃあ――」

 ぱん、と手を合わせて音頭を取るその寸前、コンコンと軽快なノックに続いてドアノブが回る。

「やあ、お邪魔するよ!」
「……ほんとにな」

 うんざりするほど晴れやかな笑顔で踏み込んできた大鳥は、手を合わせた土方とその前に広がった料理、そして向かいに膝を折る千鶴を順に見てにこりと微笑んだ。見れば腕に何か布束のようなものを抱えていて、どうやらそれを見せに来たらしい。千鶴が料理をしていたのは隊士たちも知るところであろうから、わざわざこの瞬間を選んで踏み込んできたような気がする。
 苦い顔をしている土方の妬ましい視線を物ともせず颯爽と歩み寄ってきた大鳥は、これまたわざとらしい大仰な身振りで抱えていた布地を突き出して見せた。

「船便の荷を改めていたらこんなものが出てきたらしくてね。いい品だから上へ渡しておけ、ということで僕のところに届いたんだよ」
「……見ての通り、今から飯なんだよ。出て行ってくれねえか」
「洋服でね、女性用の晴れ着らしい。ドレスというんだそうだ。西洋の振袖といったところかな?」
「おい、大鳥さん」
「僕には無用の長物だからね。刀は鞘に、振袖は雪村君に。ということで、はい、どうぞ」

 上官でなければ手が出ているところである。こめかみと口角をひくりと引きつらせた土方を華麗に無視した大鳥は、床にちょんと座っている千鶴に向かってドレスを広げた。
 緩衝材代わりに詰め込まれていたという割りに物は新品のようで、もしかすると誰かが荷に紛れさせて取り寄せたものかもしれない。密輸まがいの行為は禁じているが、末端まで行き届いているとは言い切れないのが現状である。
 和装だった頃の千鶴の着物よりは明るく鮮やかな桜色のドレスは、薄い布が幾重にも合わさっているようで、どういう仕組みかは分からないが、裾が花のように広がっている。洋物の明かりである「シャンデリア」の細工に、オランダの花を模したものがあったが、その花を逆さまにしたような形だ。それが腰から下を覆うらしい。
 つい反射的に品定めをしてしまった土方は、頭の中でこれはどのように纏うものなのか想像し、言うまでもなくその想像には千鶴が用いられた。今現在、頭の中にはこの長い戦と千鶴のほかには大したことなど詰まっておらず、女性といえば千鶴、千鶴といえば大事にしてやりたい女、とこういう連想である。
 ここへくるまで千鶴が己の身なりについて特別要望を述べることはなかった。それどころではなかったのも事実だが、着飾りたい気持ちがなかったわけではないだろう。まだ京に屯所があった頃、芸子の衣装を着せたときは照れながらも華やかな装いに喜んでいるようだったから、わがままを言わないよう自分に言い聞かせていたに違いない。
 自分への言い訳はこれぐらいでいいか、と心の整理をつけた土方は皿と箸を置いて立ち上がると大鳥の手からドレスを取り、もう一方で千鶴の腕を引いて立ち上がらせた。何しろ今日は最初で最後かもしれない、何事もない休暇なのだ。今を逃せば次はないかもしれない。据え膳食わねば何とやらと言うではないか。文字通り、今まさに据え膳が食えずにいる訳だが、それはそれとして。

「お前が着て見せるまでここに居座りそうだしな。千鶴、着替えてみろ」
「えっ!? でも私、こんな服見たこともないですし、着方も……」
「手伝ってやるよ。見よう見まねでも何とかなるだろ。おい大鳥さん、ちょっと部屋出てくれ」
「僕も手伝おうか?」
「おい大鳥さんちょっと部屋出てくれ」
「分かった、分かったから鯉口を切らないでくれ!」




 埃が入らないよう食事には風呂敷を広げて被せ、戸惑う千鶴の服を剥ぎ取り、真っ赤になってしゃがみこむ千鶴はひとまずそのまま放置してドレスを広げた。布地は色々と合わせてあるようだが、どうやらこれ一着で着替えは完了するらしい。縫製を見るに、足を入れて上までたくし上げ、背中の紐を綴じていくのがいいだろう。腰から背骨沿いに紐が通されており、ちょうど斎藤へ支給したブーツに似た仕組みだ。編み上げというのだったか、洋物はこういった留め方が多いのかもしれない。
 半襦袢と下着だけの姿でしゃがみ込んで肩を抱いている千鶴の腕を引き、ソファの前に立たせる。涙目になって「土方さん!」と抗議する声はそのまま横へ聞き流し、ドレスを肩に当てて合わせた。少し裾は引き摺ることになりそうだが、引き振袖と思えばそんなものだろう。軍隊に籍を置く以上これからも男装を続けさせるのだから、当然ドレス姿の千鶴をこの部屋の外へ出すつもりはない。この部屋の中だけでなら、少々引き摺ったところでそう目立つ汚れがつくこともないはずだ。
 背に当たる紐を緩めて広げてやれば、諦念したのか千鶴がそろりと足を入れた。襦袢が捲れないよう引き上げ、腕を通させたところで背後に回る。
 こうして脱がされた千鶴が泣き喚かないところからも察しはついているかもしれないが、しばらく前に手を出してしまっていた。既に勝手知ったる彼女の肢体、なのだけれども、背の紐を交差させて綴じながら白く細い背筋につい目がいってしまう。
 ここへ至るまで大の大人、しかも男の行軍にしっかりついてきた割に薄い身体だ。もはや衣装ごときでは隠し切れぬ柔らかな稜線を目で辿りつつ、解けぬよう固く紐を結ぶ。あまりきつく締めては苦しかろうが、ゆるくて脱げるようでは困る。外国の女は家事をしないのだろうかと内心首を傾げつつ、ぽんと背を叩いた。

「よし、これでいいだろう。どうだ、苦しいところはないか」
「着物よりは窮屈ですけど、これはこういうものなんですよね?」
「多分な」

 洋装は元々身体の線が出るように出来ている。羽織ってから帯や折込で調節する着物とはそもそもの概念からして違うのだろう。西洋では身体の大きさを測ってから作る「オーダーメイド」なるものがあるようで、それがまず日本人の範疇外だった。道理で、洋装にはあそびを持たせる余地がないはずである。
 話しながら正面へ回って見てみれば、千鶴は腕を上げたり肩を竦めたりと不思議そうにはしているが、明るく女らしい装いにほんのりと頬を染め口元を綻ばせていた。きょろきょろとドレスを見ている千鶴の顎を片手で掬い、もう一方の手を髪結い紐に伸ばす。指先に絡めて引けば、高く結われた髪がさらりと肩に下りた。

「ひ、土方さん?」

 仕草にか、あるいは指先の辿る動きにいつかの夜を思い起こしたのか。朱に染まる千鶴の頬をなぞり、身を離した。改めて上から下まで視線を往復させ、恥じらい、困ったように肩を縮こまらせる少女の姿を瞳に映す。
 ――少女、と呼んでいいのだろうか。近頃はそんなためらいを感じていた。
 出会った頃はまだ蕾だった花芽も、今では大輪の花を咲かせている。芯が強く、艶やかに咲くこの美しい花の姿の、なんと目映いことか。
 血と汗と泥にまみれて進んだ道のりを振り返れば、いつもそこに千鶴がいた。いくつもの死線を潜り抜け、息つくときは必ず傍らにあった。その花の可憐な様を見ては己を奮い立たせ、あるいは自己嫌悪に陥り、そしていつしか救われていた。
 いつかきれいに咲くだろうとは思っていたが、それを見ることは終ぞ叶わぬだろうと思っていた。予想は彼女自身の手で摘み取られ、今はただ土方のためだけに凛と一花を咲かせている。

「よく似合ってる」

 真白い雪の降り積もるこの地で咲いた、まだ幼さを残すこの小さな花が何よりも愛おしい。己の言葉一つで笑ったり泣いたり、恥らったりむくれたり、そうして一喜一憂しながらこの冬を共に越えようとしてくれている。

「ありがとうな」
「い、いえ……そんな、私の方こそ」

 はにかみながら答える千鶴の赤くなった耳に、指先で掬った髪をかける。
 白雪のように透き通った肌が赤く染まる、それに言い得ぬ幸福を感じるようになったのはいつ頃からだったろう。綱道は倒れ、風間は己のみを付け狙うようになっていた。千鶴を手放さないのかと問う己は、既にそのときには消えてしまっていたのだろう。もはや付いてくる理由はないと判じながら、どこまでも連れて行ったのは土方自身だ。いつだって振り切ってくることは出来た。海を越える直前まで踏ん切りがつかなかったのが、彼女を想っているのだと自身に知らしめる何よりも歴然とした証拠である。
 彼女が傍らにあるこのときを、何よりも幸せに思っている。蝦夷地が雪に覆われている今、それを強く感じていた。
 長い冬が明け、春が来ても、この花だけは散らすことのないように。
 たとえ手折れたとしても、踏みにじられることだけはないように。
 雪解けまでのわずかなひと時、少しでも多く与えてやりたい。幸せなどいらないと言った千鶴へ、自由の利かぬ身ではあるが、やれるものは何もかも差し出してやりたいと思う。彼女が捨てた彼女の幸せを全て拾い上げて、衣でも雪の花でも構わない。手を重ね、唇を合わせ、吐息を呑んで贈るのだ。
 どうか少しでも多くの幸せに包まれますように。
 どうか少しでも長くこの花を生かせますように。

「――きれいだ」
「……ありがとうございます」

 言えば苦しめる想いを口づけに織り込めば、花弁は揺れ、笑む。
 痛む胸を埋めるように照れ笑いの千鶴を腕の中に抱きこみ、土方は大きくため息をついた。




「ひーじかーたくーん……」
「――あ」
「……ああ、すっかり忘れてたな」

 そろそろいいかーい、と控えめながらも切実な大鳥の声を聞き、土方は肩を竦めて笑う。廊下に放り出したまま忘れていたが、いい加減寒さが骨身に染み渡った頃合かもしれない。入れてやらねばならないだろう。
 期せずして千鶴の艶姿を見られたのは、悔しいがまたしても大鳥のおかげである。普段の洋装も大鳥の用意したものだと思うと今度こそ全てひん剥いて着替えさせたくなるところなのだが、これがまた似合っているのだから口惜しい。新しく見繕ってやる時間もないから仕方がないのだけれど、素直に受け入れがたいのはいかんともしがたい。せめて脱がすほうは自分だけであれと夜を重ねて鬱憤を晴らすのが関の山である。

「す、すみません! 今開けます!」

 ドレスの裾を掴んで少し持ち上げたまま扉を明けに行く千鶴の、大きく開かれた白い背中を見送る。淡い桜色に覆われる澄んだ白と、流れて揺れる黒髪。赤い花でも散らせば彩りになったかと喉の奥で笑いながら、ござに腰を下ろし皿を手に取った。
 磁器の皿に目を向ければ、とりどりの色が鮮やかに乗せられている。白、紅、黒、緑、黄、茶。この内いくつの色を千鶴に贈ってやれるだろうかと思案する。短い睦びの終わりには、晴れた空に浅葱を見出すだろう。それまでに、ようやく咲き始めたこの花をどれだけ彩ってやれるだろうか。

「冬の花見もいいもんだな」

 箸を進めながら、大鳥を招き入れる千鶴の動きを至極穏やかな気持ちで見守っていた。







haruki*さんのリクエスト「ひじちづ+大鳥さんで千鶴に洋服贈り隊士」
ゆきはなえみ(10.08.30.)