むすんで、ひらいて 長雨が続く。秋が深まり幾分暑さは失せたものの、降り続く雨のおかげで湿気はたっぷりと漂っている。朝夕は肌寒さを覚えるけれど、日中の巡察へ同行すると熱気にゆだった湿気が鬱陶しくて敵わない。 今頃さんざそれを味わっているだろう隊士さん達のことを思うと、ついため息がもれた。 「どうした?」 「あ、えっと」 注ぎ終わっていたのに手渡す手が止まっていた。慌てて急須を置き、湯飲みを文机の端に載せる。載せたそばからさらっていった土方さんの眼差しが、私を見下ろしていた。 尋ねているだけで一かけらも責めてはいないのに、どうしてか圧力のようなものを感じてしまうのは、やはり、少し気後れしているせいだろうか。 そろりと頭を上げると、視線をよこす土方さんの顔色を伺う。 「この雨では、巡察の皆さんは大変だろうと思って」 「ああ、まあ、そうだろうな」 「風邪を引かなければいいんですが」 そう言えば、そんなにやわな奴らじゃねぇよと軽く笑って湯飲みに口をつける。一口すすって、それから思い出したように付け加えた。 「古傷が痛むやつはいるかもしれねぇがな」 「関節や筋を痛めた方は、そうかもしれませんね」 「さすがに知ってたか。ま、実際は人によるんだろうけどな。痛むかどうかは」 言って右に左に首を傾ける。そのままぐるりと首を回して、やれやれとため息をひとつ。長らく机に向かっていたから肩が凝ったのだろう。 「肩こりも、雨の日は痛みますか?」 「さあな。俺のは天気のせいじゃねえから分からねえよ」 「そうですか……」 よかったと言っていいのか少し迷って、そのまま言葉を飲み込んだ。鍛えているからか、明日明後日と肩こりを引きずることはないのだろうけど、それでれも今はずいぶんと辛そうだ。 「あの、土方さん。よければ肩をお揉みしましょうか?」 「ああ? おまえが?」 「あ、あの、よかったら、なので、その」 私なんかが出すぎた真似を、と勢いのままに頭を下げる寸前。 「じゃあ、ちっと頼むか」 「え?」 ぐっと湯飲みを傾けて、それを置いた土方さんはうなだれるように肩の力を抜いた。結わえた髪を指先で払い、邪魔にならないよう胸の前へとよけている。 たったそれだけの仕草も何だかただ事ではないようで、私はしばしポカンと土方さんの背中を見ていた。 「おい、やるのかやらねぇのか、はっきりしろ」 「あ、は、はい! やります!」 よくよく考えてみれば、無防備に急所を晒すことになるのだから首まわりを晒すなんて嫌がられるに決まっている。それなのに、と思いつつ慌てて土方さんの後ろへと駆け寄った。急いで立ち上がったせいで足袋が畳に擦れ、滑りそうになりながら膝をつく。 大きな背中だった。後ろをついて歩いたときにも大きな人だと思ったけれど、こうして近づくともっと大きくて、広く感じる。父さまとはまた違う「男の背中」というものに、不思議な思いでそろりと手を伸ばした。 「では、失礼します。加減はしますけど、もし痛かったらすぐに仰ってください」 「おお。筋でも違えたらタダじゃすまさねぇぞ」 「わ、分かりました!」 言葉は怖いものの、言っている声音はずいぶん柔らかだ。 笑いを含んだ声に進められるまま、肩に手を添える。膝立ちのまま、まずはゆるく力を込めた。親指に跳ね返る筋肉の硬さに、ああ、これは、と知らず顔をしかめてしまう。二度目はもう少し力を強くして、ゆっくりと。ほぐすように揉みながら、土方さんに声を掛ける。 「やっぱり凝ってますね……。力加減はどうですか?」 「ああ、もう少し強くてもいいくらいだ」 「分かりました」 体重をかけ、押す力を強めていく。むやみに押せばいいというものでもないから、少しずつ指圧する場所をずらしていった。 紫紺の着物の上に乗った手を見ながら、私の手はこんなに小さかったかなと思ってしまう。手が大きくないのも本当のことだけれど、きっと、土方さんの肩が広いせいだろう。新選組の副長を務めるような人なのだから、その存在感も相当のものだ。そういうことも、たぶん関係しているのだと思う。 そのまましばらく肩揉みを続けていたけれど、土方さんは俯いたまま何も言わなかった。そうっと気配をうかがってみても、閉じた目を開く様子もない。 警戒されていないのだろうかと思うと、ほんのり心が暖かくなった。たとえばここで私が刃を向けるようなことがあっても、土方さんなら難なく逃れられるはずだ。警戒する必要もない。そういう理由だろうとは思うけれど、それでも、私がそんなことをしないことも、きっと土方さんは分かってくれている。土方さんの理解の深さを感じるたびに、私はとても嬉しくなった。 誰より気遣いの出来る人だから、きっと苦労も人一倍多いのだろう。厄介者でしかない私を殺さずにここへ留めてくれたのも、そもそもは、現場ですぐさま殺してしまえと命じなかったからだ。「面倒になる前に殺してしまえばいい」という沖田さんの台詞だって、新選組のことを思えば間違いではなかったはず。それでも、土方さんはそうしなかった。父様のことなど止むを得ない事情もあったけれど、結局、土方さんが血も涙もない冷酷な人ではなかったからこそ、今の私があるのだ。 命の恩人だからというわけではないけれど、こんなに立派な方の役に立てるなら、これほど嬉しいことはない。恩返しというには足りなさ過ぎるだろうけれど、私は私に出来ることで土方さんにお礼がしたい。自然と、そう思っていた。「そんなもん必要ねぇ」と言われてしまいそうだから、口には出さないけれど。 「……どう、でしょうか」 静かな時間がしばらく続いて、土方さんの制止の声で私は手を止めた。具合を尋ねる私に、土方さんはぐるぐると肩を回して確かめる。 「ずいぶん軽くなったな。おまえ、なかなか腕がいいじゃねぇか」 「いえ、そんな……。少しでもお疲れが取れたなら、良かったです」 振り返りながら言った土方さんの、くすぐったくなるような微笑みに私は口ごもってしまう。役者さんのようなきれいな顔立ちももちろんだけど、普段厳しい表情をしていることが多いせいか、垣間見える優しさになんだか照れてしまう。 もじもじと俯いた私の仕草を謙遜と見たのか、体ごと振り向いた土方さんは大きな手でわしわしと頭を撫でてくれた。結った髪が乱れたりはしなかったけど、頭を撫でるなんて原田さんくらいだったから、ちょっとびっくりしてしまう。驚いて顔を上げた私を、土方さんはくつくつと笑った。 「褒めてんだ。素直に喜べばいいんだよ」 「は、はいっ!」 それでいい、とうなずいた土方さんは「それにしても」と言葉を続ける。父親の肩揉みをしてたにしちゃあ手馴れたもんだなと言われて、私は曖昧に首肯した。 「父の患者さんには、年配の方も多かったので。父の見よう見まねですけど」 「処置経験済みか。なるほどな」 「足の裏を踏んだり、背中の凝りをほぐしたり、あと、手のひらを揉んだりとか……」 処置を終えて帰ってきた父様の肩揉みだってしていた。遠くまで足を運んだ日には腰や背骨の周りをほぐして、もっとずっと幼い頃はお風呂で背中を流すのも好きだった。さすがにここ数年は一人でお風呂へ入っていたけれど、こうして会えなくなると分かっていたら、ずっと背中を流していたかったかもしれない。 優しい父様のことを思い出して、少し目が熱くなる。土方さんが優しいせいか、雨の湿った空気のせいか、気が弱っているのかもしれない。土方さんに気づかれないよう、そっと俯いてゆっくりと深呼吸する。すぐに顔を上げて土方さんを見返したけれど、そのときには悲しい気持ちは胸のうちに沈みこんでいた。 「ほう、一通り出来んじゃねぇか。大したもんだな」 「まだまだ未熟です。本腰を入れての勉強もきちんと出来ていなかったですし……」 「なら今からすりゃあいいだろう。山崎の手伝いもさせてるしな。あいつが持ってる本で良けりゃ、見せてもらうといい。俺が許可する。元々、大半は隊の金で買ったもんだしな」 「いいんですか?」 「怪我した隊士の手当てをさせてんだ。おまえが知識をつけりゃ、ひいては俺たちのためにもなるだろう」 新選組のお役に立てるなら、私としてもこれほど嬉しいことはない。思わず目を輝かせて土方さんを見上げると、ふいと目を逸らして湯飲みに手を伸ばした。ほとんど空の湯飲みを呷り、ズッと音を立てる。思わず笑みを浮かべた私を、ぎろりと鋭い視線が貫いた。 あぐらをかいて向かいに座る土方さんの、放り出されていた左手に手を伸ばす。土方さんは私の動きを確かに目で追っていたけれど、何も言わず、じっとしていた。それを了解と取って、そうっと両手で包み込む。ところどころまめの潰れた様子の、ごつごつとした手のひらを握ると、親指でぐっと押してみる。親指の付け根をぐりぐりと押せば、ふっと笑うような息が漏れた。 「やるなら思いっきりやれ。そんな力じゃくすぐったくてしょうがねえ」 「はい」 手のひら全体を抑えたり、放したり。血の巡りが良くなってきたのか、次第にほんのりと暖かく、また赤くなっていく手のひらを見つめる。 平時であれば筆を取り、事が起これば刀を取る。近藤さんを支え、新選組に集うみんなを支え、さらには私にまで差し伸べられる手だ。こうして触れさせてもらえるようになった、そのことを誇りに思う。 鬼の副長と恐れながらも、この人の力になりたいと願う隊士さんの気持ちがよく分かる。少しでも役に立ちたい。出来ることなら何でもやりたい。土方さんは、自然とそう思わせる人だ。 しばらくして無言のまま右の手が差し出され、私も黙ってその手を取った。 「おまえがうちへ来てまだそう経ってねえ頃、近藤さんの肩を揉んだことがあっただろう。あんときゃあ、部屋から出しちまってる連中に呆れたもんだが、……こうなると俺も文句は言えねえな」 「ご、ご存知だったんですか?」 「まあな」 思わず手を止めた私を、土方さんが視線でたしなめる。驚いた心地のまま、私は視線を土方さんの手のひらへと落とした。 それはまだ、私が屯所へ来てまもなくの頃。当時からみんなは何くれとなく私を気遣ってくれていて、土方さんも、今と変わりなく気に掛けてくれていたらしい。 いつだってそうだ。土方さんはみんなのことをちゃんと見守っている。遠くから、近くから、いつだって思う道を進めるよう均して、整えて、背を押してくれる。だからみんな土方さんを信頼し、頼り、悪ふざけという形で甘えてしまったりもするのだろう。土方さんがいるからこそ、近藤さんも自分の目指す未来だけを願って前へ進んでいけるのだ。 土方さんがいるから、大丈夫だ。土方さんなら、きっといい道を探してくれる。 優しく、穏やかな気持ちになって私は土方さんの手を包み込んだ。少し墨で汚れた右の手は、拒むことなくほんの少しだけ握り返してくれる。片方の手でも、私の両手を捕まえてしまえそうだ。 「どうした」 「……土方さんの手は、大きいなあと思って」 「そりゃ、おまえよりはな」 左の手がポンと私の前髪を抑えて、私は俯いたまま目を閉じた。しとしとと降り続く雨の音は、先ほどよりは幾分か雨脚が弱まったような気がする。 手から、額から、土方さんの手が離れていった。顔を上げれば、視線も離れている。 「もうじき巡察のやつらが戻ってくるだろ。やかましくなるまえに、これを終わらせる。出て行け」 「はい。ありがとうございました」 深々と頭を下げて空になっている湯飲みに手を伸ばすと、呆れ顔の土方さんが苦い顔で私を見下ろした。 「あの……お下げしては、いけませんか?」 「……いや、構わねえ」 首を傾げつつ湯飲みを預かって、今度こそぺこりと頭を下げて部屋を辞する。ふすまを閉める間際、土方さんがため息混じりに「おかしな女だよ、おまえは」と言うその口ぶりがやけに甘く柔らかなものに聞こえた。 流しへ湯飲みを片付けに行く道すがら、降り続く雨で湿気にけぶる庭に目を向ける。土も葉も、踏みしめる廊下の板張りでさえ湿り気を帯びていた。 私が物思いにふけってしまいそうな心地でいるのも、さっきまでの土方さんが優しいばかりだったのも、きっとこの長雨のせいだろう。 しとり濡れた目を拭わぬまま、静かに足を運ぶ。雨音とつかの間の穏やかさに包まれて、屯所はとても静かだった。
心を結んで、開いて
(10.02.13.) |