ひととせを共に





「ここにもいないか……」

 開いたばかりの襖をタンと閉め、斎藤はかぶりを振った。先ほどから千鶴を探し歩いているのだが、どうにも姿が見当たらない。玄関にいた隊士に尋ねても知らぬといい、部屋には居らず、しばし待ったが戻らないところを見ると手洗いということでもないのだろう。道場にも井戸端にもいなかった。洗濯物を干しているわけでもなく、どこぞの廊下を拭いているということもなさそうだ。
 これは誰かに尋ねたほうが早いだろう。そう思いながら歩いていた先で、庭で素振りをする平助の姿を見つけた。びゅっと振り下ろした切っ先は平素の彼より鈍って見え、それもそのはず、平助はびっしょりと汗を掻いている。長くここで鍛錬を続けていたのだろう。道場では隊士の面倒を見ねばならず、一人で稽古をと思えばこんな場所を選んだのも頷ける。
 気を散らさせるのも悪いかと歩みを緩めた斎藤であったが、寸前、平助がこちらへ振り返った。どうやら神経を張り詰め集中していたが故に、他人の気配にも過敏であったらしい。
 ぎろりと剣呑な光は斎藤を映すとすぐに消え、どこか気の抜けた様子でため息をついた。

「なんだ、一君か」
「すまない。邪魔をした」
「いや、いいよ。そろそろ休憩入れようと思ってたとこだし」

 からからと笑った平助は、草履を地に擦りながら濡れ縁に近づく。鍛錬用の袴も胴着も汗で色濃く染まっており、放ってあった手拭いで首周りを拭うと水筒を傾けた。その喉が上下するのを見届け、ぷは、と一息ついたところで尋ねる。

「千鶴を見なかったか? 部屋も屯所内もあらかた見たが、見当たらん」
「千鶴かぁ…朝飯んときに会ったっきり見てねえなあ。少なくとも俺がいる間はこの辺りには誰も来てないと思うぜ」
「……そうか」

 そう言うのなら、確かに誰も近づいていないのだろう。斎藤の気配に気付くくらいだ、他の隊士にも気付かないとは思えない。
 庭には近づいていないらしい。
 可能性を絞り込んだ斎藤は、平助に礼を言って再び歩みを進めた。





「千鶴がここに?」
「ああ。どんくらい前だったかな……茶を入れててな。茶菓子を探してるっていうんで、そこの上の棚のやつを渡してやったぜ」
「ついでに俺たちの分も茶ぁ入れてくれたんだ。それで、こうして今日の政をだな……」
「なるほど、油を売っていたのだな」

 苦笑いで保身を図った新八をばっさりと切り捨てた斎藤は、ふむと拱手して首を傾げる。
 原田と新八が言うには、二人が来たときには既に茶の用意は出来ていて、どこぞへ運ぼうとしていたらしい。千鶴が誰かに頼まれて茶を運ぶのはよく見かける光景であるから、二人も特に気にすることなく見送ったらしい。それはまあ、致し方ないだろう。
 茶菓子を用意したとなると自分自身のためではなかろう。千鶴は庭を通らず、誰かのために茶を運んだ、ということらしい。

「おまえたちはずっとここにいたのか?」
「いや、俺は稽古つけてからだ。新八は朝飯の片付けからこっち、ずっとだよな?」
「今日は昼も俺の当番だからな。芋の皮を剥いてたんだよ。……まあ、今はちっとサボってるが」

 千鶴がいれたという茶はとうになくなり、空のはずの湯飲みからは酒気が漂っている。やれやれと肩を竦めた斎藤は、それ以上小言を続ける気にもならず厨を後にした。





 千鶴が茶を淹れていた、というのはなかなか心強い情報ではあった。茶菓子を添えて持っていくような相手なら、いくらか絞り込めるからだ。茶請けが菓子であることを考えると――。

「どうしたの、一君。こわい顔してるね」
「……総司」

 薄っすらと目を細め、にんまりと笑った沖田は面白いものでも見たような顔で近づいてくる。風邪が長引き、このところ沖田は自室で休んでいることが多い。もっと正しく言うなら、そうするよう命じられている。つまり、廊下で出くわすのはおかしなことである。
 何故、と口を開こうとする斎藤を制し、沖田はひらりと手を振って見せた。

「部屋に戻れっていうのはナシだよ。僕だってお茶くらい飲みたいんです」

 そう言った沖田の、下げたままの手には湯飲みが握られていた。千鶴が持っていったのはてっきり沖田だと踏んでいた斎藤は、心当たりが外れて少し面食らう。
 千鶴に茶を淹れるよう頼み、ついでに菓子を茶請けに。とくれば当然沖田だろうと思っていた。千鶴は医学の知識があるため沖田の様子を診ることもあった。きっとまたその調子で呼ばれたのだとばかり考えていたのだ。

「千鶴ちゃんに頼もうと思ったけど、急いでどこかへ言っちゃったしね。お茶も淹れた後だったみたいだし、なら、まだお湯が残ってるかと思って」
「見かけたのか?」
「うん。お盆に湯飲みを載せて、あっちからこっちに。さーって」

 人差し指がついと動く先を追えば、幹部たちの部屋が続くこの辺りの、更に奥だ。
 それでもいつもの沖田ならお構いなしに邪魔しそうなものだが、ゆっくりと深呼吸をしていたりするところを見るに、気分転換も兼ねてのことなのだろう。何もせず寝ているだけというのは気が滅入るものだ。茶を飲んで戻るくらいなら身体にも障らぬだろう。

「見かけたら、俺が探していたと伝えてくれ。あんたは茶を飲んだら部屋に戻れ」
「はいはい。……出掛けに近藤さんにも言われたしね。もう少し大人しくしておくよ」

 背を向けた沖田が、斎藤の今来た道を辿って去っていく。静かにそれを見送った斎藤は、続く廊下の奥へじっと視線を差し向けた。





 濡れ縁へと上がる石段にしゃがみこんでいる者がいる。無意識に鯉口へと手を掛けたが、ひょいと立ち上がった彼が山崎であると知るとその手を下ろした。見れば、草履をいくつか揃えて置いていたらしい。誰ぞ庭から直接上がりこんだ際に放り出しでもしたのだろうか。

「ああ、斎藤さん。雪村君を見ませんでしたか?」
「……いや、俺も探していたところだ。何か用があったのか?」
「いえ、特に用ではありません。ただ、草履が風で飛ばされていたものですから、こうして持ってきたんです。外に出るなら、もしかしたら探しているかもしれないかと思いましたので」

 ここに置いたと伝えようかと、と続けた山崎が下げた視線の先に、なるほど、小さな草履が置かれている。そこにあるということは、やはり千鶴は外を出歩いている訳ではないのだろう。草履がこれ一つしかない訳ではないが、屯所の備品を出すとなれば誰かしらに声をかけるに決まっている。それがない以上、素直に屋内にいると考えるのが妥当だ。
 山崎自身が千鶴を探しているという話だから、見かけなかったかと聞くのは意味がない。互いに見かけたら言付けるよう頼むかと思案したとき、からりと傍近くの戸が開いた。

「なんだおまえら、人の部屋の前で。何か用か?」
「副長。すみません、千鶴を探しているのですが、ご存知ありませんか」
「千鶴?」

 怪訝に眉をひそめた土方が軽く首を傾げる。副長室から出てきたところであるから、見かけたという可能性は低いだろう。土方が千鶴の所在を知っているとすれば、茶の届け先がここであるか、あるいは彼から何らかの指示が出ているかだ。
 しかし。

「見てねえな。あいつがどうかしたのか」
「いえ……大した用ではないのですが」
「俺は、草履が風に飛ばされているのを見つけたので、ここに置いたと知らせようかと」

 他の方のところを当たってきます、と告げて山崎が踵を返す。颯爽と遠ざかる姿を何とはなしに見つめた斎藤は、不思議に思って首を捻った。
 千鶴の行動に最早制限は掛かっていないも同然だが、しかし捉えた浪人を吐かせる場であるとか、山南の私室であるとか、やはり踏み込めぬ場所というのは存在している。そこには近づかぬよう言い聞かせているし、実際彼女がその辺りへ行くことはまず考えられないことだ。
 しかし、これでもう粗方の心当たりは当たってしまった。平助が言うには庭には出ていないようだし、山崎が草履を拾っている以上外にいるとも思えない。原田は茶菓子を渡したという。新八は千鶴の入れた茶を飲んでいる。沖田はこの辺りへと向かう千鶴の姿を見ていた。しかし土方は知らないという。では、千鶴はどこへ行ったというのだろう。これだけ聞きまわったのだ。もしすれ違ったのだとしても、「斎藤が探していた」という情報は伝わるはず。しかし、ここへ近づいてくるような気配は一切感じられない。
 おかしい。全員の話が真実であるなら、千鶴の所在が知れてもいいはずだというのに――――

 はた、と気付いた。
 この中で、誰か一人でも嘘をついていたら?

 ぐるりとこれまでの応酬を思い返す。
 どこかで矛盾が生じていたのかもしれない。誰を虚実だと仮定すれば、居場所が推測できる?
 瞑目した斎藤は、やがてゆっくりと目を開く。





 嘘をついているのは――


 平助

 原田・永倉

 沖田

 山崎

 土方





 仕事を邪魔した詫びを告げ、土方の前を離れた斎藤は濡れ縁を下りた。庭へ下り、ぐるりと建物を迂回する。
 順を追って考えても、やはり千鶴がいそうな場所といえば自室か庭先だ。掃き掃除であるとか、洗濯物を干すのだって庭は横切ることになる。それを「ずっと見ていない」と平助は言い切った。嘘だとまでは言わないが、勘違いであったり、気付かなかったという可能性もなくはない。
 引き返した斎藤は、平助の元へと足を向けた。

「え、まだ見つかってねえの?」
「ああ……。あの後も、見ていないのだな?」
「うん。ここで休憩して、んでまた今まで軽くやってたんだけど。俺の隊のやつがちょっと来ただけで、千鶴は見てないぜ。ったく、どこいっちまったんだか……」

 心配だな、と続けた平助に頷いて答え、斎藤はこれまでの話をかいつまんで説明する。平助が嘘をついているという可能性は低いだろう。山崎が草履を拾っている以上、足袋のまま外をうろつくようなことは考えられない。だいたい、千鶴は茶を運んでいったのだ。そもそも庭に下りる必要もない。

 考え直しか、と斎藤は再び思案を巡らせる。
 平助は嘘などついていないだろう。どのみち、千鶴が庭へ下りたとは考えにくい。
 それでは、一体誰が嘘をついているのだろうか。


 →考え直す





 仕事を邪魔した詫びを告げ、土方の前を離れた斎藤は急ぎ身を翻した。誰かが嘘を、と考えたとき、嘘が一番ばれにくいのは、と思い至ったのだ。嘘は真実の中で浮き彫りになり、出る杭となって目に留まる。であれば、嘘の中に嘘を隠すのが良い。嘘をつく者が多ければ、真実のほうが霞んでくることもある。
 新八一人では嘘をつくのは難しいだろう。馬鹿ではないが、彼は実直で裏表の少ない男だ。後ろ暗いところのない生き方を望む。故に嘘が下手なのだ。口の回るほうでもない。
 しかし、原田が共にいれば別だ。原田こそ、竹を割ったようなさっぱりとした気性である。故に新八とも気が合うのだろうが、しかし新八とは大きく異なる点がある。女に甘いところだ。
 何らかの理由で千鶴を助けてやろうと考えたのなら、原田は嘘だってつくだろう。仲間を庇うのは当然と、新八が口裏を合わせるのも想像に難くない。一人では重い嘘も、二人であれば誤魔化しようがあるというものだ。

「左之! 新八!」
「うぉわっ!? な、なんだよ?」
「千鶴は見つかったのか?」

 駆け込んだ厨に、果たして二人が居残っていた。既に茶は汲み終えたのか、ここへ足を向けたはずの沖田の姿はない。無論、千鶴の姿も。
 斎藤のしかめっ面に合点したのか、原田が眉をひそめる。

「なんだ、本当に見つからないのか? まだ探すんなら手伝うぜ」
「……あんたら、どこかに千鶴を隠している訳ではないだろうな?」
「はあ? 隠すって……ここにか?」

 きょろきょろと厨房を見渡した新八は、呆れたようにため息をついた。それもそのはず、新八が皮を剥いている芋やら、買い置きの野菜やらが大きな籠に入れられたままそこらに置かれており、人が一人隠れるような場所はどこにもない。火が落ちているならかまどの中にもぐりこむことも出来るかもしれないが、生憎、鉄瓶がゆらゆらと湯気を立てている。沖田が使ったのだろう。灰もまだ熱いに違いない。

「俺たちが千鶴を隠してどうするんだよ。大体、それならそれで、隠さなきゃならねえような千鶴を一人にはしておけねえだろ」

 肩を竦めて原田が言えば、確かに、それはその通りである。女に甘く、千鶴には殊更手を尽くしている原田のことだ。真実庇い立てせねばならないなら、こんなところで無駄話をするより彼女を連れてどこぞへ出かけたほうが余程安全というものだ。
 だいたい、二人の話が嘘ならば沖田が見たという千鶴はどこから茶を入れてきたというのか。

 思案が詰まった斎藤は、口を噤んで視線を落とす。
 この分では、嘘をついていたのはどうやら原田でも新八でもないらしい。
 それでは、一体誰が嘘をついているのだろうか。


 →考え直す





 仕事を邪魔した詫びを告げ、土方の前を離れた斎藤は一目散に駆け戻る。厨へと飛び込めば、やはりそこに沖田の姿があった。立って茶を啜りながら、原田と新八の話に相槌を打っている。

「総司!」
「うん? 千鶴ちゃんなら、こっちには来てないよ」
「……あんた、本当に千鶴の姿を見たのか?」

 これまでの全員の話を総合すると、千鶴の姿を実際に見たのはこの厨にいる者ばかりだ。しかし新八が後片付けと昼食の用意をしているのは隊務であるし、二人揃って嘘をつく理由もなければ、嘘の巧い二人でもない。
 けれど沖田はどうだ。口から先に出たのではと土方から怒鳴られていたこともあるほど、舌先三寸の容易い男だ。加えて、千鶴にはどうも何くれとなく手を出し口を出し、と構い倒す節がある。
 剣呑に睨んだ斎藤をきょとんと見返した沖田に、これまでの経緯を伝えてみせる。すると、斎藤の疑心を沖田は鼻先で笑い飛ばした。

「仮に僕が嘘をついていたとしてだよ? 庭じゃなくて、外にも出てなくて、お茶を汲んでお茶菓子持った千鶴ちゃんは一体どこへ行ったの? 土方さんも見てないんでしょう? まさか、脱走でもしたって訳?」
「……あんたの部屋に、」
「あのねえ。だったら僕、自分でお茶入れになんかこないよ。気晴らしにはなるけど、出歩いてたら土方さんとか一君がウルサイしね」
「う……」

 確かに言うとおりだ。沖田が嘘をついていたとしたら、今度こそ本当に千鶴の行方が分からない。他の幹部には平助に会う前に顔を合わせているのだ。ますます謎が深まるだけになってしまう。

「……すまない」
「いいけどね。じゃあ、そろそろ僕は部屋に戻ろうかな。千鶴ちゃんを見かけたら、伝えておくよ。一君が血相変えて探し回ってたよってね」

 返す言葉もなく肩を落とした斎藤は、改めて頭を捻る。
 嘘をついていたのは沖田ではないのだろう。それでは、一体誰が?


 →考え直す





 仕事を邪魔した詫びを告げ、土方の前を離れた斎藤は立ち去った背を追った。そも、山崎の言う草履が本当に千鶴のものかどうかなど分からない。よく見もしなかった。ともあれ、山崎にはもう少し話を聞いたほうがよさそうだ。あれをどこで拾ったのか分かれば、まだ探しようもあるかもしれない。
 ほどなくして見つけた山崎は、沖田を部屋へ追い立てているところだった。どうやら茶を飲んですぐ部屋に戻った訳ではなかったらしい。やはりか、と半ば呆れつつ近づいた。

「山崎、少しいいか。千鶴のことなんだが……」
「まだ見つからないのですか? 俺もまだ見かけていませんが」
「何、山崎君も探してたの? 千鶴ちゃんならこの奥へ行くのを見たけど」

 廊下の奥を指差す沖田にかぶりを振って見せる。

「いや、行ってみたが副長はご存じないご様子だった。局長は出かけているし、井上さんは巡察に出ている。千鶴が茶を持っていくような知り合いは、俺たちのほかにいないだろうしな」
「ふうん……ま、お腹が空いたら出てくるんじゃない?」
「……犬猫ではないんですから」

 むっとした様子で口を挟んだ山崎は、記憶を探るように視線をさ迷わせると、頭を捻った。

「しかし、斎藤さんのお話を伺う限りでは、やはり幹部の誰かに会いに行ったように聞こえますが……」
「僕らじゃなくて、土方さんでもない。でも他には相手がいない。左之さんたちに出すお茶なら、僕が見かけるはずもないしねえ」

 三人ではてと首を傾げたが、寄ったところでこの面子では文殊ほども知恵は出そうにない。
 仮に山崎が嘘をついていたとして、では千鶴は外に出たのだろうか。茶を持って、庭も玄関も通らず、一体どこへ行くというのだ。

 思案が詰まった斎藤は、口を噤んで視線を落とす。
 山崎ではないとすれば、それでは一体誰が嘘をついているのだろうか。


 →考え直す





「そういえば、土方さん――」

 ふと、斎藤は土方へと振り返った。副長室から出てきた土方は、山崎を見送った後もそこにいて、何をするでもない。山崎と斎藤の話し声を聞いて出てきたのなら、理由が分かり、もう一方が立ち去った以上もはや何を気にする必要もないだろう。部屋へ戻っても構わないはずだ。しかし、斎藤の動向を見極めるかのように土方はそこにいる。寝る間も惜しんで忙しく働く彼が、だ。

「千鶴は茶をこちらへ運んできたそうです。茶を入れるところを左之と新八が見ていますし、運んでいるところは総司が目撃しています。まず間違いないでしょう。山崎の話では草履が転がっていたということですから、それを履いて外へ出たということもないでしょうし、ずっと庭で鍛錬をしていたと言っている平助は、一度も千鶴を見ていないと言います。自室にもいませんし、玄関も、洗濯場も、井戸端も回りましたがどこにもいませんでした」
「……で? そこまでして探してるおまえは、あいつに何の用があるんだ」
「――これを」

 袂へ手を入れた斎藤は、小さな包みを取り出し土方に手渡した。じんわりと伝わる熱にまばたいた土方へと、斎藤は緩やかな笑みを見せる。

「鍛冶に出していた刀を取りに出たのですが、帰りがけに見かけて買ってきたものです。今ならまださめてはおりませんので、どうぞ。副長にもと思いまして」

 白い紙包みを開いて覗けば、柔らかな薄皮から甘い香りが漂う。小さな饅頭だった。何かを言いかけて口を開いた土方が、しかし何も言わないまま口を閉ざす。
 斎藤は土方から目をそらし、庭木を眺めた。

「千鶴が見つかるころには覚めているかもしれませんが、……暖かい茶の共にすれば、食えないことはないでしょう」
「……分かった。もらっておく」

 包みの中身は二つきりだ。元が何個であったのかは分からないが、残りが土方と千鶴の分であることには変わりない。
 頷いた土方に小さく応えを返した斎藤は、大人しく踵を返した。荷物を渡してしまった以上、最早自分に出来ることなどない。所在は確かに気になるが、おそらくの検討はついた。そこが、斎藤の考えうる限りこの上なく安全な場所であるから、それ以上追求する気にはなれなかったのだ。

 やがて会釈一つで背を向けた斎藤の姿が遠く消えると、土方はやれやれとため息をついた。悪いことをしてしまったような気がするが、許せ、と内心思うのみに留める。部屋へ戻り、襖を閉めると小さな衝立の影を覗き込んだ。
 気を利かせて茶を運んできてくれたはいいが、待たせたまま少し席を外したその隙に眠り込んでしまったのである。隊士と違って明確な仕事もなければ休みも決まっていない千鶴は、休めと言わなければ際限なく働いてしまうのだろう。雑務といえど多岐にわたる。千鶴に任せている部分は、付き合いが長くなるにつれてあれこれと増えてしまっていた。
 居眠りで熟睡してしまうほど疲れさせていたことに気付かなかった。それは土方も、他の幹部たちも同様なのだろう。もし気付いていたのであれば、誰かが無理にでも休ませていたに違いない。そうして気遣われるだけ、千鶴は大切に想われている。欠かせない存在になってしまっているのだ。
 どこか、皮肉な話ではある。千鶴の立場を思えば自分たちの庇護など、なければ困るだろうが、あったらあったでやっかいなものだ。一刻も早くここから放してやりたいものだが、現状それは叶わない。そして土方の見立てではおそらく、この先もきっと――――

「……千鶴」

 大事に守ってやれる訳でもない。菓子の一つ二つで全てを忘れられるほどの幼子でもない。それでも何かせずにはいられないのだ。誰もが彼女を心に留める。愛おしく思う。それだけの信頼を、千鶴は得ているのだ。
 遠く鳥のさえずる声が聞こえる。吹く風は強く、どこか荒々しい気配だ。秋が過ぎる前に嵐がくるやもしれない。その先に冬があり、春がある。その折々に千鶴がいる光景が容易く浮かんでしまう。そも、それが間違いである。
 間違いであるのだけれど、しかし、忘れ去ることも到底難しい。

「――難儀なことだよ、全く」

 ぬるくなりつつある饅頭を枕元に置いてやり、土方は文机の前へと腰を下ろした。まだまだやらねばならない仕事は山積みなのだ。整理も、仕分けも、今日は千鶴の手を借りるわけには行かない。茶だって出てこない。

「まあ……たまには、な」

 饅頭から漂うささやかな甘い香りを鼻先に感じながら、土方は再び筆を手に取った。







(2010.11.07.)