暗中模索



「ぬしにコレをな、知らせておこうと思ったのよ」

 気持ちばかりの夕餉を終えた三成を捉まえたのは、食休みに付き合えと言う大谷だった。杖を突いてゆったりと歩く大谷の背について、殊更慎重に歩みを緩める。輿で進むのとは訳が違う。歩幅の違いをうまく合わせられぬまま、気付けば大谷の室へと辿り着いていた。
 そうして座布団を二枚出した大谷と向かい合って座り、彼が出してきたのが目前の文箱である。
 見たところ何の変哲もない、黒い文箱だ。表面には螺鈿細工が施され、藤の花枝が縁を彩るさまが灯明の仄暗い明かりに煌き浮かんでいる。総螺鈿であれば唐の物など些かやかましく過多な装飾もあったが、大谷の手にしたそれは派手すぎず地味すぎず、実にいい品に見えた。大谷は物を見る目がある。敦賀の城も、調度など実にいい塩梅だ。季節の草花の話や旬の物の話になると、秀吉も黙って耳を貸すほどであった。
 それらを鼻にかけることもなく、うるさく押し付けることもない。無二の友は、まったく素晴らしい存在だった。三成にないものを多く持っていた。誇らしいことだった。
 包帯を巻いた大谷の指がするりと文箱の表面を撫で、蓋を取り上げる。静かな室の中、油の燃える音だけがじりりと耳障りだった。

「われからぬしへの”贈り物”よ。手持ちに沙汰なき時にでも見やれ」
「……どういうつもりだ」

 文箱の中身は折りたたまれた紙がいくつか綴じて納まっていた。表には「日毎為すべし」「失せ物求めし時に」などと書かれている。要するに、注意を重ねた書置きだった。
 声音に苛立ちを滲ませたのは、大谷に侮られたかと思ったからではなかった。大谷には実にあれこれと忠告を重ねられて日々を過ごしている。それがなければ嘗胆の先はないと、三成とて理解はしていた。言われて出来ることもあれば承服しかねることもある。それでも、大谷の助言はいつだって的確だ。
 日々続くそれを、どうして贈られねばならないのか。書き記し残さねば忘却するほどの阿呆でなし、大谷もそんなことは知っているだろう。ならば何故か。
 ヒ、ヒ、と喉の奥で笑った大谷が肩を揺らす。幾ばくか落ちた視線は一度ゆるりと瞼に遮られ、次いで目にするときにはスイと細められていた。

「こうして書き留めておけば、われが居らぬときもアンシンよ。不足はないほうが良かろ」
「私に手隙などない。貴様がいないのならば、戻るまで待つ」

 これまではそうだったのだ。それを今更変えてしまう意味などあるものか。
 大谷は始終三成と共にいる訳ではない。三成とて用を成すため大阪城を離れ自らの居城へ戻ることくらいある。これから先もそんなことはあるだろう。致し方ないことだ。それくらいの分別はある。無為に過ごすのは苦痛だが、家康を誅殺するため、待つべきときもあるだろう。
 だが、大谷は何とも応えず視線を廊下へと投げた。開いたままの襖の向こう、縁側の先に暗い夜の闇が広がっている。星が出ていないのだろう。夜目の利く三成にも、これといって何かを見出せはしない。

「ぬしであれば」

 静謐を打つ大谷の声はそこで一度途絶え、珍しく逡巡しているらしかった。三成はつくづく大谷を見る。頭巾の下、包帯から覗くまなこは暗く、光を宿さない。伏せている。腹が立った。

「太閤の左腕と謳われるぬしならば、太刀の閃き一つで首を六つ、八つ、刈り取るぬしのようにあれるのならば、われもこうはせぬのだがなァ」
「抜かせ。私は、貴様が血塗れるのを見たことがない」
「ヒヒッ……そうか。そうよなァ。なに、その分、われの数珠がようよう吸うておるわ。”血飲み子”よ、愛いものよ」
「戯れるな!」

 書置きを一つ掴むと、そのまま文箱に叩きつける。握り潰さなかったのは奇跡であった。文箱が自身のものであれば、容赦なく叩き斬っているところである。
 癇癪を起こした三成を見てヒィヒィと笑った大谷は、咳を一つこぼして頭を振った。

「ああ、すまぬ。スマヌ。しかし、分かるであろ。万一よ。企みを繰るは慣れたものとはいえ、万に一つがいつ何時降るやも知れぬ。ぬしなれば打ち払えようが、われではとても、とても」
「そんなことがあるものか。貴様が傷つくことは許さない。死は最もだ」
「……やれ、ぬしはほんに無理を言う」

 嘆息を落とし、肩を落とし、大谷は俯いた。暗がりに虹彩は見えない。
 部屋の外も、内も、明かりに乏しい。大谷の背後、部屋の隅の皿は火が落ちている。二人の間、文箱の横の灯明皿の火だけがゆらゆらと時折明かりを揺らしていた。
 灯明に照らされた大谷の顔は、目だけを出して後は布地に覆われている。四季を通し、彼には何くれとなく苦労があった。病身の苦難が如何ほどか、三成には分からない。起き上がれぬ日もあるのだから、碌々食わずとも動き回れる三成には到底知る由のないことだ。三成が寝ずに動き回るとき、大谷がそれを解しえぬのと同じこと。
 近頃は具合がよくないと聞いていた。であるから、今日も顔を合わせたのは夕餉が始めだ。いつものように夕餉に苦い顔をした三成へ、女中が「大谷様も重ねて仰られておりますので」と言い、それでようやっと人払いをやめたのかと知った。大谷がひょっこりと顔を覗かせたのはそのすぐ後だ。夕餉を共にと、いくつかの言葉で三成をからかい、宥めた後にそう言った。実に珍しい申し出だった。
 全てこの文箱の中身を受け取らせるためか。そう思えば、また腹が立った。大谷に腹を立てるのは、これもまた珍しいことである。
 碌でもない。書置きを睨み据える。

「諦念か」
「そうではない。われはぬしより幾分か年嵩ゆえ、川を渡るもまた早かろ」
「死は許さないと言っている!」
「三成……。よいか、われは」
「――分かった」

 恨めしく三成を見ていたまなこが丸く見開かれた。ぱちりぱちりと瞬くのを視界の端に留めつつ、文箱の書置きを掴んで広げる。見慣れた大谷の筆跡が続いていた。政務の書面は右筆に任せられようが、私用である。書き出しから末筆まで、よくよく見る友のそれであった。

 一つ。食事は日に二度取ること。食が進まねば間食を取ること。
 一つ。宵居をやめ、日の出まで眠ること。必ず布団を敷き、横になること。
 一つ。政務の多くは抱えぬこと。右筆衆なり、相応の役なり、振り分けるを役とすること。
 一つ。打倒徳川を目指す上、肝要なるは時節と心得ること。心胆寒からしめんと欲するなればこそ、周到に備えること。
 一つ。同盟の主とは近く、遠く、繋がりを絶たぬこと。殊に、毛利と真田には一目、二目置くこと。

 別段目新しい内容はない。静かに読み上げた三成は、残りを黙読して次の文を開いた。
 治水から租税の符合の図り方まで、大谷のやり方がつらつらと続いている。秀吉が存命であった頃より三成の補佐は大谷が引き受けることもあった。実に効率的で、分かりやすい。目を走らせ、次々に文を開いて落とす。
 そんな三成の様子を、大谷はいぶかしんで見つめるばかりだ。

 幾ばくか時が過ぎた。灯明皿の火が揺れている。

「読んだぞ」
「……あ、ああ」

 とうとう最後の一つを畳み、文箱の横に落とした全ての紙束とまとめて持つ。大谷が頷くのを見届け、手にした全てを引き裂いた。

「み、三成! 何を……」

 幾分か硬くはあったが、力任せに破いていく。縦に、横に、乱雑に裂いていく。火鉢があれば灯明皿から火を取るところだが、生憎そんな用意はない。紙屑と化したそれを文箱に収めると、蓋をして押し返した。

「全て目を通した」

 フンと鼻を鳴らせば、大谷は腹の底から大きなため息をついて首を振る。

「まったく、ぬしは……」
「家康を殺す為だ。貴様の言は気に留める。だが、忠言を遺すなど許しはしない」

 淀みのない、正しく諦念の満ちた嘆息が出された。だが、それ以外に言葉はない。暗黙は了であると心得、三成は腰を上げた。
 脇差を手に縁を越えれば、渡りは冷やりと足裏を舐める。夜は深く、闇は空を塗りつぶしていた。大谷の好む星見は叶うまい。三成ほどは夜目の聞かぬ身には、暗夜の帳は重過ぎる。
 振り返り、襖に手を掛けた三成は今一度大谷の暗い眼を見据えた。着物の裾から覗く足は幾重にも包帯が巻かれ素足など臨めない上、白い足袋も履いていた。だが案ずるまでもなく、大谷はこの室を出ないだろう。漆黒では身を休めるよう、先の大谷宜しく三成も再三告げている。元より優れぬのであれば、今宵はもう眠るに違いない。近しく戦もない以上、明けの空を迎えるまで糸繰りに興じることもない。
 三成はといえば、しかし、この後眠るつもりなどなかった。大谷は三成に寝ろといい、三成も大谷に身を休めるよう言う。けれど、やはり互いに言い分を鵜呑みになどしないのだ。大阪の夜はいつだって暗く、冷たい。底のない沼のほうが幾分かましだ。泥土を割くことは出来るが、闇夜に刃を振るったとて、屠ることは叶わない。

「三成よ」

 じぃと見つめたまま動かぬ三成をどう思ったか、しばしの沈黙をもって大谷は言う。

「ゆめ忘れるな。書などいらぬと言うのであれば、それもよかろ。だが、忘れてはならぬ。ぬしの憤怒と業腹の共として、身の内に納めやれ」

 よいな、三成。
 続けた大谷の声音は平坦で、そこに別な意味があるのかどうか分からない。常と同じだ。

「……後のことは、これまで通り貴様に任せる」

 三成、と些か顔をしかめた大谷の言葉が紡がれるより早く、襖を閉ざした。灯明の小さな火が及ばなくなれば、三成は一人漆黒の中にいた。だが、三成は闇の中でも歩くことが出来る。返した踵に零れた嘆きが滲み寄るのを知りながら、とうとう振り返ることなく室に帰った。

 薄く残った油に火が揺れている。明日にはもう用を成さぬだろう。けれど三成は油を足さなかった。残った小さな焔に、鞘引いた刃が煌くのをただ静かに見つめる。
 大谷の言を忘れたことはない。豊臣に連なる総てを溢さぬよう、三成は苦心してその手水を抱いている。人は忘却する生き物だというが、三成はそれが許せない。大いなる主を忘れようとする世が憎くて仕方がない。なればこそ、かの主を知り、三成の思いの丈を知る大谷の言を忘れようはずもない。取るに足らないそれではないのだ。三成の骨ばった白い手に残された雫は決して多くはない。ひたひたと滴り落ちる雫を救おうとすれば全てが覆水と化す。ぽたり、ぽたり、手水に落ちる大谷の言の葉は無くせないものだ。漆黒の闇の中、踏みにじり進む三成の手に僅かに残るこれこそが、あの頃と繋がるよすがだ。
 言を忘れはしない。彼の喪失も拒絶する。如何な理由であれ、万に一つの可能性でも許しはしない。認められない。
 刃に咎を、鞘に贖いを。誓い、籠めるように刃を鞘に納めると、三成は何も見えない夜空を見つめる。
 全ての終わりの末、広がる先はまだこの夜と同じ深い闇の中だ。





(2012.02.20.)