竜の夜空に朔はなく



 別れは実にあっさりしていた。手綱を引いた三成は振り返らず馬車を走らせ、黒々とした箱馬車は見る間に爪先よりも小さくなる。然程の時も待たず、いずれ奥州を出ていくのだろう。天蓋の中には彼の友がおり、政宗の従者が半ば押し付けるように渡した野菜で溢れかえっているはずだった。病身に大怪我を負いながらも一命を取りとめたのは三成にとっては僥倖で、彼の行く末を案じる者々にとっても同じく安堵するところだった。

「行きましたか」

 共に見送っていた小十郎がそう言い、政宗は「ああ」と呟いた。
 行った。行ってしまった。先の豊臣との争いから続く禍根は関ヶ原での一件を終えてなお消えうせることはなく、この地を訪れた三成はやはり難しい顔をしたままだった。それは、伊達も同じこと。豊臣との戦では伊達軍も手酷い仕打ちを受けている。兵だけではない、民にだってその影響は出たのだ。諸手を挙げて歓迎することなど出来るはずもなかった。

「石田はこの先どうすると思う」
「……加賀に、」
「よすがを失ったアイツが、この先どう生きていくと思う」

 寄る辺は、きっとあったのだろう。豊臣秀吉。伊達にとっては怨敵だ。
 日ノ本にとって、とは言うまい。己の信念のため力を振るうのは、万人同じこと。「絆の力」を掲げる徳川にしてもそれは何ら変わりない。誰もが特別でなく、ただ信じるもののために力を振るい、足を進め、夜を越えて明日を望んだ。死んだ者も、生き残った者も。
 石田三成は生きている。同じ痛みを抱え共に歩んだ友を今度こそ失ってなるものかと、病み上がりであれば連れ回すは酷であろうに、馬車に乗せ同じ道程を進んでいる。関ヶ原で会した者を順に巡っているのだという。
 謝罪はなかった。互いにそれを望んでおらず、言う気もなかった。ただ顔を合わせて、当たり障りのない会話を少しだけ交わし、息災だと見つめた。命があることを確かめた。それだけだった。

「次が、あると思うか」

 言って、政宗は喉元を押さえる。震えた気がしたが、声音は常と変わりなく響いている。指先が、どこか頼りなく感じる。情など沸いていない。不安も恐怖もない。
 気が合うとは思えず、同情の余地もない。それでも刃を交えたものとして、彼のよすがを断ち切った者として、澄み切った瞳の奥底を覗いた者として――あるいは、近しい者の喪失に戦慄した覚えのある者として。

「……顔を合わせることはあるでしょう。政宗様が天を目指し続ける限り、きっと」
「天か」
「竜の爪折れるそのときまで、石田はあなたを見ている。『小蛇の無様』を、あれは許しますまい」

 天下泰平を望む徳川がいる。争いになるか、それはまだわからない。戦国の世はいまだ幕引きには早すぎた。国を持たず友と墓を守り、「幼きころのようだ」と大谷の言う穏やかな日を過ごす石田も、刀を手放してはいない。政宗が腑抜ければ明日も見ずこの首は落ちるに違いない。
 凶心と憎悪、哀惜、刹那の儚さを浮かべたあの紫紺の刃は常に政宗を取り巻いている。立ち止まりそうになればその煌きが足を走らせるのだろう。白銀の閃きは落ちる視線を許すまい。

「なら、天下を取ったら酒でも飲むか」
「奥州の米で酔わすも一興かと」
「Ha! Okay、そこはおまえといつきに任せる」
「はっ」

 もはや馬車は見えなかった。たんまりと積んだ食料は加賀で料理されて血肉となり、幾ばくかの縁となって三成を生かすのだろう。
 石田三成が生きている限り、歩みは一時の遊びも許されまい。元より抱える多くのしがらみに一滴、色濃い雫が落ちたのだ。儚き月は未だ地にある竜を見据えて静かに輝き続ける。暗夜など、天を望む竜が許すはずがなかった。





(2011.07.21.)